下落合には「自動車教習所」があった。

 また、下落合で「秘境」を見つけてしまった。いや、正確に言うなら下落合と目白とのちょうど境界線あたりだ。昔の町名だと、高田町の「金久保沢」という山手線に分断された谷名にあたる場所。濃い屋敷森に囲まれた中に、瀟洒な日本家屋がひっそりと建っている。空襲で焼き払われた一帯なので、建物はもちろん戦後のものだけれど、なんとも風情のあるめずらしいお宅なのだ。まるで、野鳥の森公園ができる前の、薬王院西側のオバケ坂あたりの様子に似ている。こちらのお宅も、やはり斜面を整地して建てられている。
 戦前は、上空から見ると樹木に囲まれた運動場のようなスペースが見えるので、テニスコートかゴルフ練習場、はたまた、さらに以前は自動車の教習所跡だったものか? そう、大正時代の一時期に、近衛町からこのあたりには自動車教習所がオープンしていたのだ。つまり、大正も半ばになるとマイカーを所有する人たちが、目白・下落合界隈にもチラホラ出はじめていたのだろう。
 その自動車教習所のことを記した、貴重な資料がある。著者は、街道(清戸道=目白通り)の北側に暮らしていたので、通りの南側を「下落合の方」と表現している。でも、著者の居住地も目白通りの北側へとはみ出した、同じ下落合地区だった。時代は、大正半ばのこと。
  
 (略)このような村の街道風景で、下落合の方に自動車の教習所が出来たのは、私が学校に行ったずっと後のことで、当分の間は馬力全盛の世の中でした。
 なにしろ自動車教習所の先生が街道の真ん中に、自動車の後に荒縄でしばりつけておいたスペアタイヤーが、道のデコボコ振動で、縄がきれて落ちてしまったのを知らずに帰ってから気付いて、あくる日取りに来たら、キチンと道路の真ん中に横たわっていたそうです。こんなものは一般の人には何処にも利用出来ないものでした。
 それでも新品一本十五円也という高い値段を教官に聞いて、皆おどろいたものです。今なら三十万円か六十万円位するのでしょうか。  (岩本通雄『江戸彼岸櫻』より)
  
 
 目白駅をはさんで、すぐ東側の谷間と、西側の学習院にある血洗池の谷間に拡がる「金久保沢」という地名が、ずいぶん前から気になっていた。これほど直接的に「金」(かね/“きん”ではない)=古代の鉄(かね)と結びついた地名は、椿山の近くにあった「目白」Click!の地名とともに、意味深長でとても気になる。そして、ここにも稲荷神=鋳成神が存在している。下落合側にある豊坂稲荷の境内には、興味深い石碑が建立されている。
 その歌碑の中に、「金和久乃沢」という表現が見られる。すなわち、漢字を当て変えれば「金(鉄)湧くの沢」という意味だ。高田に古くから伝わる、いにしえの伝承を歌に詠んだものか(碑文にも「古へに」とある)、鉄が湧いた沢が「金久保沢」あたりにあったと解釈できる。いまでは、金久保沢(金和久乃沢)は山手線によって東西に分断され、ひとつの谷間として捉えることができにくくなっている。東側の学習院キャンパスでは、崖線からいまだにこんこんと清水が湧き、大きな血洗池が形成されている。
 
 山手線によってつぶされた谷間には、ほかにも湧水源や小流れがたくさんあったのだろう。それらの流れに川砂鉄が堆積し、川底に黒々とした帯が光に透かして見えていたのかもしれない。そして、カンナ流しによる集鉄とタタラが、目白崖線のあちこちで行われていたのではないか? 西武電気鉄道(西武新宿線)では、タタラ場と鍛冶場の遺跡発掘の記憶が中井駅周辺に残るが、品川赤羽鉄道線(山手線)の工事のときには、はたしてどのような埋蔵物が出てきたものだろうか・・・。いまだ、記録を見つけられないでいる。それにしても、古墳や遺跡、社(やしろ)、出土物、地名、伝説などをトータルに捉えれば捉えるほど、目白・下落合界隈すなわち目白崖線沿いの古代史は、金(砂鉄)と、それから精錬される目白(鋼)に深くかかわった形跡が顕著だ。
 目白駅近くの「秘境」から、大正期の下落合にあった自動車教習所、そして金久保沢(金和久乃沢)と脱線につぐ脱線記事となってしまったけれど、下落合のそこかしこに興味が尽きないわたし好みのテーマが眠っている。

■写真上:旧・高田町の金久保沢にある、うっそうとした緑がしげる「秘境」。
■写真中:戦前の同所は、運動場のようなスペースが拡がっているのが見てとれる。
■写真下は、豊坂稲荷にある歌碑の碑文。いにしえから伝わるらしい、「金和久乃沢」の文字が刻まれている。は、学習院側の金久保沢にひっそりとある血洗池。

この記事へのコメント

  • かい

    あ、ついに登場ですね。この「秘境」のお宅。
    周りの環境がどんどん変わっていく中にあって、泰然自若といった風情ですよね。
    どんな方がお住まいなのか知る由もありませんが、
    永く残って欲しい建物のひとつです。
    2006年09月25日 13:52
  • ChinchikoPapa

    かいさん、こんにちは。
    わたしも、ここの緑の一画はぜひ残してほしいひとつです。戦前の空中写真を見ますと、このあたり一帯が空き地のようになってまして、おそらくいまの屋敷森は戦後60年近くかけて育った樹木だと思います。
    育つのは膨大な時間をかけて少しずつですが、伐られるのはほんとうに一瞬のことで、再びもとの姿にもどすのは容易ではありませんね。建物ともども、このままにしておいてほしい金久保沢の風情です。
    2006年09月25日 16:14
  • ももなーお

    昔のブログにコメントするのちょっと戸惑ったのですが、とても気になる建物なのでコメします。 この建物僕も何回か自転車で通ったことあるのですが、何なのでしょう? 人の気配がするのやらしないのやらよく分からないし、借家でもなさそうです(大家がとっくに壊してマンションにでもするでしょうから)  膨大な土地に地方にあるような古い建物、ちょっと感動してしまいました(笑)  また今度自転車で遊びに行こう♫♪♫
    2008年02月07日 08:45
  • ChinchikoPapa

    ももなーおさん、コメントをありがとうございます。
    つい先週の午後6時ごろですが、たまたま線路沿いの暗い坂道を歩いて、近衛町通りへ抜けようとこのお宅の前を上っていったのですが、室内にボンヤリと灯りが点いているように見えました。どなたかが、住まわれているのではないでしょうか。
    また、ときどき樹木の枝払いや草刈り、生垣の剪定などもされているようですので、いちおう管理はなされているような感触があります。でも、さすがに古い建物は、そろそろ限界のように思えますけれど、屋敷林のみどりを残したまま、同じぐらいの新築家屋が建つとうれしいのですが。(^^
    2008年02月07日 11:37

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