テーマは80年間変わっていない。

 先代の「中村彝会」会長だった、洋画家の鈴木良三が描いた、中村彝アトリエの間取り図版(1977年作図)を見つけた。1916年(大正5)にアトリエが竣工してしばらくしてからか、あるいは関東大震災で崩落した壁面を修繕するついで追加したものか、彝自身が増築した部分までが描きこまれている。また、画室の東側には、確かに外へ出るドアと鎧戸つきの窓があるので、以前にご紹介した写真の謎Click!も解けた。やはり、画室内を東に向けて撮影されたものだ。
 この図で重要なのは、中村彝が自身で、応接間(居間)の東側へ大幅な建て増しを行っていることだ。建て増しをした壁の東面と、画室の東面とが、彝の生存中から一致していた・・・ということになる。この建て増しは、林泉園側に設置された門から邸内へとつづく、小径の突き当たりに造られた玄関だった。そして、廊下から現在の居間へと入るガラスのあるドアも、この建て増しが行われたあとに、画室から玄関へと抜けるために設置されたものだろうか。いまは、そのさらに東側に、1929年(昭和4)に建て増しされた玄関と、もうひとつの部屋があることになる。
 また、廊下(こう呼んでいいのかどうかの問題もあるが)と画室とを明確に分ける壁も、当時は存在していなかったことがわかる。画室と居間は、じかに接していた空間だったのだ。中村彝は、大型のキャンバスを搬出するときのために用意した、画室と居間との間にある大きな引き戸を開閉して出入りしていたようだ。東側にあった外へと出るドアが、1929年(昭和4)に建て増しされた部屋のドアへと、改造されたのも納得がいく。いま、この東側の改造されたドアのある東南が、玄関のスペースとなっている。
 おそらく1916年(大正5)の竣工時に撮られた写真、あるいはその直後あたりに友人たちを集めた際のアトリエの写真を見て、「これがアトリエ本来の姿」と認識してしまいがちだけれど、彝が増築した玄関のスペースを想定すると、アトリエは彝の生存中から大きく姿を変えていたことになる。つまり、関東大震災などをはさんだ増改築で、いま下落合に現存するアトリエの姿に、より近しい姿になっていたのではないだろうか・・・という想像だ。

 このアトリエに集った人たちは、中村彝の死後、アトリエの保存を真っ先に考えた。当初は「中村画室クラブ」、つづいて「中村会」、いまは「中村彝会」となる画家たちの集まりだ。残念ながら、現在の「中村彝会」は会員の高齢化のために、活動を休止しているという。彝と同郷の水戸出身であり、先代会長である鈴木良三は、『中村彝の周辺』(中央公論美術出版)の中でこう書いている。
  
 彝さんは(略)、死んだ後のアトリエのこと迄は少しも考えていなかった、そこ迄は考え及ばなかったのであろう。しかし友人達にとってはこれが一番大きな遺産で、なんとしてでも後世に残して、欧州の芸術家の遺跡保存の例にならって、(略)出来るだけ永く保存して、目白の名所ぐらいにはしたいものと思った。それには在りし日の彝さんをしのぶ雰囲気が必要だし、保存するための資金も要る。
 赤瓦のトンガリ屋根、南京下見の平屋建て、総坪数十八坪ぐらい。アトリエは三間に三間半、北窓の大きいガラス戸、東側に鎧戸のついた窓一つと、門から入って来た時の出入口がついていて、玄関は初めは無かったが、後に玄関として三畳ぐらいの小部屋を建て増し、南側の六畳の板の間にはベッドが造りつけになっていて、ベッドの枕もとに小窓があり、彝さんはそこから青空と楡の木立を眺めていたのだった。
  
 
 実に、80年以上にわたって保存が願われつづけたアトリエだが、現在もテーマは変わらないのがもどかしい。だが、今回がおそらく保存できるか否かの、最後のチャンスClick!だろう。中村彝が、「内部も外部も非常に気持ちよく出来上がっているので、住宅としても殆ど申分がない。画室の光線はさすが永い工夫の結果だけに非常にいい」(『芸術の無限感』岩波書店)と愛した、「記録調査」の進むアトリエだが、新宿区の保存決定が少しでも早まることを願って。

■写真上:鈴木良三が描いた、中村彝存命中のアトリエ間取り図版。
■写真中:彝に兄事した洋画家・鈴木良三(1898~1996年)。長く「中村彝会」の会長をつとめた。
■写真下は、中村彝の死後出版された『芸術の無限感』(1926年・大正15)。は、中村彝が描いた『自画像』(制作年未詳)。風貌から、下落合へ引っ越した直後ぐらいか。

この記事へのコメント

  • kadoorie-ave

    私が描くのはただのイラストではありますが、今回の個展の準備で家中がアトリエだか倉庫だかわからない状態になってしまいました。
    ですから「内部も外部も非常に気持ちよく出来上がっているので、住宅としても殆ど申分がない。画室の光線はさすが永い工夫の結果だけに非常にいい」...だなんてうらやましくて大きなため息がいくつも出てしまいます。

    昨日は、折角ギャラリーに来ていただいたのに私が到着しておらず失礼いたしました。お会いできなくて、本当に残念です!
    見ていただけて嬉しいです!ありがとうございました。
    2006年05月27日 01:37
  • ChinchikoPapa

    いえ、わたしも短時間しかお邪魔できずにすみません。Tシャツを欲しかったのですが、誰もいらっしゃらなかったので、ノートを書きながら目の端に入る右手の棚を気にしつつ諦めて帰りました。杏奴のママさんが買われた人形も、チラッと横目で見つめつつ・・・。(笑) また、展覧会がありましたら、ぜひお知らせください。
    あっ、香港風景シリーズもすてきですが、ときに下落合風景シリーズもいかがでしょう?(^^;
    2006年05月27日 12:38

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