中村彝の遺言状。

 

 わたしに、中村彝アトリエがいまだ現存することを気づかせてくれたエッセイストの十返千鶴子さんClick!が、昨年暮れの12月20日に下落合の御留山の隣り、通称“権兵衛山”で亡くなった。85歳だった。十返さんが住む“権兵衛山”も、わたしの大好きな散歩コースのひとつでよく歩いている。心からご冥福をお祈りしたい。
  
 中村彝のアトリエClick!には、“定期便”があった。今村繁三Click!たち支援者からの食料品や手紙、おカネなどをとどけるために、自転車便が定期的にやってきた。支援の仲介を頼まれていたのは、池袋にあった成蹊学園(現・成蹊大学)の中村春二Click!だが、実際に支援の物資を運んでいたのは息子の中村秋一だった。1942年(昭和17)の『新美術』(旧・みづゑ)8月号に、彼の手記が掲載されている。
  
 私が始(ママ)めて彝さんの落合村のアトリエに出入したのは彝氏三十歳、私は十二の少年であり、それから彝氏が死ぬ迄の五年間が氏との短い交際、といふよりはむしろ「接触」であらう。父は病臥中の彝さんの好みさうなものを見つけると、当時池袋にあつた家から私を使に立てた。私は背の高い父の自転車に乗り、危(ママ)しい手つきでハンドルにしがみつき乍ら、目白のアトリエにいつた。彝は花野菜が好物で、ことに果実が好きだつた。画きかけの林檎を喰つちやつて弱つたよ、相憎(ママ)店に一つもないんだ、などゝよく私を笑はせた。手紙もあつたが、なかは金子らしく、落すでないぞ、と厳重に云ひつけられてゐた。
 赤瓦の古びたアトリエに入ると、いつも「老母像」のモデルで有名な婆さん(岡崎きい)が、おやおや御苦労さん、云ひながら出て来て包を受取つてくれた。  (中村秋一「中村彝のこと」より)
  
 中村彝は、医者にいつ診てもらっても余命2ヶ月と宣告されつづけており、2ヶ月をすぎると知り合いにごぼしては苦笑していた。でも、死期がそう遠くはないと考えていた彼は、ずいぶん前から遺言状をしたためていた。それによれば、彼のアトリエにある作品のすべてを今村繁三に、不動産いっさいの管理を中村春二に一任することになっていた。だが、遺言の相続人のうち中村春二が1924年(大正13)、彝よりも先に亡くなってしまう。彝にとっては、相続人が先に逝ってしまったのが、相当なショックだったようだ。『芸術の無限感』(1926年・大正15)に収められた、今村繁三あての「大正十三年三月八日」手紙の中で彝はこう書いている。ちなみに、中村秋一は『新美術』の中で、「大正十三年一月」の書簡だとしているが誤りだ。
  
 然し中村さんの死は私にとつては大打撃でした。前には中原に死なれて唯一人の弟を失ひ、今度は中村さんに死なれて唯一人の兄を失つた様な気がしました。今村さんと私との唯一の仲介者、物質や精神上の唯一の相談相手、ともすれば絶望に陥りがちな私の心の唯一の支持者を失つて、私は一時言ひ知れぬ寂しさと自棄の感に打たれましたが、未だ今村さんやよき友が生きて居ると思つて自分を慰めました。            (「大正十三年三月八日・今村繁三宛書簡」より)
  
 不動産の相続人が死亡してしまったため、彝は甥の中村正を改めて相続人にした。さらに、その後見人的な倶楽部のようなものが形成され、彝のアトリエをそのまま保存していくことが決められた。曾宮一念Click!鶴田吾郎Click!鈴木良三Click!、鈴木金平、小熊虎之助、岡崎興、多湖實輝たちだ。また、1929年(昭和4)になると、佐伯祐三アトリエに住んでいた画家仲間の鈴木誠Click!が引っ越してきて、彝アトリエは戦後もそのままの姿をとどめることになる。
 
  
 落合村にある彝のアトリエは、多分今でも保存されてゐる筈である。(中略) よく日の当る、手狭ではあつたが、仕事は充分できる手頃な仕事部屋で、屋敷町のなかの閑静な一画にあり、前にちよつとした芝生があつて、天気のよい日にはスリツパのまゝ庭へ下りて、籐椅子を出してスケッチしたり、読書したりしてゐる彝さんを私は屡々見かけたことがある。
 手入れをしないので、青々と生え繁つた植木の下をくゞると、青いペンキで塗られた玄関があり、案内を乞ふと、玄関のわきの小さな暗い部屋で針仕事をしてゐたらしい婆さんが顔を出す。いつもひつそりしてゐてコソとも音がしないのは、私の使ひする午後のその時間が、静臥の時間に当てられてゐたからであらう。                          (中村秋一「中村彝のこと」より)
  
 晩年の彝は、1日に1~2時間ベッドから離れて、憑かれたようにキャンバスへと向かっていたようだ。タバコ(!)をふかしながら、モデルと談笑することもあったらしい。はたから見学していた少年の目には、ごく平凡な画家の平凡な仕事ぶりClick!と映っていたようだ。
 中村秋一の手記で目を引いたのは、彝はどこへでも絵を描いてしまうクセがあったらしく、菓子箱のフタやドアにも描かれていたという。特にアトリエのドアには、女性の肖像が描かれていた。現存するアトリエのドアをX線検査Click!すると、とある女性の面影が浮かび上がるかもしれない。その女性の顔とは、いったい誰だったのだろう? ひとりしかいない・・・ような気もするのだけれど。

■写真上:女性のポートレートか隠れているかもしれない、中村彝アトリエのドア。
■写真下は、結核なのに仕事の合い間に一服する中村彝。タバコを吸っている彝の写真はめずらしい。は、彝アトリエでポーズをとる馴染みのモデル「お島」。

この記事へのコメント

  • yuyu-museum

    中村彝の遺言や貴重な写真を見せていただきました。

    いつも、勉強になります。

    世界の近代都市、東京にこのような一角が残されているのですね。

    clickが楽しみです。
    2007年01月06日 20:17
  • ChinchikoPapa

    悠々美術館さん、おめでとうございます。
    うまくアトリエが保存できるとよいのですが、今年の桜が咲くころまでが正念場だと思います。いろいろな顔を持った、多面的な新宿(東京)を残せたらすばらしいですね。
    本年もよろしくお願いいたします。
    2007年01月07日 00:01
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年07月19日 18:21

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