いまも昔も歯医者さんだらけ。

 

 下落合には、歯医者さんがとても多い。半径100m以内に、かならず1~2院が開業している。これはいまに始まったことではなく、昔からとても多いようだ。下落合は他の地域に比べて、歯の悪い人が特に多いのかというと、そんなことはない(と思うのだけれど・・・)。1934年(昭和9)に作成され、翌年の1月に発行された「大日本職業別明細図(商工地図)」(東京交通社)の「淀橋区」を見ると、確かに歯科医院が目につくのだ。
 いつか、こちらでもご紹介した歯科医師のパイオニアのひとりであり、現在、第二文化村の「延寿東流庭園」Click!として記念されている、東京医科歯科大学の創立者・島峯徹Click!も住んでいた。そんなコネクションから、歯科医院がことさら集まってしまったのだろうか? でも、1地域に医院が集中してしまうのは、見込めるクライアント(クランケ)のマーケティングを無視しているとしか思えないのだけれど・・・。
 先の「大日本職業別明細図/淀橋区」の裏面には、各町内の特徴が紹介されているのだが、落合町の「案内記」としてこんな記述がある。
  
 落合町/目白ノ文化村ト云ッテモ落合町ニアルノタカラ此ノ町ハ文化村ノ発祥地ト云ッテモヨカロウ、翠丘住宅地ナドハ良住宅地トシテ著名デアル、土地ハ高燥デ展望ガ開ケ交通ノ便ト共ニ益々インテリ層ノ集団地区トシテ発展スルデアロウ。
  
 各町内の団体や企業、店舗から地図の裏面へ広告を取らなければならないので、落合町に限らず、他の町も最大限のヨイショをしているのは間違いないが、目白文化村を抱える昭和10年前後の落合町のイメージは、およそこんなものだったのだろう。この文章の中で、「翠丘」(翠ヶ丘)の名称が用いられているが、山手通りが貫通する以前、妙正寺川の北側にせり上がった、見晴坂や六天坂Click!から中井駅北側の各坂が通う、いわゆる「ムウドンの丘」Click!あたりを指す目白崖線の通称名だ。ほかに、関東ローム層がむき出しになった、急なバッケ状の崖でもあったのだろうか「赤土山」という名称も、中井駅の北側には残っている。
 
 「大日本職業別明細図/淀橋区」の裏面には、「索引付住所入信用案内」として実にさまざまな団体や企業、店舗などが広告として紹介されている。それを見ると、医院の数がやたら多いが、高い広告料を払って写真入りで掲載している医院も多い。ちなみに国際聖母病院も、地図表面の写真と裏面の広告とで紹介されている。
 歯医者では、「歯科落合医院」(下落合2丁目570番地)が写真入りで、院長は幡野義甚となっている。医院のあった場所は、子安地蔵通りに面していて、下落合公園(旧・本田宗一郎邸)Click!のすぐ近くだ。その周囲には目白通りに面して、「小林クスリ」や「安田クスリ」など薬局が目立っている。「歯科落合医院」は、別名「幡野歯科院」または「落合歯科院」とも呼ばれたようで、掲載される媒体によっては表現がまちまちのようだ。「職業別明細図」では、表面の地図が「幡野歯科院」、裏面の広告が「歯科落合医院」と記載されている。少し前に編まれた『落合町誌』(1932年・昭和7)では「落合歯科医院」となっているが、院長の幡野義甚という人は山梨県の出身で、1923年(大正12)に日本歯科医学専門学校を卒業後、ほどなく下落合に開業している。「爾来氏の手腕は江湖に認識され、患者の信頼を増し以て今日に至る」と書かれている。
 なお、戦後すぐのころ、国際聖母病院へ救援物資を詰めたドラム缶が米軍機から投下されたが、この幡野歯科医院の近くへそのひとつが落下し、幡野家の家族を直撃して死傷者が出ている。
 
 もうひとつ、面白い発見があった。「富永歯科医院」というのが、葛ヶ谷に近い下落合4丁目1568番地に開業していたのだ。以前、佐伯祐三の『下落合風景』シリーズで紹介した、「富永醫院」Click!のごく近く、道1本隔てて50mほどしか離れていない地点だ。「富永歯科医院」も、地図面に写真が掲載されていて、いかにもモダンなデザインの建物だ。大正末に「富永醫院」を開業した、富永哲夫の姻戚のひとりだろうか? 院長は富永一郎という人物になっているが、のちに東亜国内航空の社長に就任する富永五郎とも、なんらかの関連がありそうだ。富永家は、ひょっとすると医者一家だったのかもしれない。
 
 「富永醫院」が昭和8~9年までつづいていたら、佐伯祐三の描いた「道」Click!の坂下には「富永醫院」、坂の上には「富永歯科醫院」の△看板が立ち並んでいたにちがいない。富永一郎の名前が、『落合町誌』に紹介されていないところをみると、「大日本職業別明細図/淀橋区」が作成されたころ、昭和8年前後に開業したばかりだったのだろう。

■写真上は、1934年(昭和9)の「歯科落合医院(幡野歯科院)」。は、下落合公園近くの現在の同所。目白通りから子安地蔵通りへ入った、すぐのところだ。
●地図は、「下落合事情明細図」(1926年・大正15)に描かれた「落合医院」。前年に作成された“出前地図”には記載されていないので、おそらく大正末の開業と思われる。は、「大日本職業別明細図」の裏面に掲載された「歯科落合医院」の広告。左には「富永歯科医院」の名前も見える。
■写真中は、「大日本職業別明細図」に掲載された歯科落合医院=幡野歯科院界隈。地図の左が北、上が東となっているので見にくい。は、同地図が作成された2年後に撮影された、1936年(昭和11)の空中写真に写る同院。
■写真下は、富永歯科医院の建物で、おそらくできたばかりだろう。は、「大日本職業別明細図」に掲載された同院。目白文化村のすぐ近くだ。

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Weblog: Chinchiko Papalog
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カラー版「商工地図」を入手した。
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Tracked: 2016-08-13 00:02