まぼろしの目白「戸田邸」を見つけた。

 新宿区の教育委員会による、中村彝アトリエの「記録調査」が本格的に始まりそうなので、少し気をとりなおして、また目白/下落合の物語をつづけていきたいと思う。
 現在は徳川黎明会となっている目白の徳川邸Click!は、1934年(昭和9)に建設された。それ以前は、紀州徳川家ともゆかりが深い、信州松本藩の旧・戸田子爵邸があったところだ。高田町の地図と記録を代々追ってみると、1902~3年(明治35~36)に戸田邸が建設されていることがわかる。そして1930年(昭和5)、東宮侍従で高田町教育会会長だった16代当主・戸田康保(やすもち)の時代に、雑司ヶ谷旭出(現・目白3丁目)から転居している。
 引っ越し先は、なんと隣接する落合町下落合だった。14代当主・戸田光則の時代、三女を相馬家29代・相馬誠胤(ともたね)へ嫁がせているので、下落合の御留山にあった相馬邸とも親しく行き来していたのかもしれない。相馬邸から、「近くにいい売り地が出たから、いっそ下落合へ引っ越してきませんか」と誘われたのだろうか?
 1891年(明治24)の地形図を見ると一面に畑地が拡がるだけで、まだ人家もまばらな様子がうかがえる。そんな環境に、ポツンと大きな戸田邸が建設されたわけだから、当時の近隣住民にはかなりのインパクトを与えたに違いない。でも、現在の目白では徳川侯爵邸の記憶のほうが圧倒的に鮮やかで、戸田子爵邸の印象はとても薄いのだ。
 
 徳川邸は1934年(昭和9)の建築だから、目白・下落合地区でも比較的新しい屋敷になるのだが、その少し前にあったはずの戸田邸の想い出を語る方はきわめて少ない。これが、たとえば大正期に解体されてしまった屋敷であれば、その記憶をお持ちの方が少ないのはしかたがない。でも、少なくとも戸田邸は、1931年(昭和6)ぐらいまでは、そこに建っていたはずなのだ。それとも、周囲を濃い屋敷森に囲まれた敷地の中に建っていて、実際の建物を目にした方がとても少ないせいなのだろうか? わたしは、この“まぼろし”の戸田邸がずっと気になっていた。
 1910年(明治43)に作成された早稲田・荒井地形図には、戸田邸の屋敷のかたちがクッキリと描きこまれている。そのフォルムから、和建築ではなく西洋館だったと想像していた。明治~大正期の高田町雑司ヶ谷旭出は、畑地が拡がり雑木林もあちこちに残る、いまだ東京郊外の武蔵野の風情を色濃く残していただろう。その中に、忽然と戸田邸の大きな屋敷が起立していたわけだから、かなり目立った存在のはずだった。1929年(昭和4)の春日部たすくの作品に、ちょうど戸田邸の近くから長崎町(現・椎名町付近)方面を描いた『長崎』という作品がある。昭和初期でさえ、周囲はこのような風景だったのだから、戸田家の屋敷は、いやでも周辺に住む人々の目に写っていたはずだ。でも、徳川邸の想い出を語る方は多いが、戸田邸の詳細を憶えている方は少ない。

 徳川邸が建設される前、1933年(昭和8)に編纂された『高田町史』Click!にも、戸田邸の記述はきわめて少ない。戸田家の簡単な紹介と、会長をつとめた高田町教育会における活動について、若干の記述が見られる程度だ。わたしは、戸田邸の写真も目にしたことがなかった。
  
 戸田康保・・・旧信州松本藩主子爵戸田康保は、明治三十六年頃から、雑司谷旭出に住み、昭和五年下落合に移転した。子爵は多年、高田町教育会の会長の任に在つた。
  <略>
 (昭和五年)十月二十三日、会長戸田子爵は町外に転居のため辞任 顧問の海老沢了之介を会長に選挙す。                          (『高田町史』高田に縁故ある人物より)
  
 先日、下落合の近代建築を取材していて、びっくりするようなお話をうかがった。昭和初期に建築されたA邸の方にお話をうかがっていたら、「うちは、戸田邸の部材をそのまま譲っていただき、こちらへ移して建てたんですよ」とのこと。わたしは思わず「エッ?」と、耳がダンボになってしまった。残念ながら、この邸宅にお住まいの方が数代変わられているため、1943年(昭和18)に移られてきたA邸の方は、その詳細をすでにご存じなかった。
 
 改めて建物を詳細に拝見すると、昭和初期に建てられたにしては窓枠などの意匠が、より古い時代のもののように感じられる。モダニズムというよりも、どこか見よう見まねで西洋化を推し進めていた、明治時代の香りがそこはかと漂ってくるようだ。もちろん、これがそのまま旧・戸田邸の建物というわけではない。でも、その屋敷の一部の姿やデザインを、おそらく色濃くとどめているのではないだろうか。また、このお宅には、目白文化村の第二文化村外れに移る前の吉屋信子Click!も、一時期ここに住んでいたという伝承が残っている。
 さて、そこで思い当たるのが、「トラスト基金」活動がつづいている屋敷森に建っていた、旧・前田子爵邸の移築とみられるE邸の建物だ。大正時代、ここには「服部土木建築」の服部政吉という人が住んでいた。『落合町誌』(1932年・昭和7)によれば、「土木建築請負業」(P343)とある。つまり、服部土木建築が旧・前田子爵邸の屋敷を、大正期に下落合768番地へ自宅として移築しているらしいことから、江戸~明治期などの旧建築の移築・再利用技術に長けていた建築業者ではなかったか?・・・という、リアルな想像がはたらく。
 
 そして、目白にあった戸田子爵邸の一部を移築したと伝えられるA邸は、まさに旧・前田子爵邸が移築された服部家の敷地に隣接しているのだ。いや、そればかりではない。同じく、隣接しているお屋敷に、明治建築で有名なK邸がある。K邸は、「トラスト基金」の屋敷森に建っていた旧・前田子爵邸と、屋根や外壁などの意匠がウリふたつだ。つまり、このK邸も服部建築土木が請け負った、貴重な移築建築ではないのか。さらに、考えを一歩推し進めるならば、広大であったと思われる旧・前田子爵邸の、はたして一部を移築したものではなかったか?
 大正期に服部土木建築のあった周辺には、服部家の自宅である旧・前田子爵邸や、そのデザインにそっくりなK邸、旧・戸田子爵邸の一部移築であるA邸と、歴史的な建築が軒並み建っていたことになる。これらが、移築を得意とする服部土木建築の仕事だとすれば、かつてこの界隈には貴重な建物の移築ブームとともに、どのような物語が紡がれていたものだろうか。

■写真上:A邸には旧・戸田子爵邸の部材移築の伝承が、現在でもはっきりと残っている。
■地図は、1910年(明治43)作成の早稲田・荒井地形図。は、1930年(昭和5)の同図。
■絵画:春日部たすく『長崎』(1929年・昭和4)。画面の背後が、目白/池袋方面にあたる。
■写真中:A邸のモダンなデザイン。でも、窓枠などを近くで観察すると、さらに古そうな印象がある。
■写真下は、屋敷森に2005年5月まで建っていた、旧・前田子爵邸の移築と伝えられる広大なE邸の玄関。は、その意匠にそっくりな西隣りに接する重厚なK邸。

この記事へのコメント

  • Mr.カラスコ

    ブログで本題とはずれた内容の場合、どこに投稿すればいいか分からないので、本題と関係ないですがここに投稿します。

    最近 下記の本を購入し、立体航空写真が簡単に作れることが分かりましたので紹介します。
    http://www.gihyo.co.jp/books/syoseki.php/4-7741-2605-5 

    下記は例の昭和22年の米軍撮影航空写真で、目白文化村近くの落合一小から妙正寺川にかけての地域です。
    http://golgo13.main.jp/rittai/rittai
    左の2枚は、異なる隣接した地点から撮影した同じ場所の写真を、
    大きさを同じにして単に並べただけですが、2枚の間に視線を置き、
    目を寄せる(視線を手前に移動する)と、2枚の間に合成した写真が現れ、
    (気合を入れると?)写真が固定されて立体的に見えるようになります。

    一方、一番右の写真(アナグリフと言うそうです)は、
    前述の本についている赤青メガネで見ると、目を寄せなくても立体的に見えます。
    ネットで調べたところ、アナグリフ画像を作成する無料のソフトがいくつかあり(例えば下記)、前述の左2枚の写真を取り込んで、
    変換し、位置を調整するだけで簡単に作成することができます。
    http://stereo.jpn.org/jpn/stphmkr/index.html
    なお、赤青メガネは下記でも購入できます。
    http://www.stereoeye.jp/shop/index.html

    それから写真でなく地図を立体的に見ることができるサイトもありました。
    下記は上記写真と同じ場所で、交差法を選択し、目を寄せると立体的に見えます。
    また余色法は前述のアナグリフと同じで、赤青メガネで立体的に見えます。
    http://wss.gsi.go.jp/wss.aspx?id=53394555&xy=?315,1377
    2006年04月21日 07:09
  • ChinchikoPapa

    ブログと関係のないテーマでも、どこにでもご自由にお書き込みください。(^^
    さっそく、『地べたで再発見! 『東京』の凸凹地図』(技術評論社)を注文してしまいました。貴重な情報を、ありがとうございました。

    >2枚の間に合成した写真が現れ、(気合を入れると?)写真が固定されて
    >立体的に見えるようになります。

    これ、すごいですね! 小学校の校舎や家々が浮き上がり、第四文化村の谷間はちゃんとヘコんで見えます。下落合界隈なら、地形は頭の中に叩きこんであるのですが、知らない別の地域やうろ覚えの地形を確認するには、まさに最適です。ただ、あまり気合を入れすぎて、寄り目が元にもどりにくくなるのが、長時間にわたり画面の空中写真を見つづけることの多いわたしには、つらいでしょうか。
    寄り目をして、PCを覗きこみつづけるわたしを見て、周囲の人々は、とうとう佐伯祐三の描画ポイント探しが昂じて、「ついに、いっちまったか」と思われるでしょう。(笑)

    >変換し、位置を調整するだけで簡単に作成することができます。
    >(略)
    >なお、赤青メガネは下記でも購入できます。

    こちらも、とても耳寄りな情報です。やはり、立体メガネを使ってアナグリフを見たほうが、目を痛めないで済みそうですね。ご紹介いただいたフリーウェアが病みつきになり、東京じゅうを覗いてみたくなりそうです。こちらも、端から見ると怪しいですが。(笑)
    いつも貴重な情報を、ほんとうにありがとうございます。
    2006年04月21日 19:26
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年04月10日 23:37

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