いつまでも馴染めない山手言葉が、ほんの少しだが残っている。一人称を表すときにつかう、「僕(ぼく)」だ。その対語としての、二人称の「君(きみ)」というのにも馴染めない。その昔、大学を卒業するころだったろうか、「僕」という言葉をつかっていて親に叱られた記憶がある。「いつまで子供じみた言葉をつかってんだ?」・・・というわけだ。
東京弁の町言葉では、「僕」というのは原則的に幼児語、つまりガキの言葉なのだ。
「いくつにおなりなの、僕ちゃん?」
「僕、6つになったんだ」
・・・という具合だ。通常は、一人前の大人になったら「わたし」「あたし」/「あなた」、あるいは「おれ」/「おまえ」であって、「ぼく」/「きみ」という言い方はほとんどしない。(幼馴染みとの交流や同窓会といった、特殊なシーンでの言葉づかいは別だ) つまり、町場から眺めれば、山手の男が自分のことを「僕」なんて言ったりするのを聞くと、背筋がゾクゾクするとともに、「いつまで親のスネをかじってやがる」というような印象を受けてしまう。そこはかマザコンのようにも映るのだ。このあたりの感覚、本多勝一もどこかへ書いていたから、信州でもきっと同じような感触があるのだろう。
とにかく、学生以上の大人が自分のことを「僕」と言ったりすると、町場では奇異に思われ怪訝な顔をされた。これには、わたしにも実体験があって、学生時代に親戚が集まった席で「僕」とやったら、話し相手だった“大人”がとたんに、わたしを“子供”扱いし始めた。つまり、「おまえ、まだそんな言葉づかいをしてるほど成長していないのかい」・・・という、言わずもがなの姿勢だったのだろう。
たびたびの引用で恐縮だけれど、同じ町内出身の小説家なのでご容赦いただきたいのだが、小林信彦がこんなことを書いている。彼は戦後、東京の日本橋界隈ではなく、親の教育方針から乃手の中学に通わされていた。そこでケンカをして、つい下町の乱暴な職人言葉をつかってしまう。
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なにかのときに、級友と口げんかになって、「てめえ、薄汚ねえ真似しやがって」と啖呵を切ったところ、相手はぷっと吹き出して、「きみ、面白い言葉を使いますねえ」と興味深そうに言った。「なにが、面白えんだ?」「その、薄汚ねえって表現ですよ。小説や落語の中では見たりきいたりしたことあるけれど、実際に使われてるんですか?」 (小林信彦「町人文化への道」より)
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小林信彦は、江戸期からつづく老舗の和菓子屋の息子(せがれ)だから、大切に育てられ、基本的には温厚な性格だったのかもしれない。相手の言い草を聞いて、さほど腹を立てなかったようだ。ケンカの真っ最中に、「きみ、面白い言葉を使いますねえ」などと、間抜けな「きみ」呼ばわりで言われたりしたら、わたしなら拍子抜けするどころか、階段の上から背中を蹴倒してやりたくなるだろう。大人になってから、「僕」だの「君」だのという言葉を聞かされると、ついどこか小バカにされているような気がするのも、下町人の悲しい性(さが)なのだ。そういう小林自身も、常套の“文学表現”に知らず染まったものか、はたまた早くから山手に馴染み、家を出て青山へと移り住んだせいなのか(現在はどちらでもない世田谷)、「私」ではなく、「ぼく」なんて書いているエッセイもたくさん存在している。
『僕って何』という小説が発表されたとき、かなり年上で失礼ながら、作者の顔を洗面器の水へ10分間ほど浸けてやりたくなった。もっとも、この小説家は大阪人なので、大阪方言では「僕」に違和感を感じないせいなのかもしれないけれど・・・。東京の町中では、自分の連れ合いのことを「うちの奥さん」と人に紹介するほどではないにせよ、やはりみっともない言葉づかいなのだ。うちのオスガキどもは、いまは「オレ」と言っているが、社会に出れば自然に「わたし」となるのだろう。
中学生かせいぜい高校生ぐらいまでなら「僕」、あとは「オレ」か「わたし」でいい。まかり間違っても、大きな図体をして自分のことを「僕」などと言わない、生粋の21世紀町人でいてほしいものだ。コトバは、地域の文化を育む大切な基盤。東京の町中では、そういう微妙な表現を気にする方が、まだ大勢残っている。
■写真:上は、千代田城の天守/本丸・大奥の北桔橋門(きたはねばしもん)あたりを眺めながら、レストランでちょっと一服。下は、新宿の西大久保(現・歌舞伎町)に残る乃手(のて)の立派なお屋敷。
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この記事へのコメント
kadoorie-ave
一発で印象づけてしまいますね。
そういえば、人生の大切な六年間(中・高)を女子校にこもって過ごしたせいか
ただ常識がないせいか、大学に入ってから知った言葉が「俺ら」。
私は「俺」の複数形は「俺たち」しか知らなかったので
男の子たちが「俺らが○○に行ったとき...」というふうに話しているのを聞いて
「それなぁに?俺らって普通にみんなが使う言葉?」などと言って
呆れられてしまいました。........つくづく、馬鹿だったなぁ.....今も変わりませんが。
.......すみません、私の何処かの言い回しが気に入らなくても、
私を洗面器の水に10分間浸けたりしないでください.....お願いです。
ChinchikoPapa
「オレら」とは、オレもほとんど言いません。(笑) 「俺たち」と「僕ら」とが合わさった比較的新しい造語じゃないでしょうか。確かに、わたしも耳にしたことがあります。最近、昔の言葉が合わさってつかわれる面白い言葉があって、「歌舞伎町のぼったくりバー」なんて言葉が、新聞の東京版に出てたりします。東京方言では「ぶったくり」だと思うのですが、ぼろ儲けのことを「ぼる」という方言もありますから、それが合わさって“標準語”では「ぼったくり」になったものでしょうか。
それぞれ、生まれ育った土地の言葉を大切につかいつづけるのは、とても大事なことだと思います。東京弁の下町言葉にも山手言葉にも、似て非なる人工の放送言語“標準語”で話されると、よけい気になるのかもしれません。
りえ
叔父もそう言っていたと思います。
─┐
ぼ│く
…└─
ではなくて、
…┌─
ぼ│く
─┘
です。
これならオトナらしいと私は思うのですが、いかが?
ChinchikoPapa
おっ、八丁堀は「ぼく(↑)」でしたか? (御城)下町は、細かく町内ごとに言葉が違うと昔から言われてきましたけれど、「ぼく」の捉え方も違うのかも。
ただし、考慮しなければならないのは、八丁堀は御家人の屋敷に組屋敷だらけで、つまり武家屋敷が主体で、町場はかなり限られていた・・・という点です。それが、明治以降の町方言にどのように影響したのか、とても興味深いテーマですね。
りえ
正確に言うと八丁堀といっても西八丁堀で、もとは岡崎町でした。八丁堀を名乗っていいのかわかりません。日本橋の方は旧町名を残してるみたいですね。
話はかわりますが、小林信彦さんの「うらなり」を読みました。面白かったです。「カツラーの秘密」も面白かったけど。
ChinchikoPapa
『うらなり』、けっこう評判ですよね。まだ読んでませんが、わたしもこの前から気になっています。
りえ
そうだったんですか。うちは洋服屋でその隣は床屋でその隣は豆腐屋でその隣はべったら漬けの新高屋でその隣はローソク屋でその隣は食器屋で・・・というご近所だったから。山手にも商店街はある訳ですもんね。京華小学校の言葉使いだったのでしょうか。そういえば公立小なのに標準服がありましたっけ。
文京区の中学に進学したときは様々なカルチャーショックを受け、「八丁堀って田舎だったんだなあ」とつくづく思いました。そんなクラス会の打ち合わせで明日は中井2丁目在住の友人と銀座で会います。
ChinchikoPapa
このあたり、いわゆる町奉行所の役人宅(御家人屋敷)ばかりで、それを薄く取り囲むように岡崎町が形成されているのがわかります。時代劇によく登場する、「こりゃ、八丁堀の旦那にお知らせしなきゃ」・・・の、一般名詞としての「八丁堀」の中枢ですね。
戦後は、日本橋界隈もそうですが、まったくさま変わりをしてしまって、山手も下町も曖昧になり、東京オリンピックで下町人が「民族大移動」でドッと山手に引っ越してからは、言葉もごっちゃになってしまっていますね。きっとクラス会も、いろいろな言葉が飛び交うのではないでしょうか?(^^
ChinchikoPapa