『池袋モンパルナス』を城西学園で観た。

 劇団ジャムジャムプレイヤーズの『池袋モンパルナス』(作/演出・小竹達雄)を、城西学園へ観にいった。「赤紙」が薄いピンク色ではなく、真っ赤っかだったのがちょっと気にはなったけれど(レッドカードじゃないんだけどな)、とても面白かった。以前に上演したストーリーに比べ、より地元に密着した内容にシナリオが書き直されていたようだ。そう、城西学園は戦時中、軍事教練を拒否しつづけた「非国民」学校であり、教師を何人も警察へ引っぱられながら、教育の自由を標榜して闘いぬいた学校としても有名だ。長崎アトリエ村を形成した、「非国民」たち芸術家Click!が集った地元での、『池袋モンパルナス』初上演だった。
 新劇はほとんど観ないわたしだが、1年ぶりぐらいの舞台だろうか。今後もこの芝居は上演される可能性があり、ネタバレになるので詳しくは書かないけれど、旧・長崎アトリエ村にかろうじて残った格安家賃の家へ、演劇に挫折したらしい主人公の男が引っ越してくるところから物語ははじまる。部屋に置き忘れられた画材道具入りの箱を開けたとたん、2006年からいきなり1939年(昭和14)へタイムスリップしてしまうという設定。当時は、画家や詩人たちが参集する「非国民」たちのアトリエ村で、さまざまな人物たちが部屋へ出入しはじめる。
 
 
 「いま、戦時中ですよね?」と訊ねる2006年の主人公に、「ええ、どこかで戦争してるようだ」と答える、1939年の差配(管理人)のおばちゃんの言葉が印象的だ。当時の庶民は、ときどき白木の箱に小さく収まってしまった“英霊”たちが、軍の徴用船で中国大陸から“無言の帰国”をするニュース映画や新聞を見ても、どこか他所で行われている戦争・・・という意識がいまだ強かっただろう。紀元2600年の大典や東京万博を翌年にひかえ、日本橋界隈ではディズニーのアニメ映画が封切られて空前のヒットをするなど、むしろ浮かれた世相だったのかもしれない。(親父も浮かれてディズニーアニメ映画を毎週観ていた) 誰も、わずか6年後に日本が壊滅するなど思ってもみなかっただろう。
 やがて、米国との戦争がはじまり、いわば世間から“隔絶”されたゲージュツ集落であったがゆえに、さまざまな軸足で物事を多角的に見られるニュートラルな精神が保たれ、「非国民」であるがゆえにきわめて“健全”な眼差しが活きつづけていたのは、なんとも皮肉で象徴的な現象だ。B29の空襲下で、ダンスパーティやジャムセッションを開催していた彼らを、「八紘一宇」「撃チテシ止マム」の精神をことさら吹聴してまわっていた「非」なし「国民」が、今日の“北朝鮮”を天にツバするがごとく嗤えないのと同様に、非難することもできはしないだろう。「一人一人の市民が大きな勢力や制度のために金しばりになっているのが常ですが、一人一人が自分を金しばりにしたものの正体への反省を行うことは、あたかも生きている人間が己の死を反省するのと同様に、必要なことと思います」(渡辺一夫「不幸について」1949年より)
 
 
 『池袋モンパルナス』を観ていたら、ふいに英国の小説家R.ウェストールを思い出してしまった。彼の作品に、『チャス・マッギルの幽霊』(1982年)というタイムスリップものが1作だけある。こちらは、第二次大戦下のナチスドイツによる空襲下のロンドン郊外が舞台。第二次大戦から、ある部屋だけ第一次大戦へと時間がゆがんでしまうのだが、主人公が過去から現代へともどり、記憶がどんどん薄れていく中で起きる出来事のたたみかけが、「ウマイ!」と思った作品だ。同じ味わいの余韻を、『池袋モンパルナス』にも感じたせいで、いきなりウェストールが出てきたものだろう。もっとも、『池袋モンパルナス』は過去に取り残される男が登場し、『チャス・マッギルの幽霊』は過去から救い出される男が登場する、後者は最後にめでたしめでたし・・・というエピローグなのだけれど。
 長崎界隈を歩くと、いまでもアトリエ村の残照をかろうじて見ることができる。今回のように、城西学園の校長先生や教頭先生も出演し、舞台横で生バンドが演奏する上演は二度と無理かもしれないが、またぜひどこかで再演してほしいものだ。

■写真上:『池袋モンパルナス』の油絵具用パレット型うちわ。
■写真中:さくらヶ丘パルテノンに、かろうじて現存するアトリエ群。煙突は銭湯「不動湯」。
■写真下左上が東荘跡。右上が、培風寮跡を含むすずめヶ丘アトリエ村界隈。の2枚が、つつじヶ丘アトリエ村。「峯孝作品展示室」が開設されている。

この記事へのコメント

  • おかみ

    当日はご来場いただきありがとうございました。
    向坂役を演じました、おかみです。
    遅ればせながら御礼申し上げます。

    さて、劇中の赤紙の色ですが、昭和14年当時は「血の赤」に近い赤色だったのが、16年以降物資が乏しくなり染料も満足に得られなかったところから映画やドラマなどでも使われる薄桃色になっていったという情報があり、あのような色にした次第です。文献元を失念してしまいましたが、もし昭和14年当時の赤紙の色がピンク色ということがわかる文献がございましたらお教えください。次回再演があるかはわかりませんが、その際に変更いたします。
    2006年07月11日 11:26
  • ChinchikoPapa

    おかみさん(ちょっと妙な表現になってしまいますが)、わざわざコメントをお寄せくださり、ありがとうございます。(^^
    先日の『池袋モンパルナス』、とても面白かったです。またぜひ、どこかで再演をしてください。おかみさんの演技、とてもよかったです。
    「召集令状」に関してですが、わたしの親父や親戚が「ピンク色」という話をしておりましたが、その後、わたしの識る限りでは「召集」の形態によっても、いろいろな色彩があったようで、当然、陸軍と海軍とでは色が違っていたようです。「充員」か「臨時」の形態でも、色が違っていたという方がいらっしゃいますが、1941年(昭和16)現在の召集規則では、陸軍が「淡紅色」、海軍が「白色」(「防衛」は淡紅色)とされています。では、それ以前の「充員」「臨時」の規則は、どうだったのかまでは、残念ながら正確にはわかりません。
    この部分、劇中で召集令状が陸軍だったのか海軍だったのかというシチュエーションでも異なりますが、通常の「充員」と緊急に召集する「臨時」とでも、また紙色が微妙に異なるのかもしれません。昭和14年当時は、当然ですが陸軍の損害のほうがほとんどでしたでしょうから、「赤色」系の紙の可能性が高いですね。
    ただ、あまり引用したくない雑誌ではありますが(^^;、1937年(昭和12)当時の「赤紙」について証言されている方の手記が掲載されているサイトを見つけました。これによれば、昭和12年当時の陸軍「召集令状」も「ピンク色」だったとされています。(予備役からの召集ですから「臨時」でしょう) でも、同時期における通常の「充員」がどうだったかは書かれていませんので、「赤色」の可能性も100%ないとは言い切れません。
    http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2005/0511/hi-se.html
    これには、「赤紙を作る染料が無くなったので・・・」少しずつ淡紅色になっていったという話にも触れていて、のちの「デマ」であったらしい・・・との記載も見えます。ご参照ください。
    2006年07月11日 20:11
  • おかみ

    詳しい解説ありがとうございます!
    お恥ずかしながら海軍と陸軍の召集令状の色の違いまで存じておりませんでした。あの軍服は海軍系ですよね(出演した私が言うのも変ですが)。でしたらいろいろ間をとって薄桃色にするのが良いような気もします。
    不謹慎かもしれませんが、とても興味深い内容をありがとうございました。次回再演の機会がありましたら、演出家にその旨伝えておきます。
    2006年07月12日 04:31
  • ChinchikoPapa

    おかみさん、こちらこそ曖昧な記述で申しわけありません。
    わたしも、当時生きていたわけでもありませんし、タイムスリップもしたことはないですので(^^;、実際に目にしたものではありません。博物館に残っている「赤紙」の多くは、戦争が激しくなった昭和16年以降のものですし、それらは確かにピンク色をしているのですが、それさえ悪い色素を使ったために経年により色が褪せてしまっている・・・のかもしれません。
    親父が言っていた「ピンク色」の召集令状は、年齢からいっても昭和16年以降のことだと想像するのですが、義父が昭和11年から陸軍に召集されていますので、実際に当時の「赤紙」の色を見ているはずです。でも、先年逝きましたので、確かめることができません。
    2006年07月12日 11:44
  • おかみ

    まとめるわけではないですが、やはり当時のことは戦争のことだけでなく、もっと情報があれば(残っていれば)良いのにと思いますね。我々が演じた(私は役でも現代人ですが)時代は戦争という「負」の面だけではなく、カラフルで鮮やかな側面もあったと聞きます。ささやかながらそのような一面を舞台などで再現できたら幸いです。
    2006年07月12日 17:37
  • ChinchikoPapa

    わたしも、そう思います。1937年(昭和12)から、日中戦争が拡大して戦時色が強まるわけですけれど、世の中が一気にカーキ色になったわけではなく、下町では日米が開戦するまで、相変わらず総天然色のディズニーアニメが上映されていましたし、クリスマスや年の瀬、正月などには華やかで艶やかな色彩が街にあふれていたといいます。街から、ほんとうに色彩が消えていったのは、いろいろと当時のお話を聞きますと、サイパン/テニヤン島が「玉砕」した昭和18年ごろからではないかと想像します。
    ぜひ、また面白い舞台を観せてください。楽しみにしています。
    2006年07月12日 18:49
  • おかみ

    服装も昭和15年の大日本帝国国民服令が発令されたあたりから味気ないものになったと聞きます。それはそれでひどいと思いますが、ある意味激動の時代だったわけで、芸術家たちなどはかえって刺激されることも多かったかもしれませんね。

    またお邪魔します。今後ともよろしくお願いしますね。
    2006年07月13日 00:22
  • ChinchikoPapa

    こちらこそ、よろしくお願いいたします。(^^
    そうそう、物資不足でなにもかもが配給制になったころから、急速に街が色あせていったのかもしれません。当時、カラー写真が開発されていれば、すぐにわかったことなのでしょうが、セピア色の写真しか残ってませんね。
    2006年07月13日 11:46
  • sig

    こんにちは。
    本文といっしょに、お二人のコメントのやり取りを興味深く読ませて頂きました。
    わずか70年そこそこの資料が、すでにあやふやになっている時代の流れの速さを覚えると同時に、国レベルでのそうした資料の収集・整理が望まれますね。
    (九段の「昭和館」とか、住友三角ビルの何とかというところにも行って来ましたが、展示だけでなく資料の閲覧なども出来るのでしょうか)
    2008年09月27日 16:09
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    九段下の「昭和館」や靖国神社の「遊就館」には、戦前から戦中・戦後にかけての貴重な資料類が保存されていますね。ともに、資料を閲覧できる専用コーナーがありますので通常資料なら予約なしで、貴重資料なら事前に申し込みをすれば見せてもらえると思います。マスコミなどで取り上げられたタイムリーな資料類は、かなり貴重なものでもすぐに見せてもらえるケースもあるようですね。
    住友ビルの「平和祈念展示資料館」は、行ったことがないのでわかりませんが・・・。
    2008年09月27日 20:30
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年07月18日 23:03
  • ChinchikoPapa

    太陽がコロナを、まるで手足のように伸ばして描かれる表現、昔から好きなんですよ。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2009年07月19日 17:44

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