散歩してると牧場に出合える町。

 東京の街中、たとえば旧・長崎町(現・椎名町界隈)を歩いていると、いきなり牧場に出合うことがある。いえ、ホントに! 豊島区は東京市でも、最大クラスの牧場地帯(牛乳生産地)だったのだ。牧場というと、広大な草原を想像しがちだけれど、東京の牧場はかなり様子が異なる。郊外住宅地のまん中に、忽然と牧場が出現するのだ。それら住宅街に点在する都市近郊型の牧場は、“東京牧場”と呼ばれて親しまれた。まさに、搾りたての牛乳が東京でも飲めた時代だった。“東京牧場”は、大正時代の末をピークに、都市化の波が押し寄せるにつれてしだいに減少していくことになる。
 従来、都心に散在していた牧場が東京近郊へと移転したのは、1900年(明治33)の警視庁による「牛乳営業取締規制」によるとされる。理由は、都心の急速な市街化にともなう建築規制に、牧場の建築物(牛舎)が適合しないから・・・というのが表向きのようだけれど、実際は過密化する都心において少しでも多くの住宅敷地の確保と、衛生面からの郊外強制移転ではなかったろうか。移転先の近郊としては、目黒・渋谷・新宿・池袋・大塚・巣鴨・・・と、鉄道や幹線道路によるターミナルを形成していたエリアが多い。これはもちろん、牛乳や加工された乳製品を、効率よく都心へ運搬する必要があったからだ。
 
 牧場の朝は早い。午前3時ごろには起き出し、牧舎で搾乳作業を終えたあと、日の出前には牛乳を大八車や牛車に載せて加工場へと運ぶ。だから、東京郊外へ住宅が押し寄せてくると、常に牧場の「騒音」や臭気の問題から、まわりの住民たちとの間で軋轢を生むことになる。住宅街のまん中に、ポツンと牧場がある面白い風景が出現したのも、大正末から昭和初期にかけてのころだ。“東京牧場”は、住環境の衛生や騒音などの課題から、あるいは地価高騰のあおりを受け、さらに郊外へ広い土地を求めて、ドーナツ状に拡散していくことになる。
 狭い“東京牧場”では、面白いシステムができあがっていた。もともと敷地が狭隘だから、牛乳の需要が急激に高まっても、ゼルシーやホルスタインなど乳牛の頭数を増やすことができず、市場への供給が追いつかない。また、無理に頭数を増やせば、牛のストレスがたまって乳の出が悪くなる。そこで、頭数を増やしても牧場では飼わず、付近の農家に数頭ずつ預け、分散飼育させる方式が確立していたようだ。周辺農家にしてみれば効率のいい副業となり、牧場側にしてみれば無理なく事業の拡大につながる。“東京牧場”と近郊農家とのアライアンスは、牧場がさらに郊外へと移転を迫られる、昭和初期までつづいたようだ。
 
 旧・長崎町には、3つの“東京牧場”があった。そのひとつ、「安達牧場」(長崎町字大和田2109番地)は、武蔵野鉄道線(現・西武池袋線)の椎名町駅直近の牧場だった。いまでも、「安達牧場」のネーム入り看板を、同所の古い牛乳店で見ることができる。跡地はとうに住宅地と駐車場になり、ここが牧場だった風情はまったく見られない。牛の鳴き声とともに目ざめる、文字通り牧歌的な朝が、東京から消えて久しい。

■写真上:旧・長崎町2109番地(現・南長崎2丁目19~20番地界隈)にあった、“東京牧場”のひとつ「安達牧場」のネーム入り看板。古い牛乳店のようだが、営業しているのだろうか?
■写真中は、内ヶ崎光枝『牧場の一隅』(1935年・昭和10)。住宅街にある、“東京牧場”の典型的な姿。は、「長崎町事情明細図」(1926年・大正15)に見る、武蔵野鉄道沿いの「安達牧場」。
■写真下は、現在の「安達牧場」跡。は、お屋敷街への牛乳配達。大八車に牛乳箱を積んで、配達員が牛乳を各家庭に配っている。門口の牛乳箱には、「東京保証牛乳」と書かれている。(豊島区教育委員会刊『ミルク色の残像』より)

この記事へのコメント

  • ものたがひ

    タイムスリップしてしまいそうな「安達牧場』の看板です。
    画家の林武は、明治時代の末頃、余丁町(今の新宿区若松町)あたりに牛乳店「勤勉舍」を経営する国学者の息子として、牛乳の車を曵いて育ったことが知られていますが、その頃は山手線(まだ、無かった?!)の内側の、そこここに牛が啼いていたのでしょうね!
    そして、その後は、ドーナツ状に“東京牧場”が拡散していく、という現象、とても面白いです。しかし、私がもっと注目するのは、「付近の農家に数頭ずつ預け、分散飼育させる方式が確立していたようだ」との、ご記述です。
    先日、『寒いけど無理して遠出した佐伯祐三。』(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-06-09 )の中で、C.P.さまは、「大正期の下落合に牧場があった・・・という記録を見ない。(上落合には存在していた) 」と、書かれていますが、大正末の下落合に、この牧場名は知られることのない「分散飼育」牧場があったとしても、おかしくないのですね。
    「分散飼育」は、ほんの数頭でも良いのでしょうが、適当な条件(氾濫しやすい妙正寺川に接し、いつまでも野原になっていた広い土地のような!)があれば、結構大きな「分散飼育」牧場が出来ても、不思議ではありません。
    上記の記事中でC.P.さまが取り上げた佐伯祐三の雪景色の風景画の、画面の左手にある細長い変わった形の家(まるでサイロのようなトンガリ屋根の建物があることも忘れないで下さい)について、「絵の中の平たい建物は、ふつうに解釈すると鶏舎か牛舎ですね。」というコメントを頂いております。これ、改めて検討しますと、どういう事になるのでしょう?
    私は、ここに、一時期ある程度の規模の牧場があった、と推定することが可能だ思うのですが(^^)。
    2006年06月27日 07:24
  • ChinchikoPapa

    ものたがひさん、やっぱりそう来ましたか。
    「安達牧場」で、墓穴を掘ってしまったかな?(汗)
    林武が生まれたころ(1896年)は、すでに品川赤羽鉄道(日本鉄道品川線)のちの山手線は、1985年から営業していましたね。物心つくころは、まだ蒸気機関車だったでしょうが、林武が13歳になったときから電車が走りはじめた(1909年)ようです。
    電車になってから、スピードが格段に増したせいでしょうか、西大久保の戸山ヶ原(歌舞伎町~高田馬場界隈)あたりが陸軍用地だったせいもあってか人家が少なく、鉄道自殺の名所になったとかで、戸山ヶ原散策を愛した夏目漱石や戸川秋骨、国木田独歩など作家たちの文章にも、そこかしこに出てきます。人が少なかった戸山ヶ原界隈ですが、中村彝も佐伯祐三も写生に通ってますね。もっとも、戸山ヶ原界隈は、近衛騎兵連隊があったせいか、牛よりも馬のほうが多かったのではないかと・・・。
    そういえば、佐伯作品にも「戸山ヶ原風景」(1920年・大正9)というのがあって・・・と、これ以上文脈をスライドさせて、「牛」問題をうしろへ引っぱれないか。(爆!)
    さっそく、冬の作品の拡大画像を、記事末に掲載してみました。もうひとつの作品は、ちょっと手元に大きな画像がないので、明日、くだんの「洗濯物」の部分を拡大スキャニングして、記事末に掲載してみます。
    「洗濯物」か「牛」かのテーマ以前に、2つの作品がいつ描かれたのか・・・という課題があると思います。1926年の冬も1928年の冬も佐伯は下落合にいないので、必然的に記事末に掲載した風景は1926~27年(大正15~昭和2)の冬ということになりますが、ではもうひとつの「洗濯物」はいつ描かれたのか? 「洗濯物」と平たい建物が同一の画面に描かれていれば、「牛」の可能性は高まりましょうが、そうではないということ。
    ●一方の作品に建物が描かれ、もう一方の作品に建物がないのはなぜか?
    ●「洗濯物」には「1926年(大正15)ごろ」という記載がみられ、その後に迎えた冬が上掲の作品だとすると、建物が見えなかったのはどうしてか?
    ●手前に生えていた樹木が繁り、建物を隠していたのか? それとも画角の問題でサイロ状の塔までが隠れてしまっているのか?
    ●時系列に齟齬がないか? 「洗濯物」は1927年(昭和2)春に描かれたものか?
    ●たとえ「牛舎」だったにしても、乳牛ホルスタインではなく農耕用や運搬用の牛や馬は、当時ふつうに飼育されていたと思われ、それとの明確な差別化は可能か?
    ●下落合に多かった鶏舎の可能性は?
    つまり、「“洗濯物のある風景”とした作品に描かれているのは洗濯物ではなく牛のホルスタインである」→「だから冬の風景作品の建物は牛舎である」→「よって両作品に描かれた農家は付近の牧場から委託された搾乳農家だ」・・・という三段論法をとりますと、前提となる「牛のホルスタインである」が間違っていた場合、二段目は適合していたとしても、三段目の「搾乳農家」も間違ってしまう可能性があるからです。
    このあたり、ちょっと悩ましいですが、とりあえず拡大画像を明日載せてみましょう。
    2006年06月27日 12:49
  • ChinchikoPapa

    さっそく、「洗濯物」または「牛」の部分拡大画像を、記事末にアップしてみました。ご参照ください。
    2006年06月28日 10:27
  • toyoda

    初めて書き込みをいたします.生まれて40数年ずーっと西池袋に住んでいるので,この辺りのことは結構知ってるつもりだったのに,貴兄のHPでいろいろこと(写真展・花想容・野鳥の森公園などなど)を教えていただき,とても勉強になってます.落合周辺は通勤経路なのでこれからも時々覗かせていただきます.
    さて本題ですが我が家は昭和20年代後半から40年代前半まで牧場でした.牛ではなく山羊を飼っていました.戦後食料事情が極端に悪い時期に山羊の乳は貴重で需要は多かったようです.100坪ちょっとの広さですが私の祖父・祖母が20-30匹ほど買って経営?しておりました.へんな話ですが私は子供の頃,犬や猫はみな顔が同じだけれど,人間と山羊だけは一人一人?顔が違うと想っていました.他所の人は山羊の顔が区別がつかないということを後で知りました.
    「chinchikopapa」というお名前はどういう意味なのですか?充てようと想うと変な字も当たるし,かといって意味が取りにくいですし....
    2006年07月04日 08:07
  • ChinchikoPapa

    toyodaさん、はじめまして。コメントをありがとうございます。
    わーーっ、ぜひ「東京牧場」のヤギミルク、飲んでみたかったです! ヤギの乳で作るチーズなどの加工品も、かなり美味しいと聞きますね。わたしが、目白・下落合界隈を歩き始めましたのが、1970年代半ばですので、あと5~10年ほど早ければ、「東京牧場」のホンモノが間違いなく見られたわけですね。でも、わたしは小学生で、「散策」など思いもしなかったころですが・・・。
    ヤギの顔は判別できません。付近に住んでいる、タヌキの顔もなかなか・・・。(笑) ネコは身近にいますので、ニャン相は見分けがつきそうです。やっぱり、動物は見慣れたり、深く付き合ったりしますと、それぞれの個性がはっきり見えて、表情や動作ですぐに区別がつくのかもしれません。
    「ChinchikoPapa」は、いつも笑われてしまうのですが、いまは高校生になり175cmぐらいある下のオスガキが、10歳ぐらいのまだ小さなとき、近くの喫茶店「カフェ杏奴」に設置されたノートに、「チンチコリン」というペンネームでいろいろと書き込みをしたのに起因します。ある日、わたしもつられて書きこんでしまい、署名に困って「チンチコリンのパパ」、つまり「ChinchikoPapa」と書き始めたのが最初です。(笑)
    なんとなく気に入って、そのまま使っているのですが、先日の写真展のマップなどでも、カタカナで表記すると「誤入力や誤植があったらタイヘンよ!」とみなさんおっしゃるものですから、ローマ字のままにしています。(^^;
    2006年07月04日 11:35
  • いっせ

    初めまして。書き込み失礼致します。
    僕は都内の大学に通う学生ですが、
    確か、僕の曽曽祖父が戸山ヶ原で牧場を営んでたと聞きました。
    明治の初期か中期だったと思います。
    当時は牛乳を飲む習慣があまり浸透してなかったらしいのですが
    インテリ層にうけ、繁盛したと聞きました。
    この話は何となくは聞いていたのですが
    「東京牧場」と呼ばれていたことや、何故そうなったのかは知りませんでした。
    とても勉強になります。興味深かったです。
    是非、今度そのあたりに行ってみたいと思ってます!!
    2007年05月03日 17:56
  • ChinchikoPapa

    いっせさん、貴重な情報をありがとうございます。
    戸山ヶ原は明治以降、陸軍に収容されたエリア以外にも、たくさんの土地があったのでしょうから、牧場にも活用されていたんでしょうね。明治の初めのころからということは、まだ鉄道が敷かれる前ですから、輸送に便利な街道近くに牧場は拓かれたものでしょうか。
    明治初期~中期の地図を見ますと、「草地」が随所に見えてますので、きっと牧場はいくつか存在していたのかもしれませんね。残念ながら、この時期の地図に「牧場」の記号は設定されていません。
    2007年05月03日 19:28
  • 江戸っ仔猫

    二年前の記事に突然コメントをさせて戴きます。「安達牧場」で検索、いの一番で現われたサイトでした。
    「安達牧場」は父の実家で、隣町で牛乳店を営む私どもにとっては「本家」ということになります。長男である父の兄が亡くなり、牛乳店としての営業はしておりません。
    祖父は雪印牛乳を取り扱う前は、「東京保証牛乳」の社長でした。父が幼い頃(戦前)は牛がいて、牧場として機能していた様です。私も小さい頃、この大八車(すでに実用ではなかった)で遊んだことがあります。
    甚だ簡単ではありますが、それだけ記させて戴きます。
    2008年03月08日 12:43
  • ChinchikoPapa

    江戸っ仔猫さん、コメントをありがとうございました。
    また、当事者でいらっしゃいますご子孫からの、たいへん貴重な情報をほんとうにありがとうございます。すごい偶然なのですが、実はきょうも下落合界隈をちょっと取材して歩いていたのですけれど、安達牧場さんで搾られた原乳が、ちょうど目白学園や中井御霊神社のある丘の下あたり、上落合か上高田にあった牛乳加工工場へと運ばれていたとの情報を、先ほど仕入れてきたばかりだったりします。
    上の記事に掲載しました、佐伯祐三が描く「下落合風景」の右手一帯のどこかに、牛乳の加工工場が建っていたようですね。安達牧場から下落合(現・中落合/中井2丁目)を抜けて、ある時期にわたり搾りたての牛乳が出荷されていたようなのです。
    そうなりますと、わたしが「洗濯物のある風景」だと規定しました佐伯の「下落合風景」に描かれたものは、「洗濯物」ではなくて安達牧場から分散飼育をまかされた農家のホルスタインです・・・という、ものたがひさんのかなり説得力が高まった声が聞こえてきそうなのですが。(^^;
    2008年03月08日 17:16
  • うつぎれい

    東京長崎村物語のうつぎれいです。
    上の江戸っ仔猫さんのコメントを見て、余りの偶然?ぶりに久しぶりにカキコします。

    このページが二年も前からあったことには全然気づいてなかったのですが、その旧安達牧場の敷地内かその直ぐ裏手にある南長崎2-20-2の建物に去年の春頃まで住んでました。
    安達牧場と表記のある牛乳店 ( つまり江戸っ仔猫さんのお爺さんの居た ) さんについては私のサイトでも紹介してますけど、江戸っ仔猫さんのますけど、お爺さんにあたる方が東京保証牛乳の社長さんだったというのには一寸ビックラこきました。というのは私の亡くなった叔父は東京港区で牛乳店をやっていて、戦後から20数年間は「保証牛乳」の販売店だったのです。もしかすると東京保証牛乳と保証牛乳は別の会社なのかもしれませんが、ちょっと気になったので、思わずカキコしてしまいました。
    江戸っ仔猫さん、もしご存知でしたら教えて下さい。
    長崎村には少なくとも大きな牧場が3つあって、籾山牧場、安達牧場、足立牧場と言われているのですが、最後の足立牧場というのが何処にあったのかが分からないのです。

    ところで隣町ということは東長崎でしょうか?
    もしそうならドンピシャリですから、今度は私のサイトにも来てみてくださいね。

    ChinchikoPAPAさんへ

    そのそろ一度お会いしませんか?
    確かケータイの番号は教えてあったと思いますので連絡を下さいな。

    その後「長崎村物語」のサイトのURLは変わりました。今はこちらにあります。

    http://www.geocities.jp/netreal_bookbox/Nagasakimura/

    最近YouTubeをそのまま自分のサイトのBGMにする方法を開発しまして、山口百恵特集とか、Wink特集とか、せっせと作ってます。ハハ・・・ ( ^ ^ )
    2008年03月10日 07:53
  • ChinchikoPapa

    うつぎれいさん、コメントをありがとうございます。
    昨年の5月7日に、一度yahoo.co.jpドメインのアドレスへメールを差し上げたのですが、お手元にとどいてませんでしたでしょうか? のちほど、もう一度メールを差し上げますね。
    もうひとつ、安達牧場を含む東京牧場について書いた記事があります。
    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-12-05
    この中で、「残念ながら、下落合には牧場はなかった」と書いていますが、旧下落合5丁目の南、上落合に加工工場を備えた牧場がひとつあったことを、ご教示いただいています。その近くには、安達牧場のブランドである「キング牛乳」の販売店もあったようですね。
    「東京保証牛乳」と「保証牛乳」とは、おそらく同じブランドではないかと思います。1927年(昭和2)に結核に罹患した乳牛が問題となり、警視庁の「牛乳営業取締規則」で中小牛乳業界が再編されて「東京保証牛乳」(のちに雪印乳業へ統合)が誕生しているようですが、長崎町の旧家だった安達牧場の足立慶蔵氏が「キングミルク(牛乳)」ブランドを起ち上げてしばらくしてから、低音殺菌を徹底した「東京保証牛乳」ブランドへと変更していったのではないかと思います。江戸っ仔猫さんによれば、社長も勤められたようですね。
    長崎の安達牧場から、わざわざ下落合を通って上落合の牧成社牧場界隈にまで原乳を運んでいたのは、低音殺菌設備を備えた加工工場があったからではないかと想像しています。
    今度、安達牧場と落合界隈の牛乳(牧場)について、改めて書いてみたいと思っています。
    2008年03月10日 11:41
  • うつぎれい

    昨年の五月に?

    はて、yahoo.co.jp は実は20個ほどメアドがありますけど、何処にでしょう?

    minerva_plans@yahoo.co.jp

    がいちばんよく見てますから、できればそちらに

    でもホントに前のは何処宛に出しました?
    2008年03月11日 01:56
  • ChinchikoPapa

    minerva_plans@yahoo.co.jp宛てにお送りしました。
    昨日も、同上のメールアドレスにお出ししています。
    ご確認ください。
    2008年03月11日 11:34
  • うつぎれい

    すみません
    今も確認しましたが
    昨日から何も着信してません。
    もしかして迷惑メールに誤って分類されたのかとも思い、全部確認してみましたが届いていません。
    多分メール事故だと思いますが、メール事故の数は実は相当に多いので、そのためにトラブルが生じることが相当あります。

    同じ送信元と送信先では同じことがおきそうですので、別のメアドを記しておきます。

    utzsugi_rei@yahoo.co.jp

    以上
    2008年03月11日 12:45
  • ChinchikoPapa

    いま、上記のメルアドへメールをお送りしてみました。
    最近、メールサーバのフィルタリングがシビアになり、無料メール系(yahooドメインやhotmailドメイン)のメールが通りにくくなっているようですね。経路上のどこかのサーバにひっかかると、リターンメールなしに消去されるようです。
    今度はとどくといいのですが・・・。
    2008年03月11日 14:57
  • 江戸っ仔猫

    3月12日付の記事の一部を拝見致しました。(ブラウザが古いせいか、私の端末は二つ共、chinchiko.blog.を表示しきれません。残念です。)丹念に調べられて記されたサイトの内容が盛り沢山なので、今は読者に徹しています。とても興味深いところがあり、差し支えなければ、父に少し話を聞き出して、後日改めて書き込ませて戴きたいと思っています。(実は今、価格改定や新商品のキャンペーンで時間がとれません。)一つだけお伝え致しますが、祖父は足立慶「造」です。(正しくは、慶応義塾の慶の八画目のカギがないそうです。字画の問題とか。)少々お時間を戴きます。
    うつぎれいさん、「東京長崎村物語」は、やはり安達牧場を検索した日(3/8)に拝見致しました。こちらも内容に圧倒されて、ゆっくり読み込ませて戴くことにしました。うつぎさんというのは、私の周囲では多くないお名前ですが、私の小学校の上級生・下級生のご兄弟が駅前の二階で焼肉店を営んでいらっしゃいました。お知り合いでしょうか。
    後日、例えば下落合周辺のことなどコメントをしたい場合、個人の情報に関する物は、やはりコメント欄ではなくemailでお伝えすべきでしょうね。
    2008年03月14日 18:07
  • ChinchikoPapa

    江戸っ仔猫さん、コメントをありがとうございます。
    お祖父様のお名前、たいへん失礼いたしました。引用しました『長崎町誌』の誤植ではなく、わたしの入力時の変換ミスでした。<(_ _)> さっそく修正しましたので、ご参照ください。
    また、ぜひこの界隈のお話をうかがえたらと思います。なにかお気づきの点や、エピソードなどがありましたらお聞かせください。お待ちしております。(^^

    > 後日、例えば下落合周辺のことなどコメントをしたい場合、個人の情報
    > に関する物は、やはりコメント欄ではなくemailでお伝えすべきでしょうね。
    個人情報でなければ、コメント欄でぜひご紹介ください。当サイトを読まれている方は、この界隈にお住まいの方々も大勢いらっしゃいますので、情報の共有ができます。また、どうしてもプライバシーに関わってしまうテーマの情報でしたら、コメント欄へその旨お知らせいただければ、臨時メルアドをコメント欄へ掲載いたします。そちらへ情報をお寄せいただければと思います。
    よろしくお願いいたします。
    2008年03月14日 19:52
  • うつぎれい

    江戸っ仔猫さんコメントをありがとうございます。
    元々は豊島区の生まれではありませんので焼肉店のお二人は知り合いではありません。東長崎に住むようになったのは34年前からです。

    当時は漫画家志望で、トキワ荘が在った場所ということで住み始めたのですが、それからずっと後になるまでその頃まだ件のトキワ荘が残っていることにも気づかず、椎名町辺りにに在ったらしい・・・なんて思っていました。
    旧いトキワ荘が取り壊されたのは1982年11月29日ですから、8年間も実物を見るチャンスがありながら、見逃してしまいました。残念 !
    2008年03月19日 00:47
  • ChinchikoPapa

    うつぎさん、コメントをありがとうございます。
    豊島区によるトキワ荘記念碑は、いつごろ建立されそうなのでしょう? 建ったらぜひ、見にいきたいと思っています。わたしも、1970年代後半から近くを何度も歩きながら、現存していることにまったく気づかずにいました。
    「清戸道」をはさんで、トキワ荘の向かいにあたる金魚屋さんは、ときどき覗いてはひやかしてましたのに・・・。(超残念)
    2008年03月19日 13:37
  • 江戸っ仔猫

    そうですか、うつぎれいさんは漫画家志望でいらっしゃったのですね。
    赤塚不二夫さんやジョージ秋山さんのお話、そこからエデンや目白堂のお話、私が生まれた聖母病院のお話、目白周辺では先代小さん師匠のお話や金井美恵子さんの猫のお話、等々、脈絡のないぶつ切りですが、断片エピソードは数々あります。
    2008年03月21日 23:47
  • 江戸っ仔猫

    先にお話したように、Chinchiko Papalogをきちんと表示できないのでタイトルしか見ていないのですが、「米軍は聖母病院を知らなかった。」は如何なる内容なのでしょうか。終戦直後、聖母病院目標に食糧等の物資を詰めたドラム缶をB29が投下した話を父から聞いたことがあります。
    2008年03月21日 23:57
  • ChinchikoPapa

    江戸っ仔猫さん、コメントをありがとうございます。
    ぜひ、記事を表示できるブラウジング環境でご覧になってください。そのドラム缶が投下された地点が、聖母病院へピンポイントで落とされているわけではなく、下落合では3箇所のエリアに分かれていています。
    1つめは、ドラム缶のパラシュートで山手線を止めてしまった学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)の近衛町、2つめが本来の聖母病院と諏訪谷周辺、3つめのエリアが焼け残った落合尋常小学校(現・落合第一小学校)と第一文化村です。しかも、2つめの聖母病院エリアではドラム缶に当たって児童が死亡しており、聖母病院が「病院」だから救援物資を投下したのではなく、開戦とともに憲兵隊によって東京在住の欧米人がここに集められ、収容・監禁されていたからだ・・・という内容です。
    当サイトが表示できないというのは、初めてうかがうケースなのですが、どのような表示環境でご覧なのでしょう? 以下のURLからの直接アクセスでも、うまくご覧になれないのでしょうか?
    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-10
    2008年03月22日 00:48
  • ChinchikoPapa

    そうそう、先日ある方からうかがったのですが、漫画家のジョージ秋山はピーコックストアの隣りマンションに住んでらしたそうですね。金井美恵子の『目白雑録』は、ときどきニヤニヤしながら読んでいます。そういえば、彼女もピーコックでときどき買い物をしていますね。
    2008年03月22日 00:59
  • 江戸っ仔猫

    ブラウザはMacintoshでNetscape 7.0.2とNetscape 4.7ですが、表示し切れません。試しにOSと一緒にインストールしてあったInternet Explorer 4.5でアクセスしたところ、コラムがばらけてしまいますが、読む事はできました。
    緻密な取材による、淡々と書かれている中にも引き込まれる記事に、身近な事柄ながら「知らなんだ。そうだったのか。」と目を開かれた思いです。他の膨大な(?)記事群も、ひとつひとつ読ませて戴きます。
    (一寸目にしたのですが、目白の建築群についての記事にある遠藤 新氏ですが、間もなく南側棟改築が竣工しそうな、アガリヤシキの自由学園明日館向いの婦人之友社屋は元々氏の設計ではありませんか?金井美恵子さんの「迷い猫あずかってます」に出てくる永坂ハウスは現在、日立会館の隣(坂側)の(改装された)マンションですね。金井美恵子さんの作品に美少年として登場する楳図かずおさんは、高田馬場の**1ビルにお仕事場があるようで、***教会辺りでお見かけしたことが数度あります。思索しながらのお散歩中の様でしたが、やはりあの赤白ボーダー柄の長袖シャツで飄々とした感じ。でも、いつも広い道の端っこを歩いていて、一寸いい感じでした。)
    投下されたドラム缶に当たり児童が亡くなったお話を父は知りませんでしたが、危ないから投下するなと大人達が紅いお腰(腰巻)を振っていたのを鮮明に憶えているそうです。投下された物を分けてもらって帰ったそうですが、内訳はキャメルが1カートンと怪しい缶詰で、何か美味しい物でも入っているかと辞書で調べた缶の表記は「D.D.T.」!

    ジョージ秋山さんはかつて家の数軒先に奥様と部屋を借りていらして、牛乳をお届けしていたはずです。

    今は昔のお話は断片的に書けますが、有名な方々だからといって、現在進行形のお話は、やはり書くことは憚られますね。
    2008年03月28日 20:08
  • ChinchikoPapa

    江戸っ仔猫さん、コメントをありがとうございます。
    いまのサイトのコーディングですと、So-netはMacintosh+Netscapeの表示検証をしていないんじゃないかと思います。Macのことはあまり詳しくないのですが、Internet Explorerを4.5から6.0へバージョンアップをされますと、おそらく正常に表示できるのではないかと想像します。ただ、MAC-OSとIEバージョンとの相性もあるでしょうから、詳細はMacに詳しい方にお訊きになってみてください。フリーブラウザで流行っていますFireFoxは、おそらくMac-OS10じゃないと対応していなかったでしょうか・・・?
    婦人之友社の建築は、確か息子さんの遠藤楽氏ではなかったでしょうか。わたしも、楳図かずお氏には高田馬場で何度か見かけてまして、たいてい自転車に乗ってやはりストライプのシャツを着てました。(^^;
    ドラム缶の中の「DDT」、食べ物と一緒に入ってるのは危ないですね。落下の衝撃で、缶が破れなかったでしょうか。あと、紅いお腰を振ってドラム缶の投下をやめるように合図していた・・・というのは、初めてうかがうお話です。貴重な情報をありがとうございました。<(_ _)>
    2008年03月28日 23:01
  • sig

    こんばんは。
    記事や書かれた場所には何のゆかりも無い者ですが、上記の皆さんのコメントを読ませて頂きました。
    話題が話題を呼んで、いろいろな方々が同じテーマでつながる。不明なところが明瞭になり、欠落していたところが充足される。そして、そこからまた、話題が芽生えていく・・・。とても理想的なブログの形を見せて頂き、感動しました。本当に素晴らしいことだと思います。
    2008年09月15日 20:52
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    お寄せいただくコメントによって、それまでわからなかった点が判明したり、思わぬ新発見があったりと、そこがリアルタイムでフィードバックがいただけるブログ形式のサイトの醍醐味じゃないかなと思います。
    また、わたしの一面的な見方だけでなく、いろいろな方々の多角的な視点から、地域のテーマや記憶が多面的に検証できるのも、このメディアが持つダイナミズムですね。とても楽しいです。^^
    2008年09月15日 21:50

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下落合に水道が引かれた日。
Excerpt:  いまでも、下落合のあちこちには古井戸が残っている。さすがに飲料水として使われているのはないだろうが、生活水としては用いられているようだ。もともと、目白崖線の随所には湧水源があり、地中にはゆたかな地..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2006-12-09 18:40

キングミルクが人気の安達牧場。
Excerpt: ご子孫の方がおみえなので、長崎の「安達牧場」についての記事を大急ぎでアップします。2月末からスタートしている目白文化村の連続記事は、ほんの少しお待ちください。  ★ 1920年(大正9)に、長崎村の旧..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2008-03-12 00:00

牧歌的な「牧場分譲地」。
Excerpt: 大正末から昭和初期にかけ、東京近郊に展開していた“東京牧場”Click!は、東京市内から住宅地化の波が押し寄せるにつれて、より郊外へと移転するか廃業へ追いこまれるケースが増えてくる。また、面積が広い牧..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2008-09-15 12:24

動物ビジネスが盛んな目白界隈。
Excerpt: 大正期から昭和初期にかけて、さまざまな動物飼育をビジネスとする事業が、東京郊外のあちこちで起業されている。その中で、もっとも多かったのが乳牛を飼育して東京市内へミルクを供給する「東京牧場」Click!..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-12-22 00:00