佐伯が描く卒塔婆だらけの薬王院。

 

 この作品は、佐伯祐三が1926年(大正15)9月22日に描いた『下落合風景』のひとつ、「墓のある風景」にほぼ間違いないと思う。当初、佐伯の足取りから、大正末にはまだ屋敷墓が残っていた二ノ坂(蘭塔坂)Click!の界隈か、あるいは「森たさんのトナリ」Click!の近く、里見勝蔵宅のあった下落合630番地の北西側、つまり銭湯「福の湯」の南東にあったこじんまりとした屋敷墓だと考えていたのだけれど、どうやらふたつとも外れたようだ。これだけ大きな規模の墓地が、モチーフとして描かれていようとは正直、思ってもいなかった。
 この風景は、当時でも現在でも下落合界隈で最大の墓域である、薬王院の墓地だ。わたしは散歩の途中、この墓地の中や墓地沿いに周囲の道を歩くことが多いけれど、佐伯が見た当時のままの塀が、いまでもそのまま壊されずに残っている。1926年(大正15)当時の薬王院墓地は、現在の半分ぐらいの広さしかなかった。(それでもけっこう広いけれど) その後、北側の寺域にあった広大な森林を伐採して、東側の一部の土地を住宅地として売り出し、残りの半分を墓地の拡張に当てている。つまり、薬王院の墓地は元の墓域から、北へ大きく拡張されたことになる。
 
 風景の左側には、薬王院墓地の塀が長く南へとつづき、塀の上からは無数の卒塔婆がのぞいている。この風景は、いまもほとんどそのままで、80年後の今日も風情は変わっていない。ただし、木材が稀少で高価なせいか、昔に比べて卒塔婆の長さがかなり短くなっているため、いまは塀の上にかろうじてアタマの部分しかのぞいていない。道の右手には家々が建っているが、この区画も薬王院あるいは氷川明神社の敷地だったところで、地主がいまでも両寺社の土地が多い。
 この道をまっすぐ進むと、鉄刀の出土した下落合横穴古墳群Click!の斜面へと出、左(東)へ曲がって墓地沿いの階段を下りれば、やがて薬王院の山門へと抜けられる。また、逆に右(西)へ折れれば、鴟尾のような棟装飾が載った、赤い屋根の大きな池田邸Click!、つまり佐伯がこの付近で描いたもうひとつの『下落合風景』描画ポイントへと出、さらに進めば久七坂の尾根筋へと抜けられる。またひとつ、佐伯が描いた『下落合風景』の足取りがつながってきた。もっとも、この「墓のある風景」と池田邸とでは、描画順序がまったく逆かもしれないが・・・。
 
 1936年(昭和11)の空中写真を見ると、現在と比べまだ墓地の面積が半分ほどしかなく、北側は濃い薬王院の原生林で覆われていたのがわかる。ところが、戦時中の1944年(昭和19)には、北側の森はすべて伐られていて、すでに整地作業まで行われていたようだ。戦後の1947年(昭和22)の空中写真を見ると、その様子がさらにはっきりとわかる。絵の右手に描かれた日本家屋は、昭和期に入って増改築あるいは新築されたのだろうか、屋根のかたちが微妙に異なっている。また、絵の左手に描かれた、下落合802番地あたりの空き地は、1936年(昭和11)の空中写真では生垣のようなものが見えているので、すでに住宅が建っていたのだろう。
 
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を見ると、絵に描かれた手前のお宅(下落合811番地)の名前が記入されていないが(薬王院または氷川明神の敷地だったせいだからか?)、その先にチラリと見える屋根の家、つまり「事情明細図」に記載された「飯沼邸」は、つい最近まで建っていたのでわたしも実際に目にしている。竹やぶに半分囲まれたお宅で、かなり長期間にわたり空き家になっていたのだろうか、ずっと雨戸が閉められたまま荒れるにまかせたような状態だった。現在は、新築の住宅が建っている。
 では、「墓のある風景」とみられる薬王院の墓地を、佐伯の描画ポイントClick!へ加えよう。

■写真上は、佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)。は、現在の同所。墓地の塀は当時のままで、塀の下、土台に刻まれた2本の筋にご注目いただきたい。
■写真中上は、卒塔婆がのぞく塀。は、いまもほとんど同じ情景が見られる薬王院墓地の塀。現在は卒塔婆の高さが、昔に比べて1m前後短くなっている。
■写真中下は1936年(昭和11)、は1947年(昭和22)の空中写真。墓地の北側にあった薬王院の森が伐採され、整地されているのが見える。現在は、北側もすべて墓域となっている。
■写真下は、「下落合事情明細図」(1926年・大正15)。は、薬王院墓地の界隈。鴟尾の載った赤い屋根の池田邸が見える道へは、歩いて1分もかからない。9月22日の同日(午後)に描かれた「レンガの間の風景」(15号)は、「墓のある風景」(20号)とはキャンバスの号数が異なるが、やはりこの近くの風景なのだろうか?

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年02月26日 15:17

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