佐伯祐三の足取りを追え。

 

 1926年(大正15)10月10日から15日までの6日間、連日ぶっつづけで『下落合風景』シリーズを制作していた佐伯祐三の足取りを、当時の「制作メモ」Click!からたどると面白いことがわかる。それは、第一文化村から第二文化村の尾根道を、風景画材を求めて毎日行き来していたことが、おおよそたどれるからだ。
 10月10日 「森尾さんのトナリ」(20号)制作
 10月11日 「テニス」(50号)制作(No.dd)
 10月12日 「小学生」(15号)制作
 10月13日 「風のある日」(15号)制作
 10月14日 「タンク」(15号)制作
 10月15日 「フビラ村の道」(15号)制作
 まず、10日(日)に書かれた「森尾さんのトナリ」。この「森尾さん」ちがどうしても見つからない。借地の上に住宅を建てれば、地図には地主名が表記されてしまうので、なかなか当時の詳細図ではわからないのだけれど、おそらくは目白文化村Click!内か、その周辺のお宅だと思っている。継続して調べてみたい。11日(月)の「テニス」。これは、第二文化村の南端にある益満邸の敷地に造られたテニスコートClick!で、作品はのちに落合小学校へ寄贈されている。この絵に描かれた日本家屋は、戦災をまぬがれて戦後まで建っていた。
 12日(火)の「小学生」。これは、落合小学校の生徒を描いたもの。第一文化村の中央生命保険(旧・箱根土地本社)、または第四文化村近くの校舎か運動場の近くで描いたのだろう。個人に秘蔵されているのか、あるいは戦災で失われたものか、わたしはこの絵を観ていない。13日(水)の「風のある日」は後述するとして、14日(木)の「タンク」。第一文化村は南端の外れに、第二文化村は北端に、文化村水道の水圧を確保するために配水タンク(水道タンク)が造られた。当時の地図にも描き込まれ、また空中写真にもはっきりと写っている。佐伯は、このどちらかのタンクを描いたのだが、わたしは「小学生」→「風のある日」→「タンク」の流れから、第一文化村の配水タンクだと考えている。これらの作品に描かれた風景は、おそらくかなり近接していると想像する。


 そして、15日(金)「フビラ村の道」。フビラ(フヴィラ)というのは、北欧で盛んに建てられた大型別荘建築(フィンランドに多い)のことで、三角の尖がり屋根が特徴的なデザインだ。佐伯祐三は、文化村のモダンな住宅街に通う道のことを、シャレて「フビラ村の道」と題したのだ。大正15年現在で、洋風の家々が多く建ち並んでいたのは、第一文化村か第二文化村のどちらかであり、中でも第一文化村を南東から北西へと横断する弁天通りClick!、あるいは第一文化村から第二文化村へと縦に抜けるセンター通りClick!のどちらかではないかと考える。
 11日(月)に「テニス」を描いている関係からか、佐伯は第二文化村の風景に馴染みがあり(つまり以前からロケハンをしていたことになり)、第二文化村のテニスコート沿い、西側の南北に走る道路を歩いたとき、第一文化村へと抜けられるセンター通りを目にして、後日に描こうと決めていたのではないか。去る9月19日に、第二文化村の北に隣接した「道」Click!を描いたときに、第二文化村をロケハンをしていたとも考えられる。でも、「フビラ村の道」と題された文化村を描いたと思われる作品を、わたしはまだ目にしていない。

 さて、問題の13日(水)「風のある日」。わたしは、上掲の作品がこれに当たると考えている。庭に植えられた樹木が、強風にあおられている様子がありありと描かれているからだ。前後の「小学生」と「タンク」から、だいたいこのへんでは?・・・とアタリをつけてみる。ここに描かれた家は、文化村内のお宅ではない。そう断言できるのは、箱根土地が造成した文化村の敷地は、すべてにわたって道路と住宅敷地との間に大谷石による区画割り、または築垣が行われ、このような土がむき出しのまま木柵で土止めが行われたところなどないからだ。
 大きな窓のある手前が南、トイレの臭い抜きが立つ側を東北、そして目白崖線が見えないところを考慮すると、当然2棟の家は丘上になければならない。しかも、まだかなり空地のある様子が見て取れる。ちなみに、文化村内であれば下水道が完備していた、つまり水洗トイレだったので、このようなトイレの臭い抜きは必要なかっただろう。第一文化村と第二文化村の外周を探し、それらしい家並みに絞り込んだ。アタリをつけた近辺をもとに、古くから文化村近くにお住まいの方へうかがったところ、「ここではないか」とのお返事をいただいた。ちょうど、第一文化村の配水タンクがあった、すぐ西側に並ぶお宅だ。第一文化村のすぐ南の外側にある敷地で、左の2階屋が「小千谷さん」ちではないかとのことだった。(「清水さん」ちの可能性もあり) さっそく、当時の詳細図と空中写真とで調べてみる。
 あった。第一文化村の配水タンクのすぐ横に、確かにそれらしい道筋と家並みが見える。1936年(昭和11)の空中写真では、10年後だがすでに新築らしい住宅が建ち並んでいて、「風のある日」に描かれた2棟の住宅だけではなくなっている。でも、ちょうどこの絵が描かれた当時から建っていたらしい、2棟の家の位置関係がよく一致した。「小千谷さん」(または「清水さん」)のお宅を、1947年(昭和22)の空中写真で確認すると、屋根の形状がいま少しはっきりしないが、とりあえず地元の方の証言を最優先する。ただし、右奥の家は、山手通りの工事でひっかかってしまったものか、解体されていて空地となっている。
 
 もうひとつ、この位置からだと第一文化村の家並みが、少しぐらい見えないのはおかしいのでは・・・と考えたのだが、当時の地形をうかがって納得した。ここは、ほんのわずかだが手前へと傾斜しているのだ。住宅敷地の盛り土を見ても、それがいくらか感じ取れる。そして佐伯の描画ポイントの背後、つまりこの絵の反対側は、ゆるやかだが谷底へ向かう斜面となっていた。現在の十三間通り(新目白通り)が貫通しているあたりで、第一文化村からの道はやや南傾斜、第二文化村からの道はやや北傾斜となっていたポイントだった。つまり、「小千谷さん」ち(または「清水さん」ち)あたりまで行けば、第一文化村の家並みがよく見えただろう。
 「風のある日」と思われる作品に描かれた、左側の家は下落合1360番地にあった「小千谷さん」ち(または「清水さん」ち)、右側手前の樹木が大きく風に揺れる敷地は「田向(たむかい)さん」ち、右奥の家は佐伯が描いた当時に建てられたばかりなのか、居住者名は不明だった。では、この作品を場所特定の空中写真Click!として記載しよう。

■写真上は、1926年(大正15)10月13日に描かれた、「小千谷さん」ちとみられる「風のある日」。は、現在の同所。十三間通り(新目白通り)の下になって、いまやなんにもない。
■写真中は、1936年(昭和11)に撮られた目白文化村界隈の空中写真。佐伯祐三が、『下落合風景』の画材を求めて散歩したコースが透けて見える。は、佐伯祐三が「フビラ(フヴィラ)村」と表現した目白文化村。写真は第一文化村西側で、おそらくは箱根土地本社のビルからの撮影。
■地図:1926年(大正15)に作成された「下落合事情詳細図」より。佐伯祐三も『下落合風景』を描く際、この地図を見ながら歩いていたのかもしれない。
■写真下が、1936年(昭和11)の「風のある日」が描かれたとみられる、第一文化村配水タンクに隣接した「小千谷さん」ち(下落合1360番地)の上空。は、1947年(昭和22)の同所。右奥の家が壊されて空地になっている。

この記事へのコメント

  • すー@上落合

    全作品の場所特定おめでとうございます。

    で,せっかく完結されたそばから何ですが(笑)…
    先日,別記事へのコメントに返事を頂いた後,数冊だけ所有している佐伯の展覧会カタログや評伝類を引っ張り出して,ざっと見直してみたところ,ChinchikoPapaさんのリストにない作品が数点出てきました。
    調べるまでもなく場所を特定できるもの(「八島さんの前通り」の別バージョン),「タンク」が描かれているもの等々…数日中にきちんとまとめてご報告したいと思います。

    って相手は絵画なので,どんな風にお伝えすればわかりやすいでしょうかね。
    2006年03月30日 01:05
  • ChinchikoPapa

    すー@上落合さん、せっかく完結したのに! ・・・って、これは、とってもうれしい悲鳴ですね。(笑)
    スキャナとftpサーバスペースをお持ちでしたら、そちらからダウンロードさせていただきますが、もしお持ちでない場合は、展覧会カタログの開催年と名称や評伝の書名などをお教えいただければ、こちらで入手いたします。お手数ですが、ご教示ください。
    ほんとうに、ありがとうございます! 手持ちのものが特定できてしまったら、ちょっとお祭りのあとのように一抹の寂しさを覚えていたのですが、これでまた楽しみがつづきます。ウキウキ(^^;
    2006年03月30日 01:17
  • すー@上落合

    遅くなってしまいましたが,「下落合風景」追加のご報告です。数センチ角のモノクロ写真が多いため,古くて解像度が低すぎるスキャナではものにならず,デジタルカメラの接写もうまい具合にならないので,書誌情報と簡単な印象をお伝えします。チェックしたのは,以下の4冊。

    評伝A/朝日晃『佐伯祐三のパリ』大日本絵画,1994年
    評伝B/朝日晃『そして佐伯祐三のパリ』大日本絵画,2001年
    図録A/「1997年東京国際フォーラム 佐伯祐三展」日本経済新聞社,1997年
    図録B/「2005年練馬区立美術館 佐伯祐三 芸術への道 展」2005年

    追加1)《下落合風景(タンク)》評伝A 334ページ(モノクロ)
    評伝Aには,例の製作メモに基づいた考察があり,この作品は10月14日の「タンク」とされています。モノクロながら文化村の中らしき大谷石の基盤石が描かれているのがはっきりわかります。タンク自体は家屋の向こう側にあるようにも,屋根の上に設置してあるようにも見えます。文化村の給水タンクならば,描かれた道のようすから見て第一文化村のもの(Papaさんの18番の位置からちょっと南東へ戻った「下落合事情詳細図」のV字路あたりが描画地点?)でしょうか。屋根上のタンクならば,上落合2丁目に使われなくなって久しい小型のものが現存しています。

    追加2)《下落合風景》評伝A 335ページ(モノクロ)
    文中解説によると,濃い緑の中に家々が点在し,画面の上3分の2を占める空の中央に電柱がそそり立っています。他の作品に比べて,空の存在感が圧倒的です。実は,同ページにはPapaさんが9月25日「曇日」とされた12番の作品が,9月21日の「洗濯物のある風景」として載っており,確かにこちらの作品のほうが「曇日」にふさわしいかもしれません。描画場所の特定はかなり困難でしょう。

    追加3)《下落合風景》評伝B 口絵4ページ(カラー)
    評伝Bは,評伝Aの補遺的な内容で,この作品も新発見とのこと。Papaさんの14~16番の別バージョンで,他の3作品よりもやや北に上がった地点から,より北西方向を中心に描かれています。16番で左端に見えている赤い屋根の家が画面の中心にあり,その向こうには煙を吐く煙突が…これはもう,5番で検証された「菊の湯」の煙突でほぼ間違いありません。

    追加4)《下落合風景》図録A 42ページ(カラー)
    Papaさんを最後まで悩ませた18番に似て,中央に大きく2階家が描かれています。大谷石の基盤石がなく,立派な木の門と生垣を持った日本家屋なので,文化村の外ですね。珍しく電柱がありません。遠景がないので,この作品も場所の特定が困難かもしれませんが,結構特徴のある家なので,古くからお住まいの方が見れば,簡単にわかるかも。

    追加5)《目白風景》図録B 184ページ(モノクロ)
    最新の資料と思われる昨年の練馬展の図録Bの巻末には,主要な展覧会出品歴と画集掲載一覧が出ています。(なぜか前掲追加4番はリストから抜け落ちているのですが) また,最初の2冊の画集については全作品が小さな写真で紹介されており,この作品はそのうちの山本發次郎コレクションの1点です。小さいモノクロでわかりにくいですが,手前には右に向かってゆるやかに下っていく草木の茂る低地があり,画面奥の尾根筋に家々。八島さんちの前通りから東方向-聖母病院建設前の不動谷をはさんでその向こうの諏訪谷,瑠璃山方面-を描いたように見えます。

    なお評伝Aの83ページには,渡仏前の作品《戸山ヶ原風景》も載っています。評伝の著者朝日氏の研究では,1926~27年の下落合時代に描かれた作品は60点余(確認済みが40点),そのうち風景画は(新橋や田端,大阪のものも含めて)50点余(確認済みが30点)とのことですから,まだ出てくるような,とりあえず打ち止めのような微妙なところですね。

    長文,失礼しました。
    2006年04月09日 00:07
  • ChinchikoPapa

    すー@上落合さん、ほんとうにありがとうございました。<(_ _)>
    さっそく、ご教示いただきました書籍や図版類を取り寄せて、参照してみたいと思います。また、スキャナやデジカメによる撮影など、かえってご面倒をおかけしてしまったようで、たいへん恐縮してしまいました。申しわけありません。
    お教えいただきました中で、図録Bの『目白風景』と『戸山ヶ原風景』はすでに画像データ化しておりまして、近々、ブログへ書こうと思っていた作品です。前者の『目白風景』ですが、偶然にもきょう、下落合を散策するついでに、空中写真を手に場所特定の確認をしてきたばかりだったりします。
    なぜ、地名にかなり几帳面な佐伯が、この作品を『下落合風景』とはせずに、あえて『目白風景』とタイトルしたのか・・・というところがずっとひっかかってまして、彼は最初、下落合だと思って描き始めたのに、途中で落合町下落合ではなく、高田町高田字金久保沢だと気がついたのではないか・・・というところにたどり着きました。つまり、下落合だと思ってスケッチしたのに、そうじゃなかった際につける名前として「目白」を選択したとすれば、省線・目白駅の直近ではないかと考えました。
    それをベースに空中写真(1936年)を探しましたところ、たった1箇所ですがピッタリな家並みと地形が一致する場所を発見しました。きょうは、その検証のために、下落合を散策がてら現地へ立ち寄ったしだいです。さきほど、『目白風景』についての原稿をまとめましたので、さっそくきょう中にでもアップしたいと思います。あと少し、お時間をください。
    そのほかの、評伝A・Bおよび図録Aの『下落合風景』は、おそらくわたしは一度も目にしたことがないと思います。早く観てみたい気持ちでいっぱいです。
    ほんとうに、ありがとうございました。重ねて、厚くお礼申し上げます。(深謝)
    2006年04月09日 01:01
  • ChinchikoPapa

    ものたがひさん、こんにちは。いつも、貴重な情報をありがとうございます。
    すー@上落合さんがご紹介くださった資料類は、さっそく昨日、古書店や書店へ注文しました。(ありがとうございました)

    > 写真のupができないのですが(Macだからか、『目白文化村Site』も見られな
    > いところがあるのですが!)

    ものたがひさん、ごめんなさい。わたしのHTMLコーディングの未熟さと、ブラウザの検証をさぼっているせいで、Windows環境に最適化したままの状態です。ほんとうは、ユニバーサルデザインをめざしたいのですが、時間がなくて・・・。<(_ _)>

    >朝日新聞社から1979年にでた『佐伯祐三全画集』には、今まで取り上げら
    >れていない作品が、十数点載っています。

    わっ、やったー! これもさっそく購入しようと思い、古書店に注文しようと思いましたら、値段を見てマウスに載せた手が一瞬、凍りついてしまいました。・・・・・・190,000円!!\(@@;/ワハハハハ
    これは、さすがにちょっと手が出ないです。図書館にスキャナもカラーコピーもないし、さてどうしましょ・・・。(大汗)
    2006年04月10日 11:45
  • ChinchikoPapa

    ものたがひさん、重ねてありがとうございます。
    近代美術館を、ちょっと覗いてみたいと思います。うまくカラーコピーがあるといいのですが・・・。
    2006年04月10日 14:38
  • すー@上落合

    今回の資料は,まだ絶版とかではなく,比較的容易に入手できそうなものばかりだったこともあって,スキャニングや撮影はすぐにあきらめました(笑)ので,お気になさらずに。

    Papaさん同様,『佐伯祐三全画集』までくると,さすがに手が出ません。私も,この本はぜひ見てみたいと思っていたので,ものたがひさんのご紹介感謝です。

    国近のホームページで図書検索をかけてみたら,おお,さすがに揃ってますねぇ。
    美術館に行くと,どうも展示だけでいっぱいいっぱいになってしまうので,たまには資料目的で出かけるくらいの余裕がほしいです。開催中の藤田嗣治展(佐伯とはパリつながりですが,交流はなかったよう)を見るついでに…と言っても,藤田に圧倒されて,また疲れきってしまいそう。

    『目白文化村Site』は,Windowsでも写真が表示されないところがあります。当方にはMacのOS9環境もありますが,見えないのはどちらも同じです。私もHTMLは詳しくないのですが(汗),Macの問題というよりも,単純にリンクが切れているとか,サーバ側でファイルが消えたり壊れたりしているだけといったことなのかもしれませんね。ただ,これをひとつひとつ検証して修正しようとすると,えらく大変ですが。
    2006年04月10日 17:16
  • ChinchikoPapa

    すー@上落合さん、こんにちは。
    絵画展は、じっくり鑑賞してますと時間がたつのも早いのですが、あとでグッタリしてしまいます。それだけ、作品と向き合う側もエネルギーをつかっているんでしょうね。

    >『目白文化村Site』は,Windowsでも写真が表示されないところがあります。
    >当方にはMacのOS9環境もありますが,見えないのはどちらも同じです。

    すみません、ご不便をおかけします。アップしてから1年~1年半たちますので、IEのバージョンアップなども含め、不具合が出ているのかもしれません。もう一度、時間のあるときに検証してみます。<(_ _)>
    2006年04月10日 18:20
  • ChinchikoPapa

    はい、わたしも先ほど調べました。カラーコピー機がないと、ちょっと面白くないですね。デジカメで接写は、許していただけるのかな・・・。
    ちょっと当たってみます。ありがとうございました。
    2006年04月10日 19:51
  • ChinchikoPapa

    ものたがひさん、ありがとうございました!
    カラーコピー100円/枚。ここなら、間違いなくできそうです。(^^/ わたしの会社は飯田橋ですので、大江戸線1本で現代美術館まで行けます。さっそく、時間ができたら出かけてみます。(><;☆\(-_-;ヲイ、仕事は?
    心より、感謝申し上げます。
    2006年04月10日 23:35
  • すー@上落合

    今日,時間ができたので,竹橋(国立近代美術館)まで行ってきました。

    藤田展は凄い人気でゆっくり見られたものではなく,その分?ライブラリで『全画集』をじっくり眺めてきました。ちなみにコピーは白黒のみでした。

    ものたがひさんがご紹介されたように,未見の(Papaさんのリストにない)作品がもりだくさん!! 渡仏以前の1922年ごろの作品が1点,カラー図版で下落合と目白あたりを描いたものが雪景色を含めて6点,モノクロ図版が5点…計13点11箇所もありました。特にカラー中の1点は,家の建て込んだ街中の往来を描いており,他のものとは毛色が違っていて,場所の特定が楽しみです。ほかに,ものたがひさんご指摘の「絵馬堂」がありますが,これは果たしてどこなのかな?

    その一方でリストにあるもが結構未掲載だったりしますが,17「八島邸の門」がカラーで載っているのを皮切りに,私が追加した1の「タンク」と4の東京国際フォーラム展のものも出ています…よって,私が追加した分は,2と3の2点になりますね。

    先に紹介した朝日晃氏は,フランスでの作品について描画ポイントを特定することに30年あまり熱心に取り組んでいたようですし,雑誌「太陽」1980年3月号の佐伯祐三特集で写真家の高梨豊氏を使って同じ試みをしていますが,下落合時代については,私の知る限りすっぽり抜け落ちているんですよね。まだまだ当分楽しめそうですよ。
    2006年04月14日 18:41
  • ChinchikoPapa

    すー@上落合さん、こんにちは。コメントをありがとうございます。
    『全画集』の概要をお教えいただき、ありがとうございました。とても参考になりました。これはぜがひでも、深川の現代美術館でカラーコピーしてもらわないといけませんね。はたして、『全画集』のページはB4サイズの複写に収まるものか・・・。こういうとき、絵画作品の画像データベースがあるととても便利だと思います。歴史的な建築作品や工芸品では、データベース化が進んでいるようですが、絵画ではまだなかなか進んでいないようです。
    それから、八島邸の「門」がカラーで掲載されているとは驚きです。戦災で焼失または行方知れずになったのではなく、どなたか個人の方がお持ちなのでしょうか。雪景色は、間違いなく1927年の正月が明けたあたりの下落合です。すごい寒さだと思いますので、それほど佐伯は遠出をしていないのではないかと・・・。(笑)
    場所特定は、これからが本番だったりして・・・。まだまだ、数年は『下落合風景』で楽しめそうですね。(^^
    2006年04月14日 20:05
  • すー@上落合

    『全画集』は,縦40cmほどある大型本ですが,幸い見開きの右ページにタイトル他のデータ,左ページに十分な余白をとって図版1,2点(モノクロは6点ずつくらい)という形になっているので,左ページの図版だけならB4サイズに収まりそうです。

    追加する下落合関係に絞れば10枚にも満たないので,著作権法の範囲内の複写で全く問題ないと思います。
    2006年04月14日 21:21
  • ChinchikoPapa

    重ねがさね、ありがとうございます。
    来週末あたり、時間が空いたらのぞいてこようと思います。お教えいただきました本や図録は、今週とどきました。またまた、夜更かしが増えそうです。(笑)
    2006年04月15日 00:47
  • 谷間のユリ

    no name改め、谷間のユリです。
    たびたび、コメントさせていただいて、またそれについてご丁寧な返答ありがとうございます。
    実は、上の昭和22年の航空写真で小千谷邸と指摘されてるのは違っております。
    これは、昔私が住んでいた正にその家で(したがって本籍は結婚前までこの番地で、またもちろん私の旧姓は小千谷でなく“U”です)。絵の2階建ての洋館は貸家か借地に建てられていたものだと思います。もちろん、文化村分譲ではありませんが、このようなの建物はめずらしくなかったようです。
    上の古い地図(実家の父も所持)とちょっとずれているようで、昭和22年の航空写真で小千谷邸とされているのは私の昔の家、その後ろ2件は貸家、空き地後ろの建物は大正の終わりごろ祖父がタムカヒさんかその隣(?)に貸していた2階建ての洋館を移築したものです。空き地は私が幼いころは確かにありました。。作画ポイントで示されているのは平屋で、その右隣が2階屋でした。大学教授に貸していたとか。これは父に確認して、私の記憶とも一致しました。
    これは記憶に間違えようがないので訂正お願い致します。
    2006年05月22日 01:16
  • ChinchikoPapa

    谷間のユリさん、ネットネームをありがとうございます。
    上記の件、了解いたしました。実際にお住まいの方がこうしてみえ、いくら大正時代の「事情明細図」へ記載されていて、現在は存在しない邸宅であっても、邸宅名を出しづらくなりますね。(^^;
    また、「事情明細図」では、実際にそこに家を建てて住んでいる住人名と、土地の所有者である地主名との表記が統一されていないような感じを受けます。どちらかといえば、地主名が多いような感触です。たとえば、第一文化村のちょうど谷間のユリさんのお宅の北側(下落合1321)にあった、当時「犬小屋」と呼ばれてしまった鋭角な尖がり屋根を持つ「林邸」ですが、「事情明細図」にも「文化村地割図」にも存在していません。おそらく借地の上に建てられたからでしょう。酒井億尋の敷地も、佐伯邸が建っていたにもかかわらず、「事情明細図」には記載がありません。このあたり、実際の住人名と地主名との識別も悩ましいテーマではありますね。
    上記のご指摘、時間を見つけて修正しておきます。
    2006年05月22日 11:54
  • ChinchikoPapa

    谷間のユリさん、さっそく文章と写真を修正してみました。ご参照ください。
    わたしも、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真で、家の配置と工事中の山手通りにまどわされて「描画ポイント」の道筋を、1本間違えて捉えていたようです。
    今度は、いかがでしょうか?
    2006年05月22日 19:05
  • ものたがひ

    こんばんは。谷間のユリさんのアクセスによる展開に感慨一入です。動いていった2階建ての洋館と怖い犬の物語も、印象深く…。
    谷間のユリさんのご確認が待たれます。私は、実はこの絵の要素からの描画地点の特定は、難しいのではないかなあ、と思っていたのですが、とんでもなかったです!地域の記憶とインターネットの普及が交叉している「今」を、つくづく感じます。
    1936年の写真のタンクのエリア丸くして下さって、ありがとうございます。このエリアの左上にある縦長の家が、隣の1947年の写真では、U邸北の上の方の貸家の場所に動かされて、怖い犬の居る「女子大生専門の下宿館」になったのですよね?昔は家を引くという事をよく聞きましたが、動いたのがはっきり分かると不思議な気持ちです。
    (G.P.さま、暴投系にストッパーの大役ですか?^^)
    2006年05月23日 00:42
  • ChinchikoPapa

    わたしも、いまなら下宿館に近寄りすぎて、犬に吠えられたかもしれませんね。(爆!) いや、今なら警察でしょうか。
    ときにクセ玉やワイルドピッチが多そうですので、身体を張ってとめてください。(><;☆\ でも、ボールをできるだけ多く投げて、少しでも多くの情報を集める・・・という考え方もありますよね。
    2006年05月23日 00:56
  • ものたがひ

    こんにちは、C.P.さま。女子大生のことばかり考えている場合ではありません(私も、家が動く事の方に気をとられていましたが…)。
    二つの航空写真の描画ポイントの指す所は一致しましたが、谷間のユリさんは、その家は平屋で、その右隣が絵に描かれた2階屋です、とおっしゃっているのでした(ですよね?)。だんだん、そこはかとない違和感を感じてきて、気づきました。いろいろな写真や図面を比べると、事情明細図の頃に、U邸とワタナベ邸の間に実際には隙間があったと思います(1947年の写真で渡辺邸とされている所から移築された洋館とされる所に至るゾーン)。そして、「小千谷邸または清水邸」が渡辺邸で、その東隣が、描かれた2階屋の清水邸となると思います(U邸とタンクの道の間には、環6の出来る前には4列の家の建つスペースがあったのに、その西1列が1936年の写真でも、はっきりしないのです)。絵の、遠くにある2階屋は山村邸となりますが、空中写真撮影時には1926年とは異なる建物になっているように見えます。事情明細図で山村邸南の太い道の様に見える所は空地で、後で家が1軒建つスペースがあり、絵の距離感と矛盾しません。現在の描画ポイントとなっている「小千谷邸または清水邸」は、このように考えてくると、平屋であるばかりでなく(『目白文化村』の図とも一致)、写真で見て、大きすぎます。新「清水邸」も、空中写真の屋根の形状が、ややビシッと来ないのが難ですが、でも、「大学教授に貸していた2階屋」と、はじめの「アタリをつけた近辺をもとに、古くから文化村近くにお住まいの方」から聞かれた家とが一致し、地域の方にこの絵の洋館があった、との記憶を喚起しているように感じました。
    p.s. もしも、描画地点を東に一列動かすと、1322番地を描いていることになってきます。  G.M.
    2006年05月23日 13:14
  • ChinchikoPapa

    > 二つの航空写真の描画ポイントの指す所は一致しましたが、谷間のユリさ
    > んは、その家は平屋で、その右隣が絵に描かれた2階屋です、とおっしゃ
    > っているのでした

    はい、わたしが以前に掲載していた1947年の描画ポイントの矢印は、渡辺邸(現状で渡辺邸としている家です)をほぼ指していました。「風のある日」の描画ポイントを意識して、右手の庭か原っぱのようなスペースの部分を指すように矢印を置いたからです。つまり、戦後の写真では渡辺邸を指すことになってしまいました。
    つまり、平屋が渡辺邸だと思います。谷間のユリさんが「作画ポイントで示されているのは平屋」としたのは、渡辺邸のことだと思います。そして、「その右隣が2階屋でした」が現状「小千谷邸または清水邸」としているお宅ではないでしょうか。
    2006年05月23日 16:31
  • ものたがひ

    確かに、22日の谷間のユリさんのコメントが右の1947年の写真についてのものなら、そう読めます。私は「作画ポイントで示されているのは…」の文からは、左の1936年の写真についての事と、受け取っていたのですね。
    でも、『目白文化村』の「1937年当時の文化村」の図では、U邸隣の現・渡辺邸も、その隣の現「小千谷邸または清水邸」も、平屋なのです。この図は、航空写真の家の位置関係と、とても良く一致します。記載ミスでしょうか。
    谷間のユリさん、教えてくださーい。
    2006年05月23日 20:06
  • ChinchikoPapa

    いま、帰宅して『目白文化村』のP221を見ているのですが、これによれば確かに「小千谷邸または清水邸」が“平屋”の印で描かれていますね。2階建て住宅は、渡辺邸の上(北側)にある小さな建物、あるいは「小千谷邸または清水邸」の右(東側)にある田向邸(?)ということになります。仮に、渡辺邸の北側にある小さな建物、あるいは「小千谷邸または清水邸」の東側にある田向邸(?)が、佐伯の絵に描かれた建物だとすると、今度は右手に描かれた家がどこにあるのか・・・という課題が発生しそうです。
    まったく話題が変わりますが、朝日晃と没後100年展図録で「森尾さんのトナリ」とされている制作メモですが、佐伯の筆跡から「森田」とも読めてしまう感触がありますか? このテーマ、それによってはかなり大きなポイントになるんじゃないかという予感がします。
    2006年05月23日 23:30
  • ものたがひ

    右手の家は、手前の家の北にあると思います。今日の昼間のコメント、ごちゃごちゃしてますが、詳しくチェックして頂けますか。私は、清水邸と山村邸だと考えます。やはり、谷間のユリさん、作画ポイントの話題に入った時点で、1936年の方を参照されている気がします。(地割図にもあたりました。)
    『森た』は、私は確実にそうだと判読しています。とても大事な事なので、先日の総撤退か?の時も『諏訪谷』のコメントは残しましたよ!(^^)とりあえず、I.S.方面ということでしょうか。宜しくお願いします。
    2006年05月24日 00:05
  • ChinchikoPapa

    個人の邸名だとわかりにくいので、記事末にちょっと手描きで汚くて恐縮ですが、このエリアに建てられた家々をイラスト化してみました。ピンクで塗られた家が、大正末の状況により近い1936年(昭和11)に見られる(とわたしが解釈している)家々です。
    ●谷間のユリさん証言
     A/B・・・U家の貸家
     C…U邸
     D…西洋館の移築で貸家
     E…空地(1947年写真時/1936年当時は建物が見える)
     G…描画ポイントで示していた家(1947年写真時)で平屋
     I…その右隣りの家が2階屋(大学教授に賃貸)
    ・・・というように受け取りました。
    ●わたしの解釈
     G…渡辺邸
     E…空地(1936年当時はFの敷地も空地と思われる)
     I…小千谷邸/清水邸(2階建て貸家なので分割使用か?)
     H…山村邸
     J~N…田向さんほかの地所
    ・・・という考え方をしました。とりあえず、谷間のユリさんのコメントからはこう読み取れます。
    ●ものたがひさんの解釈
     I…渡辺邸
     L…小千谷邸
     K…清水邸
     J…山村邸
    ・・・ということでよろしいですよね。

    > U邸とワタナベ邸の間に実際には隙間があったと思います

    ここの敷地境界の捉え方で、解釈が変わってしまいますね。わたしは、実際に道が通っているのが空中写真からもはっきり見える、CとGとの間を境界と捉えましたが、ものたがひさんはGとIの間だと解釈されていますね。そうすると、必然的にI=渡辺邸となる可能性が高くなります。ただ、境界を示すような道も地割りも、2枚の空中写真からは見えません。そして、KとLの右側(東側)に道を想定されています。わたしには、1936年の空中写真を眺めても、佐伯が描いたような北上するはっきりとした道が見つけられないでいます。
    ・・・と、現状はこんな感じでしょうか。とりあえず、『目白文化村』の本は考慮せず、そこにお住まいだった方の証言にもとづきますと、こう整理できるのではないかと思うのですが・・・。

    > とりあえず、I.S.方面ということでしょうか。宜しくお願いします。

    あれ、I..S.方面って、どの方面でしょ?(^^; わたしは、K.S.方面ではないかと考えているのですが・・・。(笑)
    2006年05月24日 14:58
  • ものたがひ

    わたしの解釈、少し違いました。Kは空地で、L が清水邸、その南に小千谷邸です。描画ポイントは1936年のポの字の縦棒のテッペンのあたりです。この考えの難点は、はっきりした南北の道はLの向うにある事、Iが画角に入る事、Jの形が違う感じがする事です。
    左カーブの道から入る私道(?)は、地割図でも、おっしゃられるように、CとGの間と、IとLの間にあります。Lの東にあるとすると、なんか踏み固められてしまった道ですね(^^)。そんな道に電信柱は立てないと思うので、私も、『Iが2階屋説』に乗り換えようかしら。
    とすると、描画地点は1936年のピンクの描の字の北、ギル邸西からの道が北上してきて左カーブの道と出合うあたり、矢印は少し左に傾けると良いと思います。そうでないと、手前の草地が画面の左の方まできません。また、F、B、D(タムカヒさん?に貸していたのが大正末でここに移築されたのは1936年以降?)画角に入ってしまう位置ですが、1926年には無かったのでしょうね?
    それから、IとLの間の道が事情明細図にある『型の道だと思うので、渡辺邸は、GよりはI,小千谷邸/清水邸は道の東のK、Lまたはその南あたり、と思うのですが、どうでしょう。
    2006年05月24日 17:27
  • ChinchikoPapa

    われながら、マズイ図版ですね・・・とアップしてから反省してます。(^^; 確かにLの建物の下に、小さな細長い建物が見えています。(1936年写真) これももし住宅だと考えると、小千谷邸という解釈も成り立ちます。手描き図版へ、Oの建物を追加してみました。
    ●ものたがひさんの解釈
     I…渡辺邸
     O…小千谷邸
     L…清水邸
     K…空地
     J…山村邸
    ただ、もし、ものたがひさんの解釈が正しいとすると、佐伯の奧に見えている家に対する捉え方・考え方を変えてしまう・・・という手もありそうです。Jの山村邸の家の形が佐伯の絵と異なるのは、周囲に西洋館が建ち並びはじめたので、趨勢に感化されて1936年の空中写真時には、山村さんは「うちも西洋館にするぞ!」と、すでに真新しく建て替えてしまった・・・というように。
    なぜなら、Lの下に見えている、ものたがひさんが小千谷邸とされるOの建物は、わたしは佐伯が描く庭に、L邸の住人(?)か誰かがあとから造った小さな建物(温室とか物置とか)ではないか・・・と解釈していたからです。だから、佐伯が描画ポイントから描いても、この建物は入らなかったのだろうと勝手に可能性を追求しました。ただ、この可能性は、ものたがひさんも同様に追求できるわけで、「踏み固められた道」がなかった・・・とはわたしも言い切れません。
    あと、おっしゃるとおり「事情明細図」を優先させると、『のスペースはIとLの間の道になりそうで(ということは家が建っているように見えるKは空地?)、必然的にI=渡辺邸ということになってしまいます。『のかたちがスペースを表していて、LとNの間・・・とは、どうやら解釈しにくいですね。
    2006年05月24日 19:48
  • ものたがひ

    いえいえ、分かりやすい図版で。谷間のユリさんが「I」です、か、「L」です、と言って下さるまで、発想訓練をいたしましょう(^^)。
    私の当初説では、1926年にKは空地です。そして、道はあってもいいんですけど、電信柱は厳しいです。
    C.P.樣説のOの所については、1926年に地主さんはいても家は無かった可能性もあるし。また、先程述べた画角は、CとLがあったとしても、ぎりぎりで入らないのだと考えられます。この、ぎりぎりで何かを入れない、という画面設定の仕方、佐伯の得意技かも、と感じています。
    ところで、動く家の事なのですが、NがDへ、MがAへ、なのでしょうか。まだ新しい2軒が道路計画にかかり。「空地」を通って動いたのかしら、それとも第1文化村のお庭を一寸通ったのかしら。確か、このあたりは少し傾斜があったのですよね。永遠の謎かもしれませんが、気になる私です。
    2006年05月24日 20:46
  • ChinchikoPapa

    > ぎりぎりで何かを入れない、という画面設定の仕方、佐伯の得意技かも、
    > と感じています。

    これは、パリやモランの建物でもありましたね。絵によっては、楡の木があったりなかったり、玄関の屋根があったりなかったり・・・。この伝でいきますと、他の『下落合風景』を検討しているときに、ちゃんとバッケ(目白崖線)は省略せずに描いてくれているのだろうか・・・と、ときどき不安になったりします。
    NとDの家は、大きさがやや異なる感じがして気になりますが、MとAは非常に近似していますね。
    1936年(昭和11)の描画ポイント矢印の角度を、少し深くしてみました。
    2006年05月25日 11:26

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