「里見くんのトナリ」の森田さんは誰?

 以前、「森た(田)さんのトナリ」Click!に描かれた、里見勝蔵の借家と思われる『下落合風景』をご紹介した。では、里見が下落合630番地に借りていた家の反対「トナリ」に住んでいた、佐伯が気やすく「さん」付けで呼ぶ「森田」とは、いったいどのような人物なのだろうか?
 調べてみて驚いた。この森田さんとは、佐伯祐三がヨーロッパでしばらくいっしょだった東京美術学校の英語教師で美術史家の森田亀之助だったのだ。のちに金沢美術工芸大学(短大時代含む)の学長を15年近くもつとめた、「学芸員の父」とも呼ばれる人物だ。佐伯一家はパリを離れたあと、森田らとともにイタリアを見物している。第1次渡仏時に、マルセイユ港から日本へもどる直前に行われたイタリア観光だ。そして、このふたりは東京美術学校における、先生と生徒の間柄でもある。佐伯の美術学校時代、森田は彼に講義をする教師陣のひとりだった。森田は、1928年(昭和3)に出た『美術新論』10月号の佐伯祐三追悼特集で、佐伯のことを次のように書いている。
  
 佐伯君と私とは年代が大分隔たつて居り、且つ美術学校では同君の教師であつたりしたわけだから、君僕程度のザツクバランな交際にならなかつたのだが、因縁は浅からず、東京市外下落合の御互の住宅も、巴里に於ける住所も近かつたので、比較的に相見る機会が多かつたのである。殊に巴里では佐伯君と奥さんとに色々親切な世話になつた。 (森田亀之助「佐伯君の追憶」より)
  
 
 出発点が学校での師弟関係だからか、ふたりはそれほど親密ではなかったと思われるが、それでもある日、森田亀之助は佐伯からこんな相談を持ちかけられなかっただろうか?
 「森田先生、里見勝蔵ちゅう絵描きの友人がおるんやけど、下落合に来たいゆうてまんのや」
 「里見君なら知っとるよ。わたしの教え子のひとりだ」
 「ああ、やっぱりそうでっか」
 「キミより、ひとつかふたつ上のクラスだったね。もっとも、個人的な付き合いはないがな」
 「そんなら話早いわ。どこかこのへんで、手頃な借家はおまへんやろか?」
 「アトリエ付きかい?」
 「いえ、普通の借家でええんです。そや、ボクのアトリエに近いほうがええんやけど・・・」
 「なら、うちのトナリがちょうど空いてるさ。そら、この裏の家だ」
 ・・・森田は、すかさずそう答えただろうか。こうして、下落合630番地の「森た(田)さんのトナリ」、つまり里見勝蔵が一時暮らしていた借家が、『下落合風景』の一作として描かれることになった。
 森田亀之助のケースでもそうだが、『下落合風景』シリーズClick!にはもうひとつ、気になる共通テーマが横たわっている。それは、描かれた風景の近くには、必ず佐伯の友人知人にあたる画家のアトリエ、あるいはすでに高名だった画家のアトリエがある・・・という点だ。大正末、下落合には画家や美術家はたくさん住んでいたのだから、どこかを描けば必ず近くには画家のアトリエが存在する・・・という、「佐伯も歩けばアトリエに当たる」式の見方もできるだろうが、それにしても偶然が多すぎるような気がしてならない。しかも、その周囲は作品が複数枚、まとめて描かれていることが多いのだ。
 
 「森た(田)さんのトナリ」・・・森田亀之助/里見勝蔵
 「セメントの坪(ヘイ)」ほか(諏訪谷)・・・曾宮一念
 「八島さんの前通り」ほか・・・佐伯自身のアトリエ/笠原吉太郎
 寺斉橋近くの中ノ道ほか・・・林重義
 「遠望の岡?」ほか・・・金山平三
 「墓のある風景」ほか・・・服部不二彦
 「上落合の橋の附近」・・・外山卯三郎
 「テニス」「タンク」ほか・・・宮本恒平
 「踏切」(ライトの小路)・・・安井曾太郎
 「上落合の橋附近」(寺斉橋)・・・林重義
のちに上記「上落合の橋の附近」を日動画廊のご好意で間近に拝見し、朝日新聞社版『佐伯祐三前画集』のモノクロ画像とは本作の遠景がまったく異なる風景画であることが判明した。描画ポイントは、またしても「八島さんの前通り」(1927年6月ごろ)であり、詳細はこちらの記事Click!で。
 まだまだある。ひょっとすると、知人友人のアトリエは気やすく訪問しながら、高名な画家のアトリエは様子を見るついでに、近くの風景を写生していたのではないかとさえ思えてくる。また、佐伯は描きたくなる風景に出あったり写生に興が乗ると興奮し、急に“大”をもよおす困ったクセがあったようだ。何人かの友人たちが、この奇妙な佐伯の性癖を報告している。パリ郊外では、ずいぶんと“野○ソ”をしたらしい。ヴラマンクにようやく色彩を褒められた帰り道、「ああ、もうあかん!」と言いながら里見勝蔵をおいて繁みへ飛びこんだりもしてる。パリの「公衆便所」を描いたのも、そんな性癖からだろうか?
 だから、ことさら友人知人のアトリエ近くに描きたい風景を求め、キャンバスに向かって興が乗りはじめたころ、トイレを借りに訪問していた・・・なんてこともあるのかもしれない。まさか、目白文化村やアビラ村の道端で“野○ソ”をするわけにはいかなかっただろう。同時期にパリにいた洋画家・鈴木誠は、1968年(昭和43)の『繪』11月号の中で述懐している。
  
 また或る時、俺はよい景色を見ると便意を催すくせがある、多分子供の時乳母にいつも美しい景色の話をしながらさせてもらったからだろう、と言っていたが、私もそれを聞いて以来風景の写生の時は出来れば必ず野糞をする習慣が出来て仕舞った。 (鈴木誠「下落合の佐伯祐三」より)
  
 この流れでいくと、中村彝のアトリエClick!近くを描いた『下落合風景』があってもいいように思うけれど、それらしい作品はまだ発見できないでいる。中村彝アトリエでは、いつも通り生理現象をもよおしたとしても、彝亡きあととはいえ気軽にトイレを借りるわけにはいかなかったろう。だから、林泉園に下りて・・・いや、もうやめとこう。

 さらに、奇妙なことに佐伯が好んで描くのは、開発途中の住宅造成地や道路が多い。こちらも、当時の下落合は新興住宅地だったのだから、どこもかしこも開発のさなかだったろう・・・という逆の見方ができる。「佐伯が歩けば工事に当たる」なのだが、それにしても、ちょうどただいま工事の真っ最中のエリアばかりを、ことさら選んで描いているような気がしてならない。これも、ひょっとすると近くの飯場のトイレが借りられたからだろうか?

■写真上:聖母坂をはさんで、左折すると佐伯祐三邸、右折すると森田亀之助邸と里見勝蔵邸があった。もちろん大正末には、聖母坂(補助45号線)も聖母病院も存在していない。
■写真中上は、竹澤基『森田亀之助像』(1948年)。は、1931年(昭和11)の森田邸上空。
■写真中下は、曾宮一念邸の前に口をあける諏訪谷Click!は、おなじみ佐伯アトリエ。
■写真下:目白崖線に拡がる、たそがれの下落合全景。西は第二文化村から、東は御留山まで。

この記事へのコメント

  • ものたがひ

    C.P.さま、こんばんは。630番地の「森たさん」が、森田亀之助であり、東京美術学校を通じて、佐伯祐三・里見勝蔵との繋がりがあることが判明してくると、何だか、このあたりの道を、彼らの交わす声が通り過ぎていく心地がいたします。
    その「森田さん」ですが、確かに、佐伯や里見より十何才か年長で、彼らが東京美術学校に在学していた頃、英語や西洋美術史の先生をしていました。でも、元はといえば、美校の西洋画科の先輩でもあるようですね。
    先生というと、鹿爪らしいイメージが浮かびますが、「森田さん」、具体的にはどんな方だったのでしょう…、と思ってちょっと調べてみました。別館G.M.作業室、番外編『亀之輔さんは、「鉛管踊り」』に、お寄り下さい。
    2006年10月26日 00:06
  • ChinchikoPapa

    ものたがひ先生、もうあまりにも怪しすぎる貴重な「鉛管踊り」の写真をありがとうございました。それにしても、誰が思いついたものか、なんともフォローのしようがない、文字通りしょうがない人たちですね。案のじょう、舞台前面の観覧スペースには誰もおらず、サーーッとうしろへ引いてったんだと思います。(爆!)
    森田亀之助は、東京美術学校に助手として残ったんですね。佐伯の滞欧中に接点があったのは、西洋美術を見学するためにパリやイタリアへ行ったものでしょうか。パリの佐伯家へ、茶漬けめあてに盛んに通ったようですね。
    2006年10月26日 00:38
  • ものたがひ

    「鉛管踊り」ですが、普段1926年か1927年にワープしておりますと、1903年は20年少々前の事という感じになりますね。43才の亀之助先生としては、ハタチの頃の活躍の証が出てきてしまって、笑っていらっしゃることでしょう。
    ところが、現在の時点から見ると、これは100年以上前の出来事…。「洋画」が日本に辛うじて定着してきた頃の事。当時の画学生にしてみたら、こんな大きなチューブに入った絵具を、おもいっきーーり使いたかったのでは!? 結構、健気な着想なのかもしれません。
    巴里の茶漬け…。これについては、C.P.さまのように、佐伯祐三も食卓で、ちゃんと写真をとっておいて呉れないことには、想像しにくいです(笑)。
    2006年10月26日 12:48
  • ChinchikoPapa

    100年も前の写真になりますか! 当時は油絵具をはじめ、画材道具はかなり高価だったんでしょうね。ある程度、おカネに余裕のある家庭じゃないと、美術学校へ通えなかったのでしょうか? 自分の好きな色のチューブをかぶっているとすると、森田亀之助は何色だったんでしょうね。
    まさか、いまでも芸大ではこんなことをやってたりして・・・。(爆!)
    2006年10月26日 22:27
  • ものたがひ

    まさかって…。どこかでイヴェントが無い日は無い今日、目立ちはしないですが…、いまでも東京芸大の芸術祭の時には、各科ごとの創作になるその年度の御神輿が出現し、上野公園を練り歩くそうですよ。今年はサンバ隊の先導まで付いたとか。(汗)
    各科ごとの祭神と仮装行列という1903年のアイテムが一体化し、さらに変容している、ということでしょうか…。
    2006年10月27日 12:33
  • ChinchikoPapa

    祭りのとき、“よりしろ”としての神輿に1日遷座するのは、油絵科では誰なのでしょう。1903年当時が羅負亜絵留命(ラファエルノミコト)だそうですから、いまはさしずめナカムラツネノミコトかサエキユウゾウノミコトなのでしょうか。「鉛管踊り」は、さすがに今はないですよね?(笑)
    2006年10月27日 13:10
  • ものたがひ

    (笑)すみません。そのような情報は、管見には入っていません。
    2006年10月27日 13:54
  • ChinchikoPapa

    さっそく拝見してきましたが、神輿が・・・ねえ。(爆!) 「美」の神が座していることになっているようですね。(^^;
    http://www.geidai.ac.jp/life/geisai/index.html
    サンバと綱引きの組み合わせが、なんとも唐突で楽しそうです。
    2006年10月27日 19:12
  • ものたがひ

    2006年の情報を、有難うございます。若者達、元気です! 
    1903年の情報を追加しますと、「展示」以外で校内に並べたてられたものは、六十有余の腰掛けに紙を貼って地口めいた風刺画を描き行灯に模したもの、刀剣其の他の武具をもって作った雲龍の飾り物、また「金屏風に描いた畫虎の逸出したるところ」とは虎の輪郭と座敷に印した足跡のみであったりして、ここは江戸時代か、と呆れるばかりの洒落、意匠のオンパレードなのです。美の祖を敬う主旨のはずの美校祭に、見世物が始めから混ざっていたのですね。1903年の東京「美術」学校と、2006年の芸大を結ぶ逞しい流れがある、と理解したいですが…。
    2006年10月27日 21:58
  • ChinchikoPapa

    なんとなく、江戸期の両国広小路か、明治の浅草の見世物小屋のような風情ですね。「刀剣其の他の武具をもって作った雲龍の飾り物」というのは、実際に見てみたくなりました。学生に触らせるぐらいの刀剣だから、たいした銘柄ではないような気もしますが・・・。
    確かに、2006年の「芸祭」には、「牛ほどの大きさの赤ん坊」とか「龍の化身となった大ナマズ」とか、どこか懐かしくもいかがわしい呼び込みの声が聞こえる、見世物の匂いが強くします。(笑)
    2006年10月27日 23:20

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