大仏がお辞儀をした日。

 

 東京では、関東大震災Click!の被害は本所の陸軍被服廠の惨状など、おもに大火流や火事竜巻による下町の被害を中心に伝承されがちだけれど、これが神奈川県の海岸線になると、火災よりもむしろ津波の被害が甚大だった。場所によっては、津波の高さは10mをゆうに超えたといわれており、相模湾に点在する町々、東は三浦半島の付け根にある葉山や厨子から、西は伊豆半島の付け根の湯河原や熱海まで、壊滅的な被害を受けた。
 わたしが湘南海岸にいた子供のころ、相模湾沖や駿河湾沖を震源とする地震が起きるたびに、「津波注意報」が出されていた。海岸線に近い住宅街に設置されたサイレンが、あたかも空襲警報のように鳴り響くのだ。ちょうど、大雨が降って危険水位Click!を超えると、下落合の神田川や妙正寺川に設置されたサイレンが鳴り響くのと似ているのだが、親の言によれば津波のサイレンはウーーーーッと連続して高鳴り、まるで空襲警報にソックリだったようだ。「また、警報のサイレンかよ」・・・と、東京大空襲と山手空襲の双方を経験している親父はボヤいたものだ。でも、「注意報」のうちはたいして深刻ではなく、地域の人たちも馴れっこになっていてそれほど緊張はしなかった。
 
 たった一度だけ、夜間に「津波警報」が出されたことがあり、そのときは渚からわずか50mしか離れていないわが家では、さすがに大人たちの顔も引きつった。役所のクルマもまわってきて、ユーホー道路(国道134号線)をゆっくり走る広報車の拡声器からは、避難準備を叫ぶ悲痛な声が切れぎれに聞こえてきたのを憶えている。この広報車、津波が来襲したら真っ先にのまれるのは自分たちなのを知っているので、声には悲愴感が漂っていた。きっとドライバーは、真っ暗な海から“壁”が近づいてこないかどうか、目を皿のようにして運転していたに違いない。防災用品を入れたリュックを背負い、とりあえず家族全員が2階へ避難した。うちは鉄筋コンクリートの2階家だったので、小さな津波だったら大丈夫だったかもしれないが、10mを超えるような大津浪が押し寄せたら、およそひとたまりもなかっただろう。
 1495年(明応4)に、おそらく関東大震災と同じ震源による大地震が発生し、このときは推定で20m前後とみられる大津波が相模湾の海岸線全域へ押し寄せた。鎌倉では、高徳院(大仏寺)まで津波が押し寄せて本堂をさらっていき、のちに大仏殿は再建されず大仏は露座のままとなった。関東大震災のとき、津波は江ノ電の線路を超えて大きな被害をもたらしたが、高徳院まで波の先が到達することはなかったようだ。でも、大仏さんは400年以上前の出来事を憶えていたのか、いまにも立ち上がって裏山へ逃げ出そうとするかのように、身体を大きく前へ傾けた姿勢のままになってしまった。
 
 関東大震災で、相模湾の島々や岩礁、山々がたった1日のうちに1m前後も隆起した。大磯海岸あたりがもっとも顕著で、隆起は数メートルにも及んでいる。こゆるぎの浜に新世第4紀の地層が露出Click!したのも、このときのことだ。大磯の海岸に浮上した岩礁は、わたしが子供のころに見た光景と比べても、ずいぶん海中に没しはじめている。それは、波に洗われつづけた侵食によるものなのか、それとも別の要因なのかはわからない。
 最近、いやなウワサをよく耳にするようになった。馬入川(相模川)の河口の沈下が止まらないという。同様に、稲村ヶ崎につづく浜辺の侵食も著しいようだ。ふたたび、相模湾プレートが海中へ急激に引きずり込まれているのだろうか?

■写真上は、「釈迦牟尼は美男におわす」(晶子)露座の大仏。は、1923年(大正12)9月1日、前へうつむいてしまった関東大震災直後の大仏。
■写真中は、現在の由比ヶ浜。舟があるが、観光地曳だろうか。は、関東大震災の津波で壊滅した、由比ヶ浜から材木座海岸沿いの住宅地。
■写真下は、再び海中へ没しはじめている大磯・照ヶ崎の岩礁。は、数メートルも隆起した関東大震災直後の照ヶ崎。岩の上に見えている鉄棒は、航行する漁船のために目印となっていた岩礁の目印。つまり、この鉄棒の先だけが、大震災前には海面の上に出ていたことになる。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年03月11日 20:33

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