霞坂秋艸堂と文化村秋艸堂。

 

 会津八一が、500坪もある広大な家(下落合1296番地)へ引っ越してきたのは、1922年(大正11)のことだった。もちろん、この家は会津の自宅ではなく、市島春城の持ち家「閑松庵」を無料で借りたものだ。家賃や資産税がゼロだから、その浮いたおカネで好きな美術品や骨董を集めることができたのだが、それでも足りずに借金を重ねて、最後には当の市島春城や、師匠の坪内逍遥に返済の肩代わりClick!をお願いしていたようだ。
  うつりきてうたたわびしきくさのとに けさをながるるあきさめのおと
 会津が下落合へ引っ越してきて、武蔵野原生林に囲まれた村荘を「秋艸堂(しゅうそうどう)」と名づけたころの歌だ。それから13年間、ここに住みつづけることになるのだが、秋艸堂には東京はおろか、全国から研究者や学生が集うことになる。やがて、一種の「芸術道場」のような存在となっていった。引っ越してきた翌年、会津は曾宮一念の紹介で林泉園の中村彝アトリエClick!を訪ねて、大英博物館の『パルテノン写真集』をプレゼントしている。
 
 
 昭和初期になると、草深くて静かだった秋艸堂の周囲にも、宅地化の波が押し寄せてきた。関東大震災後に人口が増えるにつれ、隣接する落合尋常小学校(現・落合第一小学校)の規模が大きくなり、秋艸堂はしだいに住宅街の中へ呑み込まれていく。小学校の生徒数が急増し、その騒音が気になりだしたものか、あるいは市島家から「閑松庵」の返却を求められたものか、会津は1935年(昭和10)、住み慣れた霞坂秋艸堂から目白文化村(第一文化村)の住宅(下落合1321番地)へと引っ越した。ところが、この新しい家が改正道路(山手通り)の工事計画にひっかかり、再びすぐに引っ越しをするハメとなった。これがのちに、大きな不運をまねく転居Click!となってしまう。
のちに会津八一の手紙やハガキ類を調べたら、引っ越しはどうやら下落合1321番地への「転居通知」Click!のみしか見つからなかった。したがって、1935年(昭和10)前後の大規模な地番変更にからみ、引っ越しは1328番地が1321番地へと変更された直後、1935年(昭和10)10月の一度だけだった可能性が高いと思われる。
 最後に落ち着いたのは、第一文化村の中心部(下落合1379番地)で、シャレた西洋館や文化住宅が建ち並ぶ市街地だった。霞坂の秋艸堂と区別するために、ここは文化村秋艸堂と呼ばれるようになった。以前と同様に、さまざまな人々が文化村秋艸堂へ去来したが、時代は一気に芸術家にとっては息苦しい戦争の時代へと突入していく。
  いではててをのこともしきふるさとの みづたのおもにとしはきむかふ
 出征して男たちがいない故郷の田にも、新しい年はやってくる・・・というこの歌が、反戦歌だということでヤリ玉にあがった。この歌を掲載した、1940年(昭和15)2月号の雑誌『改造』にも、反戦思想として軍部から圧力がかかったようだ。
 やがて、1945年(昭和20)4月13日の夜半、目白文化村はB29による空襲Click!を受けた。会津が膨大な借金を重ね、長年にわたり蒐集した美術品や骨董品、あまたの美術資料・書籍が一夜のうちにすべて灰になってしまった。これらのかけがえのない美術品や資料類は、会津自身の言葉によれば、すでに疎開をさせるため全部が梱包済みだったという。
その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 
 
  ひともとのかさつゑつきてあかきひに もえたつやどをのがれけるかも
 洋傘を杖がわりにして、焼夷弾の雨の中を養女キイ子を連れ、会津八一は目白文化村じゅうを逃げまわった。おそらく、第一文化村から第二文化村を通り抜け、炎が見えない中井御霊神社か葛ヶ谷方面、あるいはバッケが原のあたりまで逃げのびたのだろう。
  やけあとにたてばくるしもくだけたる せいじのさらのつちにまじりて
 文化村秋艸堂の焼け跡に立ち、土に混じった青磁皿の破片をつまみながら、呆然と立ちすくむ会津の姿が見えるようだ。第一文化村の住民が、そんな会津の姿を見かけていた。そのとき、「ほんとうの骨董品らしくなったなあ」と、負け惜しみを言っていたのを耳にしている。自ら“傲岸不遜”を名のる、会津八一らしい台詞だ。同年4月中に、会津は養女キイ子とともに新潟へ疎開した。
 翌年の1946年(昭和21)7月、新潟市内の海岸に近い南浜に住居をかまえ、ここを南浜秋艸堂と命名した。そして、二度と東京へもどることはなかった。

■写真上は、霞坂の秋艸堂。市島春城から、500坪の土地家屋を無償貸与されていた。は、現在の同所で面影は皆無だ。モノクロ写真は、いずれも『会津八一とゆかりの地』(ニ玄社)より。
■写真中:同じく霞坂秋艸堂のスナップ。会津八一は庭の手入れをせず、雑草が生えるにまかせていたといわれるが、菊と睡蓮だけは特別扱いで、丹精をこめて育てていたようだ。特に菊の栽培には、専門書を出すほどに執着していた。
■写真下:第一文化村にあった文化村秋艸堂。カラー写真は現在の同所。庭先に写る女性は、疎開先の新潟でほどなく病死する養女キイ子。霞坂秋艸堂の庭に埋めてあった睡蓮鉢を、そのまま文化村へ持ってきているのがわかる。会津がもっとも幸福だったころのショットだ。また、植木の手入れをする会津の背後には、文化村秋艸堂の建物の一部が見えている。文化村秋艸堂は霞坂とは異なり、洋風のデザインだった。

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