第一文化村にいた羊と「犬」。

 

 目白あるいは長崎(椎名町)界隈で漫画といったら、すぐにも手塚治虫や藤子不二雄、赤塚不二夫に石ノ森章太郎と、トキワ荘がらみの作家たちが出てくるだろう。不二夫プロダクションは、いまだ下落合(現・中落合)の妙正寺川沿いにあるし、手塚プロダクションもずいぶん長い間、高田馬場にあったりする。でも、これはさらに、はるか昔のお話。
 目白文化村の第一文化村には、箱根土地がなかなか買収できない土地が昭和初期まで残っていた。以前にも、目白文化村シリーズの中で書いたが、第一文化村にあった中央テニスコートあたりの区画だ。ちなみに、第一文化村にはテニスコートが北側にもひとつあるので、便宜上こちらを中央テニスコートと呼ぶことにする。この一画だけは、電源ケーブルを埋設した共同溝が敷設できずに、何本かの電柱が残っていたらしい。
 箱根土地は、どうしても買収できないところは地主から土地を借りて、文化村の施設を造っていった。中央テニスコートと、その南側にあった観覧場もそうだ。ようやく地主が土地を手放し、箱根土地の所有地になったとたん、施設はすぐに解体され共同溝が敷設されて、道路沿いには大谷石の縁石が埋められ、さっさと住宅敷地として販売されている。もうすぐ第二文化村へと抜けられる、中央テニスコートの周辺にも、昭和初期まで工事用のトロッコの軌道がいつまでも残っていた。
 中央テニスコートの観覧場あたりには、なぜかいつも羊がいて、メーメー鳴いていた。どうして、第一文化村のこんなところに、牧場でもないのに羊がいたのかは不明だけれど、いまでもウサギClick!がピョコピョコ道を歩いている第一文化村界隈のことだから、「いたのだ」としてそのまま納得するしかない。(汗)
その後、田河水泡が見たのは「羊」ではなく、第一文化村“中央テニスコート”のクラブハウスに住んでいた、秋山清が飼っていた「山羊」であることが判明Click!している。田河はヤギと書こうとして「羊」と書いてしまったか、あるいは出版社の誤植だろう。
 
 このコートの西側、昭和初期に建てられたばかりの邸宅に、高見沢仲太郎という人物が引っ越してきた。ご近所では、この人物がどのような仕事をしているのか、よくわからなかったようだが、やがてこの家から1匹の「犬」が生まれる。最先端の新しいもの好きで、いくら大正デモクラシーが香るリベラルな文化村でも、漫画家という職業が当時から広く認知されていたとは思えない。
 1931年(昭和6)から、高見沢は講談社が発行する『少年倶楽部』に作品の連載をはじめる。それが爆発的な人気を呼ぶとは、当時の文化村の人たちも、また本人さえ予想していなかったろう。ペンネーム田河水泡(たかわみずあわ=高見沢)で描きつづけたシリーズは、『のらくろ』という漫画だった。親の世代には、漫画といったら「のらくろ」か「冒険ダン吉」というほどのお馴染みだ。野良犬の「黒吉」が、猛犬連隊へ入営して勇ましく出征する・・・という、いまから見るとかなりシュールで妙な展開なのだが、最初は二等兵だった黒吉は手柄をたてるたびに昇進し、最後には大尉になって退役するというストーリー。
 
 少佐へ昇進させるつもりだったが、さすがに犬の佐官はよろしくない・・・と軍部からクレームがつき、退役させたという逸話もまことしやかに残っている。太平洋戦争が始まる1941年(昭和16)に退役となるのだから、「のらくろ」はかなり幸運といわなければならない。でも、うちの義父(1939年退役)がそうだったように、戦争の激化とともに臨時召集された可能性もあるのだが・・・。
 敗戦とともに、退役のらくろ大尉はなぜか喫茶店のマスターとなるのだけれど、ときどき思い出したように出征し、1981年(昭和56)まで戦いつづけるのだから、きっと頭の中はルバング島の小野田少尉のようだったのだろう。天皇の「終戦の詔勅」が犬語で書かれていなかったので、ぜんぜん理解できなかったのかもしれない。もっとも、「戦後の戦い」では戦争をしているのに、なぜか戦死犬が1匹も出ていないそうだ。
 
 うちの親父は、軍隊や戦争はムシズが走るほど大嫌(だいきれ)えで、理工学部で学徒動員をまぬがれた1943年(昭和18)以降、「どう論理的にまともに考えても、勝てるわけがね~や」と言って、「まとも」じゃない警察へ引っぱられているぐらいだから、いくら田河水泡が大川向こうの隣り町・本所出身だからといっても、「のらくろ」は好きではなかったようだ。むしろ、もう少し古い麻生豊の『ノンキナトウサン』のことをよく話題にしていた。ちなみに、取調べに当たった「まとも」じゃない警察官(顔見知りだったようだ)に恫喝され「非国民」呼ばわりされ、さらに殴られでもしたのだろう、戦後、この警察官をわざわざ探し出して謝罪させている。(「お礼参り」ではないので、あしからず)
 田河水泡というと、どうしても出身地の本所や近くの馴染み深い深川、妻の高見沢潤子の兄である小林秀雄との田端時代がクローズアップされがちだけれど、「のらくろ」が目白文化村で描かれていたのは、あまり知られていない。

■写真上は、『少年倶楽部』(昭和15年7月号)。は、中井駅頭の出征兵士の見送り。下落合か上落合の住民へ赤紙がとどいたのだろうが、敗戦まで無事に生き残れただろうか?
■写真中上は、第一文化村の中央テニスコートがあったところ。高見沢邸はこの写真の右手、西側の区画に建っていた。は、1936年(昭和11)の第一文化村上空。「のらくろ」を連載中のころだ。
■写真中下は、田河水泡(高見沢仲太郎)。は、☆ひとつだから二等兵の「のらくろ」。
■写真下は、戦時中の目白文化村Click!をまわった回覧板。鶏卵の配給について、各家庭の取り分をこと細かに記載している。1月9日の日付があるが、2人家庭にわずか卵1個の配給なので、戦争末期の1945年(昭和20)1月9日に回覧されたものだろう。は、「大東亜戦争終戦の詔勅」。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    いつも、数多くのnice!をありがとうございます。>kurakichiさん
    2009年07月18日 23:05
  • ChinchikoPapa

    200万アクセス超、おめでとうございます。同じ地域がテーマのサイト同士として、今後ともよろしくお願いいたします。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2009年09月13日 20:14
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2012年07月09日 10:58

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