このところ、下落合界隈のことばかり書いているので、たまには(御城)下町Click!のことを・・・。
谷中というと、寺院や墓地ばかりの風情なのに、なぜか昔から男と女の少しジメついた、艶っぽい話がそこかしこに転がっている土地柄だ。ストイックな土地柄であればあるほど、一度タガがゆるむと歴史に残るような“大スキャンダル”に発展しやすいのだろうか?
そもそも谷中の天王寺(感応寺)からして、わずか5年で破却された目白(雑司ヶ谷旭出)の巨刹・鼠山感応寺Click!を、すぐにも想起してしまう。谷中の感応寺が、天台宗に改宗させられ天王寺となってしまったため、のちに目白へ悲願の感応寺が“再建”されることになる。このあたりの寺院の坊さんたちは、女をおおっぴらに寺内へ連れ込むわけにもいかなくて、江戸期には門前に専用の岡場所が形成されたほどなのだ。
安永(1770年代)ごろから、感応寺(天王寺)門前の新茶屋町には、通称「いろは茶屋」と呼ばれた酌婦を置く見世が、すでに48軒も軒を連ねていたことが知られている。1軒あたり4~5人の私娼がいたとすると、ゆうに200人を超える女たちが門前にひしめいていたことになる。当時のご詠歌に、「無筆でも遊びはできるいろは茶屋 夜が谷中でも通ひこそすれ」と“四六見世”のことが詠まれていた。客層は、圧倒的に僧侶が多かったようで、中には僧侶である身をすっかり忘れて、女を“根引き”する輩もいたようだ。根引きとは、公娼や芸者でいう“身請け”のことで、借金をきれいにしてやり落籍する(自由の身にしてやる)ことをさす。
檀家からの布施や寄付をこっそりとかき集めて、根引きしてやった若い女を、寺内へおおっぴらに住まわせるわけにもいかないので、彼女たちは付近の商家へ預けられることが多かった。坊主は夜になると、谷中の深い闇にまぎれてコソコソと周囲の商家へ通うことになる。中には根引きされたとたんに、どこかへドロンと雲隠れしちまう女も多かったようで(つまり、他に本命がいたのに気づかなかったお人よし)、そんなとき坊主はめずらしく本堂へ引きこもり、仏前で女を想いながら呪詛の経文を夜どおし、唱えつづけていたに違いない。
谷中というと、芝居の『日月星享和政談(じつげつせいきょうわせいだん)』(通称「延命院日當」)が有名だ。いまも残る、日暮里駅近くは日蓮宗の延命院を舞台に繰り広げられた一大スキャンダル事件のこと。この黙阿弥芝居は、江戸期の享和年間に起きた実話にもとづいて作られている。いま風に表現すると、女狂いの住職・日潤がいる寺で起きた、連続婦女暴行強姦致傷事件ということにでもなるだろうか。1803年(享和3)7月20日に行われた、寺社奉行・松平右京亮によるいっせい摘発で日潤は捕縛され、取調べによれば被害者は52名にものぼったと記録されている。
芝居では延命院の住職・日當が、寺へお参りにきた大奥へつかえる女中たちをはじめ、武家や町家の娘などへ次々と暴行を繰り返し、坂道を転げ落ちるように堕落していく・・・という、どこかで見たありがちなストーリー。実在の住職・日潤は、初代・尾上菊五郎の養子だった丑之助が延命院に入って、美貌の僧侶・日潤となったという真偽不明のウワサが、江戸東京の巷間ではまことしやかに伝えられてきた。戦前、この芝居が上演されるたびに某仏教団体が阻止行動を繰り返していたというが、ほんとのことを言われて(芝居に書かれて)腹を立ててるようじゃ、「仏性の顕現」にも「悟りの境地」にも、およそ縁遠い人たちだったのだろう。
そういえば、天王寺に隣接した3万坪の敷地は、公営墓地として明治政府が払い下げたけれど、その中には笠森おせんの墓もあった。鈴木春信の墓も近接してあるので、死んでもお気に入りの美女の近くに眠れるとは、春信も絵師冥利につきるだろう。笠森稲荷の門前にあった水茶屋(喫茶店)「鍵屋」のウェイトレスおせんは、谷中界隈に知られた美女で、春信がブロマイドを刷って売り出してからは江戸じゅうの評判をさらった。そういえば、このおせんをモデルにした、こちらは史実からかけ離れたフィクション芝居『怪談月笠森(かいだんつきのかさもり)』というのもある。この芝居の中の「お仙」は、ノドを喰い破られて殺されてしまうというおどろおどろしいストーリーなのだけれど、この作品も男女のドロドロした関係がメインテーマ。実在のおせんは武家へ養女に入り、そこから幕臣の家へと嫁すので、およそ波乱の生涯など送ってはいない。
どうも谷中を舞台にすると、ジメっとした男女が登場することがことさら多いようだ。そのジメついた谷中のイメージを決定的にする事件が、1957年(昭和32)7月6日に起きてしまった。天王寺の五重塔(通称・谷中五重塔)に火をつけて、50代の男と20代の女が心中したのだ。無理心中という説もあるけれど、およそ男女の機微のことだから、真相ははっきりしない。おかげで、とても形のいい谷中のランドマーク的な存在だった五重塔が、あっという間に全焼してしまった。江戸の大風にも、関東大震災にも戦災にも耐えた「のっそり十兵衛」自慢の34m超の塔が、マッチ1本で永久に姿を消した。
『五重塔』(幸田露伴)が好きだった親父は、この塔を何度も実際に目にしているのだが、わたしは当然、一度も目にしたことがない。焼け跡(礎石)へ出かけるたびに、親父は「あ~あっ」と小さなため息をついていた。そのため息は、「オレの好きな塔に火ぃつけやがって!」なのか、「男女のいろはほどわからね~ものはない」だったのか、いまとなっては判然としない。
■写真上:谷中の街並み。「わ、わしゃ誰なんじゃ。ここはどこで、わしゃ、いったい誰なんじゃ!?」
■写真中:左は、1950年代の『日月星享和政談』舞台。住職・日當は九代目・市川海老蔵(右)、おこうは七代目・尾上梅幸(左)。右は、1955年(昭和30)前後の延命院。
■写真下:左は、天王寺・五重塔跡に残る礎石。右は、炎上中の谷中五重塔。(朝日新聞より)
この記事へのコメント
ponpocopon
十兵衛さんが大風の中を命がけで見守った五重塔は嵐にはめっぽう強かったが、火には弱かったという事ですね。きっと優雅な姿をしていたでしょうに・・・。二人の恋の炎が五重塔に飛び火したのでしょうか・・・。
ChinchikoPapa
今度、黒文字のことを書いたときにでも、またTBさせていただきます。
ChinchikoPapa