三角アトリエをのぞいてみよう。

 村山知義は、妻の出身校である自由学園の講堂や自宅のアトリエを利用して、さまざまな前衛的な舞台や、いま風にいうとパフォーマンスを上演していた。このアトリエが、周囲から「三角の家」と呼ばれていた建物だが、家自体が「山ノ手美容院」Click!のように三角形をしていたのではない。のちに、母屋へくっつくようにして造られたアトリエが、三角形(実際には台形)のようなかたちをしていた。
 このアトリエが造られる前、つまり村山がドイツ留学をする前に建てられた母屋も、村山自身による設計だった。1,000円で建てたといわれるその自宅は、村山が帰国するまで彼の母と弟が住んでいた。そして、1923年(大正12)に帰国した直後、母屋を増築して南東面へ鋭角に突き出たデザインの、有名な「三角アトリエ」が完成する。
 
 村山知義は、このアトリエで多彩な作品を産み出していくのだが、中でも「MAVO(マヴォ)」の活動は、院展や二科など既成の美術団体のあり方を否定し、さらには従来の美意識やエロティシズム、セクシュアリティなどの観念さえも否定し破壊していく、あらゆる既成文化のアンチ提唱者としての活動はつとに有名だ。村山自身の言によれば、この時期はヘ翁(ヘーゲル)の弁証法によって突き動かされていたようだが、のちに共産党の活動へ参加し唯物論的弁証法を獲得するにおよび、当時の活動は「稚拙だった」と回顧している。勝手に想像するに、アンチアンチと否定と破壊の連続で、かんじんのテーゼ(再構築)がなかったじゃないか・・・という“総括”であり自己批判なのだろうが、共産党の活動にのめりこんでからの彼の言動は、わたしにはかえって精彩を欠いているように見えてしまう。ありきたりな政治的プロパガンダと“予定調和”が、いまの視点からは透けて見えてしまうからだ。むしろ、「MAVO」時代の村山知義こそ、村山知義たるゆえんのように感じるのだ。
 村山のアトリエでは、彼の作品展をはじめパフォーマンス、イベントなどが頻繁に行われ、東京じゅうから人々が集まった。西武電気鉄道の下落合駅が近くにできるまでは、人々は中央線の東中野駅や山手線の高田馬場駅から、わざわざ歩いて「三角の家」へと集まってきた。小さなアトリエだったので、とてもお客が入りきれず、東中野駅近くの喫茶店が“待合室”として使われたようだ。誰かが上落合方面から歩いてくると、「そろそろ空いたようだな」ということで、入れ違いにアトリエへ向かったという逸話が残っている。
 
 「さいやんかね、だうさ、さいやんかねえ、おんだぶつてぶつて、おんだ、らつたんだりらああおお」・・・、別にパソコンの誤変換ではない。林芙美子の『放浪記』に掲載された、「マヴォの歌」の一節だ。林は、「MAVO」に象徴的なアナーキズム芸術運動やナップによるプロレタリア文学運動の、きわめて至近距離にいながら(物理的にも近所Click!だ)、それらの運動からは疎外されていた。いや、正確に言うなら林自身が、ことさら疎外感を感じていた・・・ということかもしれない。彼ら運動者から「ルンプロ」呼ばわりされた彼女は、中野署へ共産党のシンパとして逮捕されながらも、これらの運動からはますます孤立していく。「カクメイとは北方に吹く風か」(『蒼馬を見たり』より)、林は吉屋信子のサロンClick!に加わることもなければ、彼らの「同志」になることもなかった。
 村山知義が深くかかわった作品に、郡司次郎正の風俗小説『日本嬢(ミス・ニッポン)』(1930年・昭和5)がある。村山が下落合の舟橋聖一らとともに結成した、演劇集団「心座」に郡司もかかわっていた関係から、この作品の装丁デザインや広告などいっさいを担当し、序文を上屋敷(あがりやしき)の柳原白蓮Click!に依頼している。この人脈をみると、みんな目白・落合近辺の在住者であるのがおもしろい。さまざまな表現活動を、隣り近所の人たちとともに繰り広げているような気さえしてくる。このあたり、松本竣介の『雑記帳』Click!にも感じられるテーマなのだ。
 
 大正期から昭和初期にかけ、この界隈の人物物語がいかに濃密かがわかるようなエピソードだ。村山知義も目白崖線の坂道を、フーフー言いながら行ったり来たりしていたのだろう。彼の背後には、童話作家の妻である村山籌子の実家(高松市)旅行まで尾いてきた、顔見知りの特高が張りついていたに違いない。

■写真上:1923年(大正12)に増築された、村山知義の「三角アトリエ」(左側の建物)。右側が渡独前から建てられていた、「千円住宅」の母屋部分。『水声通信』No.3(水声社)より。
■写真中上は、機関誌『MAVO』の創刊号(1923年・大正12)の表紙。は『MAVO』3号に掲載された、「踊り」と題されたパフォーマンス。わたしがこんな情景に出くわしたら、静かにドアを閉めながら見なかったことにしてソッと帰るだろう。(爆!)
■写真中下:村山知義『コンストルクチオン』(1925年・大正14)。東京近代美術館に所蔵されており許可をもらって撮影。同美術館に展示中、一度傷つけられたこの作品だけれど、思いのほか面白くて楽しめた。さすがに、革張り椅子の皮革や髪の毛は褪せてはいる。
■写真下は、「三角アトリエ」の平面図(五十殿利治『村山アトリエ再説』より)。は、郡司次郎正『日本嬢(ミス・ニッポン)』の表紙。デザインは村山、序文は柳原白蓮。

この記事へのコメント

  • Nylaicanai

    Chinchiko Papaさんの文章には、ぐいぐいと引き付けられます。
    落合にある(あった)建物、そこに住んでいた人々の暮らし、思想、行き方、興味は尽きません。
    2006年10月04日 11:56
  • ChinchikoPapa

    Nylaicanaiさん、こんにちは。
    最近なかなか時間がとれなくて、じっくり読み直しもせずに、書きとばしている箇所も多々あるかと思います。記事の中で読まれにくい点がありましたら、ご容赦ください。<(__;)>
    2006年10月04日 12:15

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