下落合はミステリーサークルだらけ。(11)

 

 じれったいので立てつづけに書いたら、ちっともカレンダーが市松模様にはならない。(爆!)
 このシリーズを終えるにあたって、もう1枚、珍しい写真をご紹介しよう。大正時代に飛行機から撮影された、早稲田大学キャンパスの空中写真だ。
 大隈講堂も存在しない古い写真だが、そこには前方後円墳の富塚古墳Click!をはじめ、大隈邸にあった前方後円墳らしきフォルム、羨道とみられる横穴が発見されてその名が付いた穴八幡(高田八幡)Click!、旧・清水邸→旧・相馬邸の北側に大きなサークルが確認できる現・甘泉園公園Click!などが、一望のもとに眺められる。また、下落合つながりでは、目白第二文化村へ移転直前の、石橋湛山邸Click!がくっきりと写っている。

 ①大隈重信邸(現・大隈庭園)
 ②早稲田大学本学校舎
 ③東京市電車庫(現・都バス車庫)
 ④早大運動場
  のちの戸塚球場(戦後は安部球場)だが、現在は「総合学術情報センター」となっている。同センターを建設する際には、詳細な発掘調査が行われており、古墳時代の遺構も発見された。
 ⑤テニスコート
  先日ブログに掲載した写真のテニスコートClick!は、この位置にあった。
 ⑥宝泉寺
  富塚古墳の北側に当たる寺で、江戸期には水稲荷と同一境内だった。
 ⑦水稲荷(富塚古墳)
  江戸時代に富士講の流行で、築山を富士山に見立てた「高田富士」が造られた。水稲荷および高田富士の移転とともに発掘調査が行われ、前方後円墳の富塚古墳が確認された。
 ⑧穴八幡(高田八幡)
  江戸期に境内から古墳の羨道、または横穴式古墳が出現したので、以来「穴八幡」と呼ばれるようになった。羨道は現存し、江戸期以前から発見されていたようだ。
 ⑨相馬邸跡(甘泉園)
  清水邸のあと一時期、相馬子爵邸があった現・甘泉園公園。相馬邸が大正末に下落合へと移転すると、早稲田大学が買収して甘泉園と呼ばれた。この公園上にも、大きなサークルが見えている。
甘泉園の相馬邸は、下落合の相馬家とはもともと同祖だが直接関係はない。この時期に住んでいたのは、彦根相馬家の相馬永胤Click!であり、相馬家が移転後に早大が買収している。
 ⑩石橋湛山邸
  下落合に目白文化村が開かれた1923年(大正12)の関東大震災をはさんで、鎌倉時代と芝時代をへてのち、石橋邸は第二文化村へと移転してくる。

■写真は、リーガロイヤルホテル東京から眺めた、隣接する大隈庭園と大隈講堂。は、早くもサクラがほころび始めた早大正門前。

この記事へのコメント

  • はにぞう

    すばらしいシリーズをありがとうございました。終わってしまうのが残念です。
    こちらのシリーズを拝見するまで、長いこと新宿区西部に住んでいたのに、身近に古墳がこんなにあっただなんて想像だにしませんでした。

    パート7にも少し書いたのですが、昭和40年代の百人町の街の記憶をぼんやりもっています。大正時代までつつじ園があった2丁目(地番表示前は旧3丁目)はすでに平坦でしたが、むかしはもっと起伏のある地形だったと聞いたこともあります。
    また、3丁目(地番表示前は旧4丁目)は連兵場がなくなったあと、国有地(大学や公務員住宅)になったせいもあり、雑木林と野原の雰囲気がその時代までのこっていました。今にして思えば、いまはなくなってしまったこんもりした半円状の地形の崖、あれはひょっとしたら古墳の跡だったのかもしれません。そう思うとなつかしさもひとしおです。
    2006年03月24日 02:03
  • ChinchikoPapa

    はにぞうさん、こんにちは。コメントをありがとうございます。

    >終わってしまうのが残念です。

    神田川シリーズはまだつづきますし、いい加減なわたしのことですので、いつでも追加で素材が見つかりましたら、「ミステリーサークル拾遺」としてすぐに書きたいと思っています。「文化村拾遺」と同様、「本編よりも拾遺のほうがボリュームがあるじゃないか!」・・・と、顰蹙をかってもいますので。(笑) 知らん顔して(12)をアップしたりするかもしれません。(^^;
    場所が少し離れてしまうせいか、大久保界隈は精査できませんでしたけれど、非常にいい加減な取材でも、あれだけ古墳の痕跡が見つかるのですから、細かく調べますと数多くの痕跡が見つかりそうな気がします。
    シリーズには書きませんでしたが、小滝橋から角筈(北新宿)にかけても、「百八塚」があったという昔話があるようです。ただ、現在はなにも残っていませんし、発掘調査も行われないまま田畑あるいは宅地化されてしまったようです。やはり、シリーズはひと区切りしても、追跡してみる価値はありそうですね。
    やはり、神田川沿いにある点を考えますと、この流域全体を自分たちのテリトリーとして、どうやら高度な産鉄技術と鍛錬技術をもった巨大な集団(古代のクニのレベルかもしれません)が、居住していた可能性が高いと思います。
    2006年03月24日 19:01
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年07月07日 11:09

この記事へのトラックバック

石橋湛山は『主婦之友』の愛読者だった。
Excerpt:  鎌倉を歩いていると、そこかしこで下落合ではお馴染みの名前に行きあたることになる。村山籌子Click!や吉屋信子Click!もそうなのだが、石橋湛山もそのひとりだ。東洋経済新報社へ入社して10年め、..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-08-31 19:03

低空飛行の元・石橋湛山邸1923年。
Excerpt: 昭和に入ってから第二文化村Click!に建つ邸Click!と、「主婦之友」の家づくり記事を見ながら、1921年(大正10)に鎌倉雪ノ下へ自宅を新築した石橋湛山Click!については、ここで何度もご紹介..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-07-07 00:06

金川(カニ川)の流域を概観してみる。
Excerpt: 先日、目白不動Click!や幸神社(荒神社)Click!の北側を流れていた金川(弦巻川)について書いたので、旧・平川(現・神田川)をはさみ、南側を流れていた下戸塚の金川Click!(江戸後期から別名カ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-10-21 00:00