馬で遠乗りした近衛秀麿と鈴木三重吉。

近衛秀麿.jpg 

 鈴木三重吉が主宰した、大正期の児童向け雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)には、子供向けの童謡が数多く作詞作曲され、毎号に掲載された。作曲の監修をしたのは山田耕筰ということになっているが、そこには複雑な事情が絡んでいた。山田と近衛秀麿Click!の、オーケストラをめぐる激しい確執はもう少しあとの時代だけれど、近衛と成田為三との対立は深刻だった。
 鈴木三重吉が詩の監修を依頼したのは、三木露風だったといわれている。三木は、さっそく当時の新進気鋭だった北原白秋と西條八十を紹介して、ふたりは『赤い鳥』へ詩を寄せはじめる。同時に鈴木は、作曲家の紹介を日本作曲家協会の山田耕筰に頼んだらしい。東京音楽学校を出て音楽教師をしていた成田為三と、当時は帝大文学部にまだ在学中だった近衛のふたりが紹介された。両人は、隔月で交互に作曲し、『赤い鳥』ならではの童謡を仕上げていった。
 ほどなく、ふたりの対立が表面化してくる。成田が、『赤い鳥』の童謡を小学校唱歌の代わりと位置づけたのに対し、近衛は子供ばかりでなく、大人の歌唱にも耐える芸術歌曲でなければならない・・・と主張したのだ。大正期は、いわゆる“文部省唱歌”が不作だった時代で、その穴埋めを『赤い鳥』の童謡がしているような状況だった。だからこそ成田は、文部省に代わって自分たちが子供の心にとどく歌を創ろうと考えたに違いない。
 だが、近衛がめざしたのは、文部省や小学校といった狭いエリアでの作品ではなかった。世界的に通用する、日本ならではの歌曲の創造をめざしていたようだ。のちに、近衛はベルリン・フィルで、『赤い鳥』の「童謡」を積極的に取り上げていることからも、彼の想いがうかがえる。成田が“子供の歌”づくりをめざしたのに対し、近衛は“日本の歌”=新たな音楽ムーヴメントを志向していた。
 
 近衛秀麿は当時を回想して、次のように総括している。
  
 これ以前中国の古典の中でしか聞いたことのない「童謡」というものが日本で我々の前に新しい芸術運動として出現したことに、唯ならぬ新味を感じたのであった。比較的短い期間ではあったが、この新運動への参加中に、今日でも全国的な愛唱歌として流布されている白秋詩の「ちんちん千鳥」(子守唄)を始め十幾曲の新童謡を作曲する機会を与えられたことを深く感謝している。
                                    (近衛秀麿『「赤い鳥」回顧』より)
  
 これを読んでも、近衛が子供たちのためだけに歌を創ってなかった姿勢がうかがえる。ふたりの作曲家の対立を、鈴木三重吉はうまくコントロールできなかったようだ。「ウ~ンウ~ン」と腕組みでもして、若い作曲家たちの主張を聞いていたのだろうか。『赤い鳥』の読者ターゲットを、子供ばかりでなく親(大人)も射程に入れていた鈴木としては、よけいに判断しづらかったのだろう。
 

 その後、近衛と成田との関係は決裂したが、近衛と鈴木との付き合いは逆に深まったようだ。それは、ふたりが乗馬好きだったことによる。大正期、目白通りをはさんで学習院の向かいには、学習院馬場があった。いまでは、バッケ下の小さな馬場Click!となってしまったが、当時は広大な馬場が存在していた。下落合の近所に住んでいた鈴木を誘って、近衛は乗馬を楽しんでいたらしい。鈴木も乗馬が好きだったようで、ふたりで連れ立ってしばしば遠出もしたようだ。
  
 鈴木三重吉先生と僕との人間としてのお交際は、かなり深い処までいった。我々の住居が、いずれも目白駅附近で、歩いて数分の、近距離であったことからかも知れない。僕は、後輩として並々ならず可愛がっていただいたと思う。
 (中略)目白駅の附近には、学習院の馬場があった。特に学校の休暇中など、界隈の乗馬家達と共に遠乗りを試みたこともあった。鈴木三重吉氏に関しては乗馬の思い出の多い方々も少なくないと思う。(同上)
  

 ふたりが駆けた遠乗りとは、少し南に拡がっていた戸山ヶ原Click!あたりだろうか? それとも目白文化村の先に拡がる、葛ヶ谷(西落合)の風致地区だったのだろうか? 『赤い鳥』が創刊5年めを迎え、鈴木三重吉が充実した編集活動を行っていたさなか、1923年(大正12)2月に近衛秀麿は日本を去ることになる。

■写真上は近衛秀麿、は鈴木三重吉で、ともに乗馬好きだった。
■写真中は、1925年(大正14)の『赤い鳥』7月号に掲載された「げんげの畑」(作詞・北原白秋/作曲・成田為三)。は、赤い鳥社がシリーズで出版した「赤い鳥童謡」集の広告。
■写真下は、『赤い鳥』の童謡も演奏されたベルリン・フィルを指揮する近衛秀麿。は、大正後期に近衛邸のあったあたり(左手)で、目白中学校Click!も建っていた。正面は目白聖公会。
●地図:1926年(大正15)「高田町北部住宅明細図」に描かれた、目白通り沿いの学習院馬場。

この記事へのコメント

  • かもめ

    「赤い鳥」は図書館で資料として見たかな?。大正7年というと亡父もまだ生まれてませんね(笑)。スペイン風邪が流行ったのがこの頃でしょうか。父の年代でも学校卒業と同時に小僧に出され、給金は親が前借で持ってゆくのが当たり前。ロクな食事も寝床もなく、借金に縛られ、狭い地方都市では逃げるところもなく、何やら“山椒太夫”の世界だったようです。
     馬で散策とはさすがに子爵。“おやかたさま”とお呼びしたのでしょうか? 童話や童謡などは、やはり上流階級だけだったかな。近衛秀麿という名は音楽家でも指揮者と思ってました。NHK交響楽団とセットで覚えています。写真の指揮台、高いですね。ベルリン・フィルは自費で雇われたのかな。
     近くの駅名でも高田“馬場”と馬がつくくらいですから、馬場は多かったのでしょう。この後、世界的に経済は悪化するし戦争は次々起こるし。束の間の平和な光景だったような気がします。
    2006年12月06日 13:04
  • ChinchikoPapa

    『赤い鳥』の読者は、いいとこのお坊ちゃんお嬢ちゃんが多かったんでしょうね。親へ向けた広告の打ち方でも、また読者からの投稿欄でも、そんな雰囲気がしています。ただ、広告のひとつに「大日本国民中學會」という、当時の中学通信教育の団体が連載されているのが目を惹きます。小学校しか出ていない、会社や店舗の小僧さん向けの広告らしく、通信教育を受ければ中学卒業の資格が得られる、そしてその先も・・・というものですね。これが、しつこいほど毎号掲載されていますので、地域ごとの販売部数などをにらみつつ、マーケティングのうまそうな鈴木三重吉が、欠かさずに広告取りをしていたのではないかと思います。だから、「もっと勉強したい!」と志の高かった小僧さんは、おそらく『赤い鳥』を読んでいたんじゃないかな・・・と想像しています。
    「おやかたさま」や「カッカ」は近衛文麿でしょうから、秀麿はなんて呼ばれていたんでしょうね。子供時代は「権(ごん)ちゃん」とか「権坊」というのが有名ですが・・・。ベルリンphは当時、信じられないことですが自費で雇えたんですよね。のちの近衛オーケストラの経営も含めて、いかに桁違いのおカネ持ちだったかがわかります。
    2006年12月06日 14:43
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年02月07日 15:37
  • 水谷川忠俊

    鈴木三重吉氏の左の写真は近衛秀麿ではありません。若死にした弟の近衛直麿です。
    2015年07月25日 02:12
  • カッカと親方お謂われ。

    夏、避暑に伊香保だか軽井沢に近衛一家が行っていた時、前の道で遊んでいた秀麿と直麿がに通りかかった巡査が『おい、お前たち、ここに近衛閣下が居られるのか』と聞いた。悪知恵の働く二人は巡査に『かっかなんてそんな変な奴は居ないぜ』といって家に帰り文麿に『やーいカッカだって』といてからかった。それが家族内のあだ名になった。凝り性の直麿がドイツ語の辞書で『kakka」はドイツ語で子供のうんちのことを言う』事を知りあだ名が定着した。
    秀麿は次男坊だからいつまでもお館住まいなのであだなになった。
    指揮者だから楽隊の親方と言う意味だと音楽家たちは思っているが‘「親方」ではなく、本当は「お館」なのである。
    2015年07月25日 03:08
  • ChinchikoPapa

    水谷川忠俊さん、コメントをありがとうございます。
    また、ごていねいにご指摘をありがとうございました。さっそく、写真を秀麿と差し換えました。兄弟だから当然ですが、若いころはどこか面影が似ていますね。ということは、参照した「赤い鳥」の資料自体も、誤って掲載しているということになります。w
    「kakka」のエピソードは面白いですね。下落合では本邸(1924年~/新邸)や隣接した別邸(1928年~)で、文麿と秀麿は同居しているようですが、その当時まで家内では「kakka」と呼ばれていたものでしょうか。
    秀麿は、定期的に学習院のオーケストラを指揮したり、近くの近衛町に建設された学習院昭和寮(1928年~)を訪れているようですが、その意味をドイツ語も含めて学生たちが知っていたら、陰で盛んに言われていたような気がします。w
    2015年07月25日 13:12

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