中村彝アトリエとエロシェンコ。

 東京国立近代美術館で、中村彝(つね)の『エロシェンコ氏の像』(1920年・大正9)が公開されている。洋画家の作品で、国が重要文化財に指定しているわずかな作品のひとつだ。鶴田吾郎がバラライカを抱えたエロシェンコを目白駅でスカウトClick!し、その後、新宿中村屋の相馬黒光(こっこう)が彼を連れて、中村彝のアトリエへ通うことになる。やはり下落合(現在の佐伯祐三アトリエの北側あたり)に住んでいた鶴田吾郎Click!は、当時まだアトリエを持たなかったので、彝のアトリエでいっしょに描くことにした。
 中村彝にしてみれば、願ってもないモデルだったのだろう。前年の夏、彝は茨城の海岸へ転地療養中に、アトリエを親友の中原悌二郎に貸していた。そのとき、中原は新宿中村屋に寄宿していた、やはりロシア人のニンツァーをモデルにして、傑作『若きカフカス人』(1919年・大正8)を仕上げていた。中村彝にしてみれば、自分もニンツァーをモデルに絵を描きたかったのだろう。療養中に、せっかくの創作チャンスを失ったという焦りが、どこかにあったのかもしれない。彼は鶴田吾郎に、いっしょに描かせてくれと懇願している。
 
 童話作家で詩人であり、エスペランティストでもあったワシリー・エロシェンコは、このときニンツァーと同様やはり新宿中村屋に寄宿していた。ウクライナ人であった彼は、ロシア革命のボルシェビキの容疑でインドから追放され、たまたま日本にやってきていた。当時、同じ下落合界隈に住んだ、神近市子などとも親交を結んでいる。鶴田吾郎にスカウトされた彼は、さっそく「ママさん」(相馬黒光)に相談し承諾を得ている。当初は鶴田吾郎に連れられ、途中からは彼のことを「エロさん」と呼んだ黒光に連れられて、エロシェンコは8日間ぶっつづけで中村彝のアトリエへ通うことになる。娘の俊子をめぐって、中村彝と相馬黒光との間でつづいていた確執は、このとき「和解」が成立したものだろうか。中村彝は10号、鶴田吾郎は25号のキャンバスに向かい、彝は体力がつづく限界まで描きつづけた。
 中村彝の『エロシェンコ氏の像』と、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』が描かれた、画室内での位置関係は明らかだ。エロシェンコは東側の壁に沿って座らせられ、彝は北側の採光窓の近くにイーゼルを据えているのがわかる。『エロシェンコ氏の像』の右上に、問題の窓枠Click!らしい影が見えているのが興味深い。鶴田吾郎は、逆に画室の南東にイーゼルを据え、逆光のエロシェンコを描いたことになる。
2805092.jpg
 
 東京国立近代美術館の許可を得て、中村彝や下落合にゆかりのある作品を撮影させていただいた。もちろん、中村彝のアトリエにちなんだ作品が多い。わたしの手元に、大正期に描かれた直後、額装された『エロシェンコ氏の像』の写真がある。それを見ると、現在も当時そのままの額装であることがわかった。ただ、当初の額がかなり痛んできたものか、現在では額を保護するもうひとまわり大きな外額がしつらえられている。
 中村彝は、腹が空くと手近にあったリンゴを丸かじりする、この盲目でワイルドなロシア人に魅了されてしまったようだ。そのとき鶴田吾郎は、彝が絵筆を握ったまま、そのまま死ぬんじゃないかと思った・・・と、のちに述懐している。それほど、精魂尽き果てるほどの創作だったようだ。そういう鶴田も、2日目になると描いた絵をすべて消して、描画ポイントを右斜め正面から逆光の南側へとイーゼルを移動し、初めから描き直している。ふたりが描いている間、エロシェンコに付き添ってきた相馬黒光は、アトリエで退屈しそうになるエロシェンコをなだめていたようだ。
 やがて、鶴田吾郎の絵は6日目に完成するが、中村彝は描くことをやめなかった。8日目にして、鶴田と相馬黒光がふたりがかりで引き止めて、ようやく絵筆とパレットを置かせた。その直後、高熱を出し喀血を繰り返して、彝は意識不明の重体となってしまう。岡崎キイは、彝が意識を取りもどしてからも寝室から外へ出さず、付きっきりで看病をつづけた。来客にも面会を許さず、アトリエの『エロシェンコ氏の像』だけ見せては引き取ってもらっていたという。このときの岡崎キイによるていねいな看病で、中村彝は再び絵筆を握れるようになるまで体力を回復できたのだ。
 
 第2回帝展へ出品された『エロシェンコ氏の像』は、『田中館博士の肖像』(1916年・大正5)以上の大きなセンセーションを巻き起こした。以降、中村彝は同時代の異才・岸田劉生と並び称されるようになる。同展を鑑賞した下落合の会津八一は、「中村君の何とかいふ露西亜人の肖像と安宅君の砂丘の小供とが心にのこり候、此二枚の絵はまるで種類も行き方もちがひ候へ共此位の程度の作品ならば総て面白く見物在るべく候」・・・と書き残している。
 だが、帝展の展覧会場に晴れがましく展示された『エロシェンコ氏の像』を、中村彝は、ただの一度も観ることができなかった

■写真上:東京国立近代美術館に展示される、中村彝『エロシェンコ氏の像』(1920年・大正9)。
■写真中上:『エロシェンコ氏の像』と、鶴田吾郎『盲目のエロシェンコ』(中村屋所蔵)。
■写真中下は、アトリエ北側の採光窓に近い中村彝の描画ポイント。写真右手の、箱が重ねられたあたり。は、アトリエ南側の廊下や居間(応接室)を背にした、鶴田吾郎の描画ポイント。
■写真下は、完成直後に額装された『エロシェンコ氏の像』。は現在の様子。

この記事へのコメント

  • かい

    80年以上も前に、壮絶なまでの創作活動が行われていたのですね。
    いま目の前に見える赤い屋根がその舞台だと思うと不思議な気持ちです。
    周囲の風景はすっかり変わっても、
    あの界隈の静けさだけは同じなのかも知れません。

    マーマレード、美味しそうです^^
    2006年03月17日 13:33
  • ChinchikoPapa

    かいさん、こんにちは。
    わたしも、外からアトリエを拝見してると、現在の“下落合の一風景”にすぎないのですが、アトリエ内や庭に立つと、奇妙な感覚にとらわれてしまいます。その場の“気配”とでもいうのでしょうか、80年以上も前、このアトリエに去来した人々の“想い”や“情熱”がこもっているような感じですね。
    先日も、木に登って夏みかんを収穫していて、ふっと地上をふり返ると、「どちらさま? そんなとこでなにしてるの?」と、怖い岡崎キイさんが着物姿で立っていそうな感覚に襲われました。(笑)
    2006年03月17日 14:36
  • ロックケーキ

    こんにちは。
    いつも楽しみに拝見しております。

    中村彜と鶴田吾郎の「エロシェンコ氏の肖像」が東京国立近代美術館で明日から3か月ほど並んで展示されるようです!
    最新のところに書いてよいものかわからず、関連がありそうなこちらに書かせていただきます。ご存知でしたらすみません、つい嬉しくてご報告に上がりました。私もこの機会を逃さず、近日中に鑑賞してきたいと思っています!

    下記は美術館のHPよりコピペさせてもらいました。

    2点の《エロシェンコ》競演!
     4F特集コーナー「新宿中村屋につどった人々―大正時代の芸術サロン」に、中村彝《エロシェンコ氏の肖像》(1920年、重文)と並んで、鶴田吾郎《盲目のエロシェンコ》(1920年、株式会社中村屋蔵)が展示されます。
     ふたりの画家が一緒に描いた2点の作品がともに並ぶ機会はめったにありません。そのほか、彝が愛した中村屋の長女、俊子をモデルにした《小女》(1914年、株式会社中村屋蔵)も特別出品されます。小規模ですが充実の展示、どうぞお見逃しなく!

    http://www.momat.go.jp
    2008年10月17日 16:07
  • ChinchikoPapa

    ロックケーキさん、コメントと情報をありがとうございます。
    わたしもウッカリしてまして、東京近美の展示は知りませんでした。ありがとうございました! さっそく、「アトリエ保存会」サイトのほうでも、最新情報として掲載したいと思います。実は、この日曜日に鈴木良三が見た中村彝とアトリエについて記事をアップしようと考えていた矢先ですので、ピッタリのタイミングでした。^^
    新宿中村屋の「盲目のエロシェンコ」と「小女(少女)」は、ときどき目にしているのですが、もちろん店内に架かっているのはレプリカですね。ホンモノは、どこか銀行の金庫にでも預けられてるのかもしれませんが、実物を観るのは初めてです。わたしも、ぜひ期間中に観にいきたいと思います。
    ありがとうございました。重ねてお礼申し上げます。
    2008年10月17日 18:01
  • ロックケーキ

    行って参りました、東京近美。
    2作品を目の前にし、chinchikoさんのご紹介で知ったいろいろな経緯を思い出し。また中村と鶴田の情熱の余韻を感じ、なんだかとても圧倒されました。
    小規模でしたがとてもよい企画展でした!

    一つ残念だったのは、展示を紹介する小さなプレートで、相馬黒光と中村の生没年が間違って紹介されているものをそれぞれ一枚ずつ発見したことです。
    二人の没年がそろって1970年代だったんですよ~(^_^;)

    係の方に申し上げたんですが、訂正してくださったかなあ。。。
    それとも何か別の意味があったのかしら???
    2008年10月21日 15:37
  • ロックケーキ

    度々スミマセン!

    某SNSで日記を書いているんですが、そちらで中村彜のことを紹介し始めました。
    chinchikoさんのブログから知ったことが多く、かなり参考にさせて頂いているので、こちらのことをご紹介させて頂いてもよろしいでしょうか?

    chinchikoさんにもお時間のある折にでも是非のぞきにきて頂きたいんですが、m〇x〇は加入されてませんよね、、、?
    2008年10月21日 18:54
  • ChinchikoPapa

    ロックケーキさん、コメントをありがとうございます。
    さっそく東京近美のレポートを、ありがとうございました。中村彝が1970年(昭和45)まで生きていたら、ひょっとすると「エロシェンコ氏の像」が代表作にはならなかったかもしれませんね。w 印象派的な表現もとうにやめてしまい、曾宮一念ともども抽象に走ってたりして。(爆!) 相馬黒光も、1970年までは生きてはいなかったと思いますが・・・。^^;
    某SNSでのご紹介、拙ブログでよろしければどうぞご自由にされてください。m○x○は、少し前まで登録してまして、このブログへスルーにRSSを設定していたのですが、ある日、許可してもいない広告が記事タイトルに並んで付くようになって(といいますか、m○xyは広告を拒否できないんでしたっけ?)、すぐにやめてしまいました。はい、のぞきにうかがうだけなら・・・。^^
    2008年10月21日 20:17
  • ロックケーキ

    ありがとうございます。
    m〇〇yはメンバーじゃないと見れないのが難点ですね、、、
    もしまた気が向いて復活なさったら遊びに来てください。
    私はあちらでも同じハンドルネームですのですぐわかると思います♪
    2008年10月21日 22:42
  • ChinchikoPapa

    ロックケーキさん、重ねてありがとうございます。
    ○xsyへ出かける機会がありましたら、ぜひロックケーキさんのサイトを拝見させていただきますね。楽しみにしています。^^♪
    2008年10月21日 23:23
  • Nylaicanai

    ご無沙汰です。
    本日、国立新美術館で開催中の「陰影礼賛」に行ってきました。
    その中に、「エロシェンコ氏の像」が飾ってあったんですよ。
    初めての生!
    まさか展示されているとは思わず、ビックリです。
    2010年10月11日 18:08
  • ChinchikoPapa

    Nylaicanaiさん、コメントをありがとうございます。
    こちらこそ、ご無沙汰しました。国立新美術館へ行かれたのですね。やっぱり、画像とホンモノとではぜんぜん印象がちがいますよね。
    わたしは、王子の飛鳥山にある紙の博物館へ出かけてきました。こちらでは中村彝をはじめ、佐伯祐三、大久保作次郎など、下落合ではおなじみの画家たちの展覧会が開かれてます。めずらしい作品もありましたので、わたしもビックリしました。^^
    2010年10月11日 18:16
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2011年06月14日 22:40
  • ChinchikoPapa

    以前の記事にまで、ごていねいにnice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年08月01日 11:14

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