中井駅の見えない妙正寺川沿い。

 

 この『下落合風景』は、目白崖線の下の風景だ。左手には、おそらく妙正寺川に架かっている橋が見えている。仮りに現在の下落合駅を基点にすると、大正末の時点でその東側には、このような風景は存在しなかったろう。神田川や妙正寺川沿いには、すでに住宅や工場がひしめいている。大正期に入ると、かなり早い時期から住宅が建ちはじめ、やがて神田川の水利を活かした染物工場や製薬工場、ワイナリー、鉄工所、製紙工場などが進出している。佐伯が下落合を描いた当時は、すでに工場の煙突が目立つ風景が拡がっていたに違いない。
 また、大正末には橋の架かっている位置も限定される。いまでは、神田川と妙正寺川ともに少し歩けば橋を渡ることができるが、当時は橋の数もかなり少なく、大きく迂回をしなければ対岸へは渡れなかった。もうひとつの課題は、当時の神田川と妙正寺川ともに、現在とはまったく異なる流れ方をしていたということだ。特に妙正寺川の整流化は、昭和10年代に入ってから本格化しているので、佐伯の描いた当時は、いまだ蛇行を繰り返す川筋だったろう。1936年(昭和11)の空中写真を見ると、いまの神田精養軒の東200mぐらいまで、整流化の工事が進捗していたのがわかる。
 大正末、下落合の妙正寺川に架かる橋は、公式には5つしか存在しなかった。東側から挙げると、いまの下落合駅前に架かっている「西ノ橋」、神田精養軒の先に架かる「昭和橋」(大正末の完成時には違う名称だったと思われる)、西武電気鉄道を越えて少し南側へ入り込んだところの「落合橋」、いまの中井駅前の寺斉橋、そして字御霊下のバッケが原Click!に架かっていた名前の不明な土橋。最後のバッケが原の橋周辺は、昭和10年代でさえ人家がほとんどないので、この風景とはハナから合致しない。寺斉橋から、七ノ坂の南西にあたるこのバッケが原の土橋までは橋が1本もなく、地元の人たちは対岸へ渡るのにずいぶん不便をしたようだ。当時、この不便さを解消するために、地元の島津家では私財を投じて、三ノ坂下あたりの妙正寺川へ橋を架けて寄進している。
 作品に描かれた道筋を見ると、川とほぼ並行してつづいており、電柱の立ち並び方からすると左へわずかにカーブしている。また、この道の途中には、左の川に架かる橋へと向かう道があるはずだ。正面には広場か畑のような空間が見え、そのあたりに橋へと向かう道路が横切っているようだ。河原には、住宅がぽつんぽつんと建ちはじめているが、左手前には畑が残っているように見える。これらの状況から、妙正寺川沿いの橋を1936年(昭和11)当時の空中写真で検証してみると、それらしい情景を寺斉橋の北側で見つけることができた。
のちに実物を日動画廊のご好意で間近に拝見し、朝日新聞社版『佐伯祐三前画集』のモノクロ画像とは本作の遠景がまったく異なる風景画であることが判明した。描画ポイントは、またしても「八島さんの前通り」(1927年6月ごろ)であり、詳細はこちらの記事Click!で。
 
 わたしは最初、この風景は以前に取り上げた「上落合の橋の附近」Click!の別バージョンだと考えた。でも、周囲の情景や家々の向きが合致しないのだ。大正末、すでに工場が周囲に建ちはじめていた、ひとつ上流の「落合橋」とも異なる。さらに上流の寺斉橋で、ようやくそれらしい風景を見出した。佐伯がこの作品を描いた当時、西武電気鉄道の線路は敷かれていたろうが、中井駅はまだ存在していない。道筋から観察すると、正面に見える空き地状のスペースが、のちに中井駅前の三角広場になる敷地だろう。
 このエリアも、下落合と上落合が入り組んだところだ。描かれた道の右手は下落合、左手の河原は上落合、正面の空き地から寺斉橋にかけては下落合、その先の川向こうは上落合・・・というように、あたかも歯車の歯のように、両地域が妙正寺川を挟んで凸凹に交差している。妙正寺川の整流化工事とともに、このように入り組んだ境界は少なくなっている。以前、旧・昭和橋の風景を制作メモClick!にある「上落合の橋の附近」(20号)としたけれど、こちらの『下落合風景』が当該作品になるのかもしれない。旧・昭和橋も地番的には上落合なら、寺斉橋も下落合に接した上落合だからだ。

 この作品に描かれた道は現在でも残ってはいるが、妙正寺川の整流化工事と西武線の中井駅設置のころに、改めて大規模な区画整理が行われたものか、道筋のかたちもずいぶん変わり、いまでは家々の間を縫う小路に変貌している。河原沿いの見晴らしのよかった道が、まるで路地のような風情に変わってしまった。以前にも、中井駅の北側と思われる「坂状の二叉路」Click!を描いた作品、あるいは「草津温泉」Click!の『下落合風景』でも感じたことだが、このあたりは鉄道の客車運行と河川の大規模な改修工事により、大きくさま変わりしているようだ。
 ひょっとすると、佐伯は二科賞を同期で受賞し、寺斉橋のたもと近くに住んでいた洋画家・林重義を、この風景を描くときに訪ねているのかもしれない。では、この『下落合風景』を描画ポイントClick!に追加しよう。

■写真上は佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)。道の遠方に、目白学園(城北学園)あたりの崖線(バッケ)が見えている。は、現在の同所。家々が迫り、見通しがまったくきかない。斜め左手のあたりに寺斉橋が架かっており、道の正面は駅前広場のなくなった中井駅が見えている。
●地図は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」。道に書きこまれた点線の、上が下落合で下が上落合。は、1929年(昭和4)の「豊多摩郡落合町全図」。字で「北川向」の記載が見える。
■写真下:中井駅付近を写した、1936年(昭和11)の空中写真。妙正寺川の流れが昔のままで、現在とは微妙に異なる。また、現在は存在しない中井駅の駅前広場が見えている。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kurakichiさん
    2016年02月08日 19:38

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