佐伯「制作メモ」を画像処理すると・・・。

 ようやく、システムの不安定と不可解なふるまいは、落ち着いてきたのだろうか? この記事は、先おととい書いてどこかへ行方不明になってしまったものだ。もう一度チャレンジ!・・・って、ブログはギャンブルだろうか。
 ものたがひさんからいただいた、佐伯祐三が1926年(大正15)の秋に残した、直筆の「制作メモ」Click!のコピーを調べてみると、いろいろ面白いことがわかる。従来は、「森尾さんのトナリ」と解釈されていたものが、ものたがひさんのご指摘どおり「森たさんのトナリ」Click!だったり、「フビラ村の道」とされていたものが、実際は「フビラ村の首」だったりと、メモを忠実に再現・記録するのではなく、かなり恣意的に“意訳”されて世間に流布されていたフシが見られる。
 いままで「森尾さん」の幻影を求めて、下落合じゅうを取材された方がいたとしたら罪な話だ。「フビラ村の首」にしても、フヴィラ(北欧の別荘建築)様式の建物があった「道」ばかりを探されていた方がもしいたとすれば、別の視点からの可能性をあらかじめ完全に封じられていたことになる。“原作”の文字を勝手に解釈していじるのは、文献史学では絶対にやってはならない最大のタブーだ。別に佐伯メモが、大げさな文献史学の対象とまでは思わないけれど、貴重な直筆の記録であることは間違いない。なぜ、メモの表現をそのまま忠実に再現せず、勝手に変造してしまったのだろうか?
 この「制作メモ」を、高精細スキャニングして画像処理しコンピュータで拡大表示すると、はたしてなにが見えてくるのか?・・・というのが今回のテーマ。もちろん、めざすのは従来「???の前」(20号)とされていた、1926年(大正15)9月20日のメモだ。佐伯は、同日に「散歩道」という15号の『下落合風景』を描いている。
 人の曖昧な筆跡を高精細スキャニングすると、文字のかたちそのものばかりでなく、経年で薄れてしまった線や、筆圧の強弱で消えかかった線の影までが捉えられることがある。これは手描き原稿を、OCRソフトを使い高精細でスキャニングした際、かすれて見えないような文字でも、できるだけ元の線のようにちゃんと補って認識してくれるという経験からもいえる。この技術を応用して、佐伯の「制作メモ」に残された読みにくく半分かすれた文字でも、イメージスキャナとソフトを通すことによって肉眼では見えにくい微妙な影や、線の連続性を探れないだろうか・・・と考えた。1200dpiの高解像度で読み取った結果、以下のようなかたちが浮かび上がった。
  
 まず1文字めは、「ハ」のような形状から始まっている。そのすぐ下につづいて、横方向に伸びた平たい長方形。中央に黒い点が見え、左右に「\」と「/」のような線が見える。その下は「ク」のようなかたちをしている。2文字めは、「ウ」かんむりで始まっているのがわかる。その下には「ロ」のようなかたちが書かれているようだが、連続した下段がはっきりしない。さらに「の」の字にいたるまでの、ゴチャゴチャした筆記は、ここで筆圧を上げすぎて鉛筆が折れたものだろうか。かろうじて、上の文字が「ち」のように見える。別の鉛筆に持ちかえたのか、「の」で再び筆圧が高まり、最後の「前」という字につづいている。
 この筆跡から素直に判断すると、1文字めはどうしても旧字の「曾」になる。次は、ウかんむりにロときて下につながれば、「宮」と考えるのが自然だろう。次は、何度見ても「ち」で、その下の「/」の線は「ん」の書きかけだろうか。「/」の右側に、影ができているのがわかる。すなわち、「曾宮ちんの前」と読めないだろうか。佐伯祐三が、子供のころから逆さ文字を書いたかどうかは知らないけれど、「ち」を「さ」と直せば、「曾宮さんの前」と解釈できそうだ。しかも、佐伯は「さ」を「ち」に似せて書いている、もうひとつのメモがすぐ左隣りにある。9月28日に記入された、「八島ち(さ)んの前通り」だ。
  
 すると、同日に描いた「散歩道」とは、佐伯がいつも頻繁に足を運んで散歩していた、諏訪谷あたりの道筋。すなわち、曾宮一念邸の周辺ではなかったか? 『下落合風景』をめぐる佐伯のさまざまな想いが、この「制作メモ」から直接伝わってくるようで、いつまでも見飽きない。

■写真上:1926年(大正15)の秋に作成された、佐伯祐三の「制作メモ」(全)。
■写真中:高精細スキャニングを試みた、左から「曾」「宮」「さんの」とみられる文字。
■写真下が問題の記載。が「八島さんの前通り」で、「八島さん」が「八島ちん」に見える。
  

この記事へのコメント

  • ものたがひ

    おはようございます。『散歩道』展、とても見応えありました。マップも綺麗で、建物を見る前から楽しい気分になれますね!
    さて、この度はコンディションの悪いコピーだったのに、こんなに解読され、驚きです。資料冥利に尽きます。
    「曾宮さんの前」、御説明を読んで考えたら、私にはそう読めました(「曾宮ちんの前」ではなく…後出し有利です^^)。
    「曾」の最後の「日」や、「宮」の最後の「口」の書き方は、佐伯のかなり気ままな字の崩し方の用例からみて、ありえるように思えます。但し、「宮」の字は、ちょっと、ぐじゅっとした縦線までで(ここに「口」が含まれる)、横線から「さ」になると思います。
    ますます「ち」になった様にも、今の私達には感じられますが、佐伯は戦前の人です。ひらがなの「さ」は、もともと「左」という漢字であったことが自明な時代でした。「左」の字の崩し方には、私達に、「た」や「ち」に見える様なものもあるのです。佐伯の自筆資料に、今の所、これとよく似た「さ」は発見できないでいます。しかし、「左」は「佐」の字のツクリでもあり、佐伯の署名の中に興味深い事例がありました。別館の方で画像をupすることにします。

    これが「曾宮さんの前」であるとすると、『自筆メモ』に含まれるその他の情報にも、より深い仮説を立てる事が出来る様に思います。1日に2枚の絵を描いている日についての考察です。
    それは、
    9月18日 『原』  20号
         『黒い家』20号
    9月19日 『原』15号
         『道』15号
    9月20日 『曾宮さんの前』20号
         『散歩道』   15号
    9月22日 『墓のある風景』   20号?
         『レンガの間の?風景』15号(朝日氏の解読は『レンガの門のある風景』)
    9月27日 『夕方の通り』20号
         『遠望の岡』 20号
    9月28日 『八島さんの前通り』20号
         『門』       20号
    9月29日 『文化村前通り』20号
         『切割』    20号
    9月30日 『坂道』20号
         『玄関』15号(この日の天候は雨)
    10月2日 『晴天』20号
         『遠望』20号
    10月21日 『八島さんの前』 10号
          『タテの画』  20号
    10月23日 『浅川ヘイ』   15号
          『セメントの塀』15号
    となりますが、一見して、同じ日に描く絵は、同じサイズの場合が多い事に気づきます。それは、むしろ当たり前で、屋外に油絵を描きに行く時には、たとえ1枚しか描く気がなくても、同じサイズのキャンバスを、画面同士はくっ付かない様に金具などを用いて、中表にして運ぶものだからです。佐伯の時代に、どんな金具を使っていたのかまでは知りませんが、描き終えたキャンバスを持って帰るために、そうしたと見るべきでしょう。
    しかし、例外があります。9月20日、22日、30日、10月21日。
    それは、何故か。C.P.さまの描画ポイント特定の御考察により、9月20日の『曾宮さんの前』、10月21日の『八島さんの前』は、佐伯のアトリエから、極めて近い所にあることが、判明しました。1枚の絵をヒョイっと運んだって構わない距離です。午前に1枚、お昼ご飯は家で食べて、また何処かへ向っていたのかもしれません。
    20号のキャンバス2枚と15号のキャンバス2枚を同時に抱えて遠出するのは、やや不自然です。9月22日、30日の佐伯の足取りについて、少し限定された予想をすることも、あながち想像が過ぎるとは言えない状況になってきたと考えます。
    2006年06月18日 08:06
  • ChinchikoPapa

    ものたがひさん、わざわざ写真展においでくださり、ありがとうございました。
    また、「じゃり」をありがとうございます。(^^ 小道さんともども、たいへん美味しくいただきました。
    「さ」と「左」と「ち」に関する表現の関係、確かにおっしゃるとおりですね。「宮」の下にある横棒は、そういわれて見ますと実は「ち(さ)」の横棒のようにも見えてきます。
    それから、わたしがヲヲッ!と思ってしまったのが、同日2枚の作品に関するご考察。たとえば、同号サイズ2枚の日は、自宅からの距離に必ずしも関係なく、遠くまで出かけて(米子弁当を持つか昼メシ抜きかで)、とある近接ポイントを描いている可能性があり、同日でも違う号数の日は、早い時間の作品は自宅近くで描き、次の異なる号数の作品は、必ずしも早い時間に出かけた描画ポイントに近接している風景とは限らず、また自宅の近くとさえ限らない・・・ということになりますね。
    つまり、9月30日を仮に想像すると、午前~昼までは自宅近くのたとえば諏訪谷の坂道を描き、20号のキャンバスを中表にしてアトリエへ持ち帰り、昼食を食べたあと、午後は15号のキャンバスを持って傘をさしながら、まったく違う方角にある、たとえば瀟洒な洋館だった笠原邸の「玄関」を描いたのかもしれないし、あるいは雨が激しく降ってきたので、「酒井さんのトナリ」(笑)つまり自宅の「門」を描いているのかもしれません。
    このあたり、とっても面白いですね。同日同号は近接風景の可能性が高く、同日違号の日は、その発想で描画位置を考えると、見誤る可能性がある・・・ということになります。
    2006年06月18日 10:37
  • ChinchikoPapa

    「レンガの門のある風景」とされる、佐伯の直筆を記事末にアップしてみました。これは、どう読んでも「レンガの間の風景」ですね。「間の」が、どうして「門のある」なんてことになってしまうのでしょうか?
    2006年06月19日 10:56
  • ものたがひ

    「レンガの間の風景」の拡大画像、ありがとうございます。確かに「間の」であることが分かって、すっきりしますが(笑)、さあ、では「レンガの間」って、一体なんでしょ?という課題に直面しますね!
    2006年06月19日 17:28
  • ChinchikoPapa

    レンガ塀が崩れているところから眺められる風景・・・というようなシチュエーションが、当時の下落合のどこかにあったものでしょうか? それとも、レンガを使った邸宅か塀を建設予定の現場へ入りこみ、積み上げられたレンガの山の間から見た風景・・・なのでしょうか?
    さて、これはタイトルに相当する『下落合風景』を見つけないことには、ちょっと想像がつきませんね。
    2006年06月19日 18:54
  • ChinchikoPapa

    参考資料として、「曾宮ちん」と「里見ちん」をアップしてみました。
    どうやら佐伯祐三は、「さん」を「ちん」と表記するクセがあったようですね。
    もっともこの筆跡は、なにかと議論の多い「吉薗資料」からですが・・・。
    2006年07月05日 14:35

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