落合小学校アルバム。


 いま風にいえば、落合第一小学校アルバムとなる。下落合でもっとも早く設立(1892年・明治25)された小学校で、当初は落合尋常小学校Click!と呼ばれた。この写真には、目を見張る光景が写っている。いえ、手前の目かくし競争で「なにしてるのよ! もうジレッたいわねえ」と地団太を踏んでいるお母さんではなくて、その背景に写っている丘だ。
 ギル邸や津軽邸、そしてわたしの大好きなN邸Click!が建っている、旧・下落合3丁目の翠ヶ丘。目白文化村側から眺めた、六天坂と見晴坂が通う翠ヶ丘の全景だ。この丘の北斜面は、空襲をまぬがれた家々が何軒かあり、正面左手に見える昭和初期バンガロー風の洋館や、中央上に見えている和建築はどうやら戦前の住宅のようだ。1950年代(昭和25~35)ごろの撮影と思われる。
 十三間通り(新目白通り)は影もかたちもなく、第一文化村と第二文化村から下った坂道が、市郎兵衛坂を経由し谷間を縫うようにして、やがて下落合駅方面へと下っていった。この校庭の下(南側)は、急激に落ちこむ典型的なバッケ(崖線)地形をしていて、その右手(西側)には第一文化村の弁天池へと通じる谷戸状の谷間が口を開けている。写真の右端にチラリと見えているのは、落合小学校の古い講堂だが、そのさらに右手(西側)には第四文化村が展開していた。

 上のカラー写真は、校庭の同じポイントから翠ヶ丘方面を撮影したもの。十三間通り沿いにはマンションが建ち、翠ヶ丘の起伏さえ判然としなくなっている。また、緑が少なくなっているので、全体的にのっぺりとしたメリハリのない風景に見える。

 落合小学校は、焼夷弾をスレスレにまぬがれ空襲にも焼けていない。写真は、大正末から昭和初期にかけて建てられた校舎(1927年・昭和2竣工)で、佐伯祐三もきっと目にした光景だ。校長室には、佐伯家→青山家から寄贈された『下落合風景』の「テニス」Click!(1926年10月11日/第二文化村テニスコート)が架けられている。この小学校へ通った子供たちのうち、校長室へ呼ばれて叱られた、あるいは褒められた子はきっと目にしているに違いない。もっとも、現在架けられているのはレプリカで、子供たちが「この絵ヘタだから、直してあげましょ」と、上から絵の具を塗られて「テニスをするドラえもん」になってしまう心配はない。本モノは、新宿区の歴史博物館に収蔵されている。
 
 写真は、と同じ西側の校舎前での集合写真だが、校舎の左側がすでに解体されているようだ。この校舎の背後が第四文化村。左端に見えるのが講堂で、講堂の下(南側)には昭和初期に造られたプールがある。そのプールの西側一帯が、現在の山手通りから急激に落ちこんだ傾斜地で、雪が降ると文化村の大人も子供もスキーやソリ遊びに熱中した、戦後まで空地のままとなっていた“スキー場”Click!の斜面だ。右側の写真は、山手通りから見た現在の体育館。つまり、上記“スキー場”の上から見下ろしていることになる。体育館は、昔の講堂とは向きが90度異なるが、プールの位置は変わっていない。

 次の写真は、校庭から霞坂方向を写したものでめずらしい。校庭にあったサクラの老木が写り、右手のサクラの背後にチラリと民家の屋根が見える。この民家の屋根のすぐ裏に、会津八一Click!の秋艸堂がある。この写真が撮られた当時は、もちろんとうに住んではいなかったが、建物はそのまま焼けずに残っていた。昭和初期でも、校庭で遊ぶ子供たちの声や運動会の音が、秋艸堂にもよく響いていたに違いない。

 「うむっ、きょうは語彙が湧きいづるようだな。・・・まずは、まほろばの、いやたまには気分を変えて、武蔵野の・・・とくるな」
 「ヨ~イ、ドン! ♪♪♪~(オッヘンバッハ)」
 「武蔵野の、草にとばしる、・・・文明堂、いや、もとへ」
 「おれ、また1等賞、ウキャキャキャ。♪カステラ1番~電話は2番~」
 「武蔵野の、草にとばしる、・・・カステラの、いや、ちがう!」
 「ばーか、おたんこなす、おまえのかーちゃんで~べそ!」
 「・・・むむ、草にとばしる、村雨の、いやにしくしく・・・」
 「うるせー、便所ったまにおっこった~! エンガチョエンガチョ」
 「・・・いやにしくしく、エンガチョエンガチョ。・・・ちち、ちがう! 思いっきり間違っとる!」
 「イーーだ、ば~かめ~」
 「コ、コラッ! うるさいぞ、このワルガキどもが!」
 「・・・おい、またあの変なオヤジが怒ってるぜ」
 「変なオヤジとはなんだ! 先生と呼べ、先生と!」
 「へ~んくつオヤジの壷集め~、エンガチョ切~った!」
 「も、もう、いやだ、こんな生活。こんなとこへは一刻も住めん! わしも、静かな文化村に移るぞ!」
 ・・・というようなことがあったかどうかは定かでないが、会津八一は昭和初期に、霞坂の秋艸堂から第一文化村へと転居している。ちなみに、上記の会話は各時代が入り乱れてバラバラなので、あしからず。

この記事へのコメント

  • hydroponic

    またお邪魔しました。
    昭和初期の校舎には父が通っていました。最近、子供の運動会に行きますが、何回行っても校庭の舗装は好きになれません。芝生にしてほしいものです。
    そういえば、終戦時には聖母病院に負傷米兵が収容されており、占領軍が上陸してくる前、9月か10月までの間、飛行機から頻繁に食料などを投下していたそうです。
    缶詰や携行食糧、タバコ、チョコなどが一杯入ったドラム缶のような大型のもので、病院敷地内に投下して怪我人が出るといけない、ということで周りに投下したようです(失礼な話ですね)。せっかく焼け残った家の屋根に大穴を開けられた家庭もあったとのことです。
    しかしそのお陰で、投下食料は周辺住民への恵みにもなった様です。ドラム缶めがけて日本人が集まり、我先に食料品を漁って行ったとのこと。父もよく走り回って略奪に参加したそうで、食糧難の時代に祖父母も喜んでいたとか。
    2006年05月22日 14:19
  • ChinchikoPapa

    小さなパラシュートをつけた支援物資の降下、住民のみなさんにはとても印象的だったのか、そこここでお話をうかがいます。(^^
    当初、米軍機のパイロットは国際聖母病院の位置がよくわからなかったようで、病院と間違えて学習院昭和寮(日立目白クラブ)へ支援物資を盛んに投下したようですね。もう、周囲の方々は大喜びではなかったかと。実は、麻布(六本木)育ちの義父が戦時中、麻布1連隊から借り受けたトラックで、空襲による負傷者を下町方面から聖母病院まで輸送してまして、下落合とも馴染みが深くなりました。このあたりの記事、明日にでも書いてみます。
    「缶詰や携行食糧、タバコ、チョコなどが一杯入ったドラム缶」、これ今でも降ってこないでしょうか。(笑) でも、米国のチョコだの缶詰は、わたしの世代ではすでに不味くて食べられないかもしれません。でも、食糧事情を考えますと、当時は空から降ってくる光り輝く宝缶に見えたでしょうね。
    2006年05月22日 17:39
  • 翠ケ丘

    なつかしいですね。私が1960年に落一へ入学した時は写真2の一階の真ん中の教室で、島崎先生が担任でした。2年生の時は鉄筋の新校舎、3年、4年は写真4の木造校舎、5年6年は鉄筋の新校舎でした。写真1の講堂では雨の日の体育、学芸会、映画会などがありました。講堂の地下、といってもがけですから窓がありましたが、理科室、家庭科室などがあったような記憶が。写真4の体育館が建ったのは創立70周年、4年生の時だったか。プールは25メートルのもののほか小さなプールがあって低学年の時はひたすらそこで7メートルくらい泳いでいました。
    2006年11月28日 20:14
  • ChinchikoPapa

    屋上に飾り立て物の乗った大正末の校舎、わたしも一度は見てみたかったです。下町では、大震災のあとに建てられた復興小学校は、ほとんどが鉄筋3階建ての独特なアーチデザインなのですが、落合小学校の校舎は非常にめずらしい、それまでの学校建築の伝統工法を集大成したような趣きで造られていますね。新宿周辺では大正末、落合小と牛込小が昔ながらの建築で、残りの小学校はほとんどがコンクリートの「耐火復興建築」に変わっていますから、戦後までずっと使われつづけた落合小の校舎は、とても稀少だったのだと思います。
    佐伯祐三の『下落合風景』に、1926年(大正15)10月12日の「小学生」というサブタイトルのついた作品がありますが、ひょっとするとこの校舎も描かれているのかもしれません。でも、残念ながら現在残っている作品に、校舎あるいは小学生が登場するものは見当たらないですね。
    2006年11月28日 23:54
  • 一時帰国中の浪人

    1956年(昭和31年)の卒業生です。

    アルバムを引っ張り出してみたら西暦で年号が示されており、これは落2中学も同じでした。
    小学校の担任だった小川先生が申し訳なさそうにしながら日教組の集会に行かれた事を思い出しました。
    ご自分が留守の間にしておくことを黒板に書かれ、が、生徒、特に男子はしめたとばかりバカ騒ぎ、もうすでにして男子を精神的に追い越していた女子のリーダー格の一声に渋々従いましたが・・・

    校舎は木造、中学校との2部授業が一時行われておりました。
    卒業後木造校舎はコンクリート造りに変わり、次に進んだ落2中はモルタル造りと少し出世し、これも卒業後コンクリート造りになりました。

    (蛇足ながら高校の時も全く同じで在校中は木造平屋校舎、卒業後に寄宿舎付きのコンクリート造りに建て替えらえました)

    我々世代の宿命ですね。

    閑話休題・・・久し振りに帰国して散策を試みましたが、櫛の歯が抜けるように昔の建物、樹木が消滅、新しいが白々とした光景は下落合ではありませんね。(旧友連の家も消滅)
    残念至極ではありますが・・・

    LPUa6F
    2008年05月12日 17:53
  • ChinchikoPapa

    一時帰国中の浪人さん、コメントをありがとうございました。
    わたしは、残念ながら落合地区の小中学校へは通っていないのですが、小学校時代はちょうどコンクリート建築と木造建築の過渡期で、中学校はすべて鉄筋になっていました。高校時代には、ようやく一部校舎にクーラーが入りはじめた時期です。時代は少しあとですが、女子のほうが圧倒的に勉強ができて、やはり大人でしたね。少なくとも、わたしのクラスでは感覚的・感情的で気分屋な男子と、語彙獲得力が高く言語中枢が発達した思惟的・論理的な女子・・・という図式になってました。(笑)
    オスガキどもが通った近くの落合中学校などを見ますと、ほんとうにうらやましい教室のデザインや校内設備になってます。
    わたしの学生時代に比べても、かなり下落合っぽくなくなりつつある街並みですが、近々、「歴史的建物のある散歩道マップ」の最新アップデートの情報を、こちらで掲載してみたいと思っています。
    2008年05月12日 21:54
  • ChinchikoPapa

    数年前の記事にまで、nice!をありがとうございました。
    >kurakichiさん
    >アヨアン・イゴカーさん
    2010年07月27日 12:01
  • 清水 斉

    何時も何時も懐かしいお話を有難う御座居ます 本日落合第一小学校の
    項を読ませて頂き 懐かしい先生の名前や木造の校舎・講堂など見せて頂き感激致して居ります あの当時はプールに入る時も講堂で着替えて(当然男女の仕切りなど有りません)坂も裏側の便所(当時少女が便所で殺される事件が起き皆で怖がって通ったものです)の横を通り行ったものです
    昨日・今日とは違い水温が低いからと中止になったことも度々で・・お陰さまで懐かしい想いに浸ることができました・・・・・感謝!!
    2013年08月16日 22:07
  • ChinchikoPapa

    清水さん、コメントをありがとうございます。
    わたしは、残念ながら佐伯祐三も目にしていたであろう落一小の旧校舎は、写真でしか見たことがありません。あと、松下春雄が『下落合風景』の中で描いているのと、1928年(昭和3)に撮影した写真を見つけたぐらいでしょうか。行動からプールへは、ずいぶん高低差があったようですね。
    水温が日々異なるのは、湧水を使っていたせいでしょうか。聖母坂にあったプールも、洗い場からの湧水を用いていたため、日によっては相当に冷たかったというお話を聞いたことがあります。
    小学生ですと、自分たちと同年代の子が事件に巻き込まれたりすると、すぐに自身の身に引きよせて考えるでしょうから、かなり怖かったでしょうね。
    2013年08月17日 23:55

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