下落合を描いた画家たち・笠原吉太郎。(1)

 

 笠原吉太郎(1874~1954年)も、昭和初期の下落合をあちこち描いているが、知名度の点から個人蔵が多く、目にする機会がきわめて少ない。しかも、この画家は親しくした画家たちに影響されやすいのか、時代によってタッチが頻繁に変わるようだ。画家というよりは、今日的にいうならグラフィックデザイナーの傾向が強いように思う。当時は、画家より一段低く見られていた「図案家」ということだろうか。もともと、桐生の織物の家に生まれ、代々デザイン(意匠)と機業を営んでいた環境だったそうだから、現代ならデザイナーあるいはイラストレーターとして大成していた才能のように感じる。
 笠原吉太郎の家は、以前に紹介したように佐伯祐三アトリエの近く、八島さんの前通りClick!に面していて、しばしば佐伯夫妻も遊びに訪れたようだ。佐伯ばかりでなく、里見勝蔵や前田寛治、外山卯三郎たちとも交流したらしい。彼らとは、かなり歳が離れている笠原だが、1930年協会展のちに独立美術協会の独立展へ、頻繁に作品を寄せている。佐伯は、笠原邸へ突然やってきて吉太郎の肖像画を描いた。『男の顔・K氏の像(笠原吉太郎像)』(1927年・昭和2)と名づけられたポートレートは、笠原が描いた『下落合風景を描く佐伯祐三』Click!のお返しだったものか?
 上掲の笠原の『下落合風景』は、笠原家の数軒隣りに住んでいた高良武久が所蔵していたものだ。医師の高良は、のちに下落合の妙正寺川沿いへ、森田療法の実践施設として「高良興生院」を建てることになる。この風景も、観たとたんにどこだかわかってしまった。『下落合風景』と題されてはいるが、実際は長崎町側にイーゼルをすえ、二叉路を西に向いて描いている。手前からつづいている大通りは、もちろん目白通り。ところが、現在とは異なり、目白通りは右手へ広いまま斜めに入っていく道ではなく、左手へ細く入っていくわき道のほうへとつづいている。右手へ向かう広い通りは、東長崎駅前を通過し江古田から練馬へと抜ける、江戸期からの幹線道路だった清戸道のつづき。
 
 いまでは、左へと入っていく目白通りのほうが拡幅されて、むしろ広くなっているが、この絵が描かれた昭和初期は、練馬方面へと向かう右手の道のほうがメインストリートで広かった。目白駅を発車し、途中で目白文化村を経由して練馬へと向かうダット乗合自動車(バス)Click!も、ここで目白通りを離れて右(北西)へハンドルを切りながらカーブしていった。つまり、ここは第一文化村と第二府営住宅の北側を走る目白通り、現在の南長崎にある二又交番のあたりだ。右端に見える、黒ずんで張り出した屋根の建物が、当時この場所にあった交番。赤い球体の交番灯が、かろうじて確認できる。いまの交番は、中央に描かれた三角形の先端に移動している。
 絵の中には、2本の煙突が見えているけれど、ふたつとも銭湯の煙突だ。左側の煙が出ている煙突は、第一文化村の北端から目白通りへと抜ける途中、小野田製油所の手前斜向かいにあった、廃業して久しい「萩の湯」。右側の煙突は、南長崎の住宅街にあった、ついこの間廃業したばかりの「久の湯」だ。わたしは学生時代、一時期この近くに住んでいて、第一文化村近くの「萩の湯」ではなく、長崎の「久の湯」ファンだった。
 佐伯祐三をはじめ、他の画家たちの『下落合風景』は、きわめて正確に風景を写しとっているように思われるが、笠原の同風景は、まあ、どうしたことだろう。当時の流行りコトバで言うと、大きくデフォルマシオン(変形)されすぎている。石材が敷きつめられた歩道から、道路向こうの歩道までの距離が、あまりに広すぎる。人もクルマも大八車も、まるで十三間通りぐらいはありそうな道路にポツネンと描かれていて、どこかバランスを考えない子供じみた絵のようにも見える。
 『美術ジャーナル』の復刻第6号(1973年・昭和48)に、笠原の次女の回想が載せられている。
  
 父の絵描きは早描きでした。十号位のカンバスを二枚合わせて、絵道具一式を自転車の荷台にのせ、母の作ったブルーズを着て、写生に出かける父の軽ろやかな姿が思い出されます。帰えって来た時は二枚とも絵が出来ているのには子供心にもおどろきでした。  (安東寿々代「あの当時はのびのびした時代でした。」より)
  
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 佐伯とまったく同様に、小さめのキャンバスを中表で2枚重ねて写生に出かけ、1日に2作品を仕上げるペースで描いていたのがわかる。『下落合風景』ということで、ことさら制作スタイルまで踏襲したものだろうか?
 もう1作、佐伯が死ぬ1928年(昭和3)に笠原が描いた『下落合風景』も現存するようだが、こちらは雪の日の下落合だろうか、どこかの原っぱを描いたようだが、まったく見当がつかない。

■写真上は、笠原吉太郎『下落合風景』(制作年不詳/昭和初期)。は、現在の同所。目白通りの北側にあった交番は、目白通りと練馬へと抜ける道の二叉中央へと移動している。
●地図は、「下落合事情明細図」(1926年・大正15)。この地点から、当時は目白通りが急激に狭まっているのがわかる。は、「落合町市街図」(1929年・昭和4)。交番(椎名町派出所)の隣りに、ダット乗合自動車発着所(バス停)の「文化村」が記載されている。
■写真下は、1936年(昭和11)の上空から見た目白通りの“二又交番”あたり。は、笠原吉太郎の『下落合風景』(1928年・昭和3)。一面の雪原だろうか、場所が特定できない。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    そのほか、たくさんのnice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年11月25日 20:11

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