三岸好太郎と近衛秀麿の新響。

 

 井上光晴は、「崎戸炭鉱」に強制連行された朝鮮人たちが、休日になると鮮やかな民族衣装を着て楽器を演奏しながら、おそらくは葬送の野辺送りなのだろう、海岸をいつも練り歩いていたと「文学伝習所」など講演でしゃべったり、また文章のあちこちにも書いている。『全身小説家』(原一男監督/1992年)の中で、遺族や地元の人たちは「そんなこと、見たことも聞いたこともない」と、井上の言葉を全否定している。“嘘つき光ちゃん”の、面目躍如といったところ。
 この伝でいけば、生来のロマンチストだった洋画家・三岸好太郎は、“嘘つき好ちゃん”ということになるのだろうか。「うそつき、典型的なうそつきでしょうね」と、同じ洋画家で夫人の三岸(吉田)節子は、そう言い切ってはばからない。三岸好太郎の場合は、女にまつわる大嘘つきなのだから、よけいに始末が悪い。商店のおかみさんから目白の日本女子大に通う令嬢まで、ひきも切らずのべつまくなしにちょっかいを出し、妻に問い詰められると泣きじゃくりながら告白して許しを請う・・・を繰り返した、わずか31年の短い生涯だった。
 自分でこしらえた年譜も嘘だらけで、なにが事実でどれが創作なのか、研究者をいまだ悩ませつづけている。三岸は目白・下落合の界隈をグルグルまわり、高田馬場や上屋敷Click!にも住んでいた。絵の時流にはいち早く乗っかって、よく言えばスパイラル状に変化をつづける「事物は自己を否定する要素を、それ自身のうちに内包している」(自分で言ってたりする)ようなヘーゲル主義者、悪く言えば節操のない風見鶏の日和見主義者としての姿勢が、彼の生涯を“一貫”していた。
 草土社風の表現が流行ればミニ岸田劉生に、ルオーに惹かれればまったく同じテーマを描き、佐伯祐三や里見勝蔵のフォーブが注目されれば接近し、シュールレアリズムが紹介されればいち早く作品に取り入れていった。“嘘つき好ちゃん”の才能は、里見や佐伯の1930年協会のあとを受けて結成された、独立美術協会Click!でいかんなく発揮されたようだ。同協会が分裂の危機に陥ったとき、三岸は対立する派閥の抗争がどう転んでも、自分が快適なポジションにいられるよう、せっせと嘘をついてまわっていたようだ。そのあまりの変わり身の早さから、人々から呆れられるというよりも、「三岸はそういう奴なんだからしょうがない」と、どこか受容されるような雰囲気さえ感じられる。“嘘つき好ちゃん”にしてみれば、こういうゴタついてドロドロした人間関係が大好きで、そんな中をスイスイと泳ぎまわるのが楽しくて嬉しくて、しかたがなかったのかもしれない。
 

 日本女子大の彼女を追いまわして目白界隈をウロついていたころ、三岸はこの恋人と連れ立って、何度か近衛秀麿の新交響楽団(現・NHK交響楽団)を聴きに出かけた。1932年(昭和7)のことだ。近衛秀麿は1898年(明治31)、下落合の近衛邸で文麿に次ぐ二男として誕生している。このころの秀麿は、近衛交響楽団と日本交響楽団とが合流した新交響楽団(新響)の常任指揮者をしていたが、団員の組合活動を理由にクビ切りを行ってヒンシュクをかう(コロナ事件)など、きわめて不安定な環境に置かれていた。翌年には貴族院議員に選出されるが、雅楽奏者で弟の直麿が病死。秀麿は、定期演奏会の回数は減らしたものの、なんとか新響の指揮はつづけていた。
 三岸は恋人とともに、新響の定期演奏会に何度も通っているので、よほど刺激を受けたのだろう。当時の新響コンサートは、従来の日本青年館から日比谷音楽堂へ移っているので、三岸と彼女がよく出かけたのは日比谷の会場だったと思われる。コンサートのパンフレットに掲載された新響の写真を自分の子供たちに見せながら、アトリエで自由気ままにオーケストラの絵を描かせた。そして、子供の描く線の無心さに感動したものか、その絵をあたかもなぞるように三岸は連作『オーケストラ』(1933年・昭和8)あるいは『新交響楽団』(同年)を発表している。子供が描いた奔放な絵を、ちゃっかり自分の作品へと活かしてしまうのは、松本竣介も何度か試みている“描法”だ。
  
 好太郎はしばしば隆子と連れだって、新誕生の近衛秀麿交響楽団の演奏会を聞きに出掛けたことがあった。独立第三回展(昭和八年三月)に発表した、あのあまりに有名な『オーケストラ』は、恐らく二階中央席あたりから彼女といっしょに見た舞台のイメージによるものだったろう。かつて、子供たちと興じた“ひっかき遊び”がヒントの描法で、画面上にはスポットの中の舞台上のオーケストラが華麗なファンタジーを浮かびあがらせている傑作である。これこそ、彼女との恋が熱(ママ)えつきたあとに生みだされた、いわばその劇的な悲恋の落とし子だったと見ていい(後略)
                                  (田中穣『三岸好太郎』1969年より)
  
 
 1932年(昭和7)の大晦日、自宅に来たこともある日本女子大の彼女と、目白の椿山Click!近くで心中未遂事件を起こした三岸は、妻の節子に引きずられるように連れもどされ、翌年の正月をずっと布団の中ですごした。「ごめんよ、節っちゃんごめんよ」と泣きじゃくりながら妻に謝りつづける三岸好太郎が、代表作のひとつ『オーケストラ』をアトリエで必死で仕上げた数ヵ月後、近衛秀麿はゴタゴタつづきの日本を離れ、「太平洋から挨拶します。ヒデマロ」と絵はがきに書いて、ベルリン・フィルを指揮するために日本郵船のヨーロッパ航路・平安丸の船上にいた。
 新交響楽団のコンサート会場でチラリと接点を持った、このふたりの男に共通点を見いだすとすれば、さしずめ無類の女好きということだろうか?

■写真上は、三岸好太郎『オーケストラ』(1933年・昭和8)。は、下落合の近衛邸の記念写真。右端が秀麿、左隣りが文麿、いちばん左端が直麿。背後に写る、近衛篤麿邸の和館がめずらしい。
■写真中は三岸好太郎『オーケストラ』と、は『オーケストラ』素描。いずれも、1933年(昭和8)に描かれたもの。は、近衛秀麿と新交響楽団。
■写真下は、三岸好太郎『オーケストラ』素描の指揮者(1933年・昭和8)。は、ベルリン・フィルを指揮する近衛秀麿。1940年(昭和15)ごろ。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    アートアクセサリーさん、nice!をありがとうございました。<(_ _)>
    2006年10月03日 18:44
  • sig

    こんにちは。
    いい線以上を行ってるのに、本人は確信がもてないらしくてふらふら・・・という人、私の周りにもいたようでした。確かにロマンチストでしたし、甘えん坊のようでした。きっと純粋なんでしょうね、そういう人は。
    2008年08月28日 10:38
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントをありがとうございます。
    本人は自身の感情や精神にすなおで純粋なのでしょうが、家族をはじめ周囲の人々にはたまったもんじゃないですよね。^^;
    2008年08月28日 16:11
  • ChinchikoPapa

    少し前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>Yukiさん(イタリア職人の手作りタイルさん)
    2010年03月29日 12:11
  • てぃーち

    ベルリン・フィルを指揮する近衛秀麿さんの写真どこから手に入れたのか教えていただけないでしょうか。
    2016年06月20日 16:40
  • ChinchikoPapa

    てぃーちさん、コメントをありがとうございます。
    11年前の記事でウロ憶えですが、確か2006年に講談社が出版された『近衛秀麿―日本のオーケストラをつくった男』だったのではないかと思います。
    2016年06月20日 16:48

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