中国語と石が飛びかう目白通り。


 明治末から大正にかけて、目白・下落合界隈は一気に中国色が強くなる。近衛篤麿が設立した、東京同文書院(のちに目白中学校を併設)が中国からの留学生を受け入れはじめたからだ。崩壊寸前の清王朝と、台頭する革命勢力との間で中国では混乱がつづき、当時、日本には留学生と亡命者あわせて1万人を超える中国人が滞在していた。もっとも、現在の中国人滞在者の数に比べたら、70分の1(正規滞在/総務省統計局2005年)の人数にすぎない。
 近衛は、日本には東京同文書院Click!、中国の上海には東亜同文書院を設立し、留学生を交換して日中相互の人材育成をめざしていたようだ。開院と同時に留学生が殺到し、彼らの宿舎も設けられたため、目白通りは中国人留学生の姿が目立つようになる。でも、近衛の理想はしばらくはうまくいっていたようだが、本国内の旧守派と革命派の対立が、そのまま同文書院の留学生たちの間に持ちこまれ、少しずつ院内にも対立が拡がりはじめた。
 あくまでも、清王朝を支持する学生と、中国革命を起こそうとする学生とに分かれ、ついに対立は深刻な事態となった。同文書院の教授陣は、もちろん学生間の対立には気づいていただろうが、なんらなすすべがなかったように見える。対立は、ついに実力闘争にまで発展してしまった。
 ある日、同文書院の寄宿舎のほうから、留学生たちが一団となって清戸道(目白通り)へ飛び出してきた。口々になにか叫びあい、罵りあっているようなのだが、もちろん中国語なので地元の商店の人たちにはわからない。大勢の留学生たちは、通りの東と西に分かれて、いきなり投石合戦を始めたのだ。あらかじめ、同文書院の玄関に敷いてあった石礫を持ってきたらしく、双方が渾身の力をこめた投石なので当たれば負傷は間違いない。留学生たちは必死の形相で、真剣な投石合戦となってしまった。
 
 その模様を、岩本通雄・著『江戸彼岸櫻』(講談社出版サービスセンター)から引用してみよう。
  
 (前略)お互にすごいけんまくでぶっつけ合っています。
 折悪しく街道にまだ残っていたわらぶきの農家から出て来たお婆さんが、忽ちひたいを割られてタラタラと流れて落ちる血を手で押さえながら、道路にうずくまっています。
 何処やら硝子の割れる音がしました。清同舎ミルクホールの前の文房具屋の硝子戸が石でこわれたのです。隣の荒物屋のバケツの山がひっくれかえされてガランガラン音を立てます。酒屋さんに石が飛び込み出しましたので、若主人が大戸をおろすことを小僧さんにいい付けています。これにつられて、清同舎も店の上げ戸を下して、本日は正に開店休業です。
  
 もっとも、同文書院内で双方が衝突しなかったのは、やはり留学をさせてくれた恩義を近衛篤麿や教授陣に感じていたからだろう、院舎や寄宿舎、あるいは調度類を壊しては申しわけない・・・という気持ちがあったとみられ、日本風にいえば「ちょいと面ぁ貸せ。表出ろぃ、表へ!」ということになったのだろう。でも、その“表”通り=目白通りの商店は、大迷惑きわまりないのだけれど。
 この「石合戦」のあと、同文書院の寄宿舎にいた中国人学生たちは、「この夜のうちに、皆何処かへ消えて書院の寄宿舎は、も抜けの空、スッカラカンのヒュードンドンになって」しまったと書いてあるので、きっと革命を支援しに、あるいは清朝を守るためにほどなく全員帰国したのだろう。こうして、留学生がひとりもいなくなった東京同文書院は存在意味がなくなり、やがて自然消滅してしまう。
 その後、せっかくの学校施設がもったいないということで、日本人を対象とした私立中学校を創設することになった。それが、初代校長に細川護成が就任することになる「目白中学校」だ。目白中学でも、実にさまざまなエピソードが繰り広げられるのだが、それはまた別の物語。

■写真上:清戸道(目白通り)沿いに建つ「東京同文書院」。「目白中学校」創設後の姿。
■写真下は、1911年(明治44)の「東京府北豊島郡長崎村豊多摩郡落合村」地図に記載された、東京同文書院と目白中学校。近衛邸の敷地を用いた、広いキャンパスだったのがわかる。は、現在の同所。ちょうど目白聖公会の斜向かい、やや東寄りに建っていた。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    「スサノオのぼうけん」には惹かれます。そのころ、穐吉敏子=ルー・タバキンBBのJAZZ「ミナマタ」に客演して間もない、観世栄夫が演出している点も気になりますね。こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2009年01月24日 22:12

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