子規庵と出会い茶屋との人通り。

 谷中の崖線を下りて線路をこえると、そこは根岸。江戸郊外のほんとうに静かな落ち着いた里村で、「日暮ノ里」にちなんで駅名が日暮里(にっぽり)なんて付けられたりする。また、江戸期から「呉竹の根岸里」などとも呼ばれた、風流な土地柄なのだ。そこには、趣味の深い風流な画家や風流好みの文人が集って暮らしていた。正岡子規もそのひとり。子供のころ、国語の教科書に登場した子規の『病牀六尺』や『仰臥漫録』も、ここで著されている。周囲の静かでのどかな風情の中で、子規は自宅療養をつづけて身体の回復を願ったものだろう。
 ごく近くには、子規の親友で日本新聞社の同僚だった、洋画家で書家の中村不折の自宅もあった。子規に絵の具をプレゼントしたのは不折で、以来、子規は独特な味わいのある絵も描くようになる。中村不折は長い間、太平洋画会研究所の講師をつとめ、中村彝Click!中原悌二郎Click!松本竣介Click!など、下落合に関連の深い後進画家たちの指導にあたっている。また、不折は荻原守衛(碌山)と同時期にフランスへ留学し、帰国後は新宿の中村屋サロンにも出入していた。相馬夫妻の「中村」好みからか、現在の「新宿中村屋」の社名ロゴタイプは不折の仕事だ。

 正岡子規が根岸に自宅を構えたころ、周辺ではウグイスの声の「啼き合わせ」会などが開かれ、江戸期にも増して風流な趣味の流行る土地柄となっていた。「根岸三鳥」という言葉が残っているが、ここはウグイスにヒバリ、ツルの名所だったことに由来する。さっそく、子規の自宅(子規庵)を訪ねてみると・・・。もともとの自宅は戦災で焼けているので、現在の建物は戦後に復元されたものだけれど、それでも充分に風情のある日本家屋だ。庭先の棚には、お約束の大きなヘチマも成っていて、秋の風にかすかに揺れている。下落合の会津八一Click!が、何度も訪れたわけがわかったような気がする。なにからなにまで、会津好みの雰囲気なのだ。「法隆寺茶店に憩ひて~柿くへば鐘がなるなり法隆寺」の書を見て、会津は腕を組んでうなっただろう。
 
 子規庵の庭から戸を開けて外へ出ると、ちょうどすぐ向かいの建物から出てくる年配のふたり連れと、出会いがしらの鉢合わせをしてしまった。てっきり「根岸さと呉竹を偲ぶ散歩かな」のふたりだと思ったのだが、よく見ると子規庵の隣りは出会い茶屋(ブティックホテル)なのだ。落ち着いてあたりを見まわすと、あっちにもホテル、こっちにもホテル、そっちにもホテル・・・。鶯谷の駅前に集中的にあるのは知っていたが、それが北のほうまで伸びてきたらしい。正岡子規の自宅は、もうすぐブティックホテルに囲まれてしまいそうだ。それに気づいて、意識的に人通りを眺めていたら、若いカップルが歩いていて「これは絶対ホテル派」だと思っていると、子規庵へ立ち寄ったりする。年配のカップルが歩いていて、「これは間違いなく子規庵派」だと思ってたら、いきなりホテルに入ったりするのだ。・・・まあ、「それぞれに楽しみありて根岸里」。
 
 静かな根岸の里も、幕末に一時期あわただしかったことがある。上野戦争と、その戦闘で敗れた彰義隊の脱出口のひとつとなったからだ。岡本綺堂作の芝居『相馬の金さん』では、上野から落ちのびた江戸っ子の御家人・相馬金次郎が、奥州街道をめざして根岸の不動堂までたどり着く。堂の傍らに生える見事な「御行の松」の根もとで、どこへ逃げるのも「面倒くせえ」と切腹して果てるという物語。ストーリーが、どこかロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』にソックリなところが、さすがバタくさい綺堂らしい芝居の出来となっている。
 明治以降、根岸は再び静けさを取りもどしたけれど、ほどなく住宅が密集して、閑静もなにもあったもんじゃない状態になってしまった。戦後は、当時の言葉でいうと「連れこみ旅館(待合)」や「ラブホテル」が進出し、谷中側とは対照的な雰囲気の街へと変わっていく。でも、散歩がてら子規庵をのぞいたあと、隣りのホテルへ立ち寄る年配のカップルがいるのも、また風流じゃないか。

■写真上:子規庵のヘチマ(糸瓜)。絶筆句「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」。
■写真中上:中村不折がデザインした、新宿中村屋の社名ロゴタイプ。
■写真中下は、子規庵の門から玄関。は、戦後に再建された庵内の様子。
■写真下は、戦前に撮られた『相馬の金さん』の舞台写真。金さんは二代目・松本幸四郎。は、不動堂にあった昭和初期の「御行の松」。1928年(昭和3)の夏に枯れているので、枯れる直前に撮影されたもの。不動堂も子規庵と同じく、1945年(昭和20)4月14日の空襲で焼けている。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年07月28日 15:10

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