佐伯祐三お気に入りの「八島さん」ち。

 

 佐伯祐三が残した「制作メモ」の中に、頻繁に登場するお宅がある。「八島さん」の家だ。つまり、佐伯は「八島さん」ちが見える場所から、何度も『下落合風景』を描いていることになる。よほど「八島さん」の前の通りが気に入ったものか、9月28日「八島さんの前通り」、10月21日 「八島さんの前」と頻繁に描いている。さて、八島さんのお宅は下落合のどこにあったのか?

 これは、すぐに見つかった。なんのことはない、佐伯祐三の自宅兼アトリエがあった、酒井億尋の地所の2軒隣りだったのだ。「八島さんの前通り」とは、八島邸が面していた第三文化村の東端の通りのことだ。アトリエから、直線距離でわずか20~30mしか離れていない。9月28日に描く場所を「八島さん前通り」にしたのは、前日までおそらく妙正寺川沿いをたどるように、ずっとスケッチ散歩へ通っていたから、よほど疲れてしまったのだろう。同じことが、10月21日の「八島さん前」にも言える。おそらく数日間、第二文化村周辺の坂道を歩きつづけていた彼は、かなり疲れていたのだろう。数日休んだあと、「ちょっと小休止」とばかり「八島さん前」の通りへと回帰している。
 さて、この「八島さん」の前通りは、「制作メモ」から想定すると少なくとも3枚描かれていることになる。9月28日の1作品、10月21の1作品、そして同日の「タテの画」の1作品だ。同じ通りを3枚描き、しかもそのうちの1枚がキャンバスをタテに使って描かれている・・・ということになる。もう、おわかりだと思う。佐伯祐三の『下落合風景』で、明らかに同じ場所を描きながら場所の特定ができなかった作品が3点Click!あった。しかも、そのうちの1点はキャンバスをタテにして描かれていた。
 
 八島邸の前の通りを、佐伯の作品が描かれた5年後の空中写真(陸軍航空隊撮影)と見比べてみると、大きくさま変わりしているのがわかる。これでは、いくら上空から探しても見つからないわけだ。3点の作品の中で、正面右にある赤い屋根の家が「八島さん」だが、左側が空地のようになっている。ここは、箱根土地が分譲を終えたばかりの第三文化村東端の敷地だ。大正12~13年に整地され、すぐに完売しているので持ち主は決まっていたが、まだ建物は建てられていない。また、絵の左側には建築資材置き場か、あるいは古屋だかが解体されずに残っているのがわかる。
 奥へ行くにつれ、右へとカーブする道の正面に見えている家の、左手が内藤邸で右手が石甕邸とみられる。また、左手の奥に見えている赤い屋根にこげ茶の壁の規格化された家は、第一府営住宅の家並みだ。3点のうち、1点は省略されているのか描かれていない。さらに、3作品とも手前に、右へと折れる(下る)道が描かれている。帽子をかぶり、犬を連れて散歩する人物が曲がっていく小路だが、これは不動谷へと下りる坂道。佐伯が描いた当時、聖母病院はまだ建設されていなかったので、ところどころに湧水のある雑木林が大きく拡がっていた。犬を散歩させるには、もってこいの場所だったろう。この通りを、背を見せて歩いている大勢の人々が描かれているが、この人たちはみんな目白通りへ向けて歩いているのだ。
 
 さて、3作品のうち、赤い屋根の「八島さん」宅の壁がこげ茶に描かれているものと、たまご色かベージュに塗られているものとがある。絵の調子に合わせ、壁の色を変えてしまうことなど佐伯はなんとも思わなかったのかもしれないが、ひとつ引っかかって気になるところだ。大正15年の9月から10月にかけ、「八島さん」が壁を塗り替えた・・・とも思えない。仕上げられた時間帯のせいもあるのだろうか? 絵から判断すると、10月21日は午前中からどんよりとした曇り空だったが、佐伯がキャンパスをタテ位置にして描きはじめた午後には、雲の切れ間から薄日が差してきたように思える。もっとも、佐伯がそこまで忠実に描いていれば・・・の話だけれど。
 では、判明した『下落合風景』の描画場所を、⑭⑮⑯として空中写真に記載Click!してみよう。

■写真上は『下落合風景』(「八島さん前/タテの画」・1926年10月21日)、は現在の「八島さんの前通り」。下落合駅ができるとともに、朝の人の流れは変わったが、いまでも昼間は目白通りへと抜ける人通りが多い。左側が、目白文化村(第三文化村)の東端。手前を右折すると、不動谷から聖母病院へと抜ける。
■写真下
は、1936年(昭和11)の空中写真。佐伯が「八島さんの前通り」を描いてから10年後だが、絵では空地だった第三文化村の敷地に、西洋館が次々と建ち並んでいるのがわかる。は、1947年(昭和22)の同じ通り。ほとんどすべてが空襲で焼かれているが、屋敷森に囲まれた佐伯祐三の自宅兼アトリエだけが、奇跡のように焼け残っている。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    ものたがひさん、いつも情報をありがとうございます。佐伯の絵を観にいきたいな・・・、だけど明日は用事があるし・・・。(^^;
    実は、きのうからホルスタインにこだわってまして、資料を漁っていました。落合第二出張所のコミュニティ「おちあいあれこれ」に、牧場の記述を見つけました。下落合内には牧場の記述はありませんでしたが、明治から大正期にかけて葛ヶ谷(西落合)に「斉藤牧場」、千川の「籾山牧場」、椎名町の「安達牧場」、上高田の「犬井牧場」、ほか上落合や江古田など、かなりの数の牧場が展開していたようですね。
    関東大震災で牛乳の出荷が停止した1923年(大正15)、そのまま牛乳を棄ててしまうのはもったいないので、荷車に積んで下町救援に運んでいたそうです。
    2006年04月22日 19:10
  • ChinchikoPapa

    被災地の両国へ、荷車に牛乳を載せて配給しに出かけたようですけれど、残念ながら牛の種類までは書いてませんでした。長距離をスピーディに、荷物を載せて運搬するときは、牛ではなく馬だったのかもしれませんが・・・。
    2006年04月23日 00:04
  • ChinchikoPapa

    なるほど、佐伯家のトナリには牛舎があったのですね。ということは、「○○○の前」という不明な文字は、実は「モー君の前」と書いてあって、結局これも牛舎の前にあった八島邸だったりして。(笑) 楽しいなぁ、モー。
    fig.Aの道のまん中にいる、自転車に乗った人物は洗濯屋か新聞配達かな?・・・と想像していたのですが、実はカチャカチャ瓶を鳴らして走る牛乳配達だったんですね。(^^
    あと、不動谷へと下りていく犬を連れた男は、下落合じゅうを歩き回る「散歩男」で、例の金久保沢に現れた男と同一なのです。「おや、佐伯先生、やってるね。だけど、あんた、ここばっかし描いてないかい?」と言いながら、通りすぎていったのでした。(笑)
    佐伯祐三は、大工仕事にもずいぶん興味を示したようですので、建築現場を通りかかると、またしてもアトリエの増築意欲がムクムクと起きていたのでしょう。
    「ミルク色の残像」も、豊島区郷土資料館で手に入れたいと思います。(^^
    2006年05月04日 18:59
  • ChinchikoPapa

    あっ、つい牛に気を取られて、乳製品工場を乳牛舎にしてしまいました。(爆!)
    牛舎とは、例の「曇天」か「洗濯物のある風景」か・・・の絵ですよね。あの絵には、ひょっとして冬バージョンがあるのでは・・・ということで、いま他の絵とともに検証中です。ちょっと6月まで、下落合がらみの仕事で休日は忙しく、もう少しお時間をください。
    2006年05月04日 23:15
  • ChinchikoPapa

    このところ週末に、目白崖線を登ったり降りたりを繰り返してまして、ちょっと腰が痛いわたしです。(^^;
    その理由は、後日にこちらで発表します。
    2006年05月05日 18:22
  • ChinchikoPapa

    あちこち多くのnice!をありがとうございました。>sigさん
    2009年02月07日 14:50
  • ChinchikoPapa

    そのほか、たくさんのnice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年06月30日 11:49

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「門」の屋根はやっぱり赤かった。
Excerpt:  先日、『佐伯祐三全画集』(朝日新聞社)を観たとき、 「門」Click!がモノクロではなくカラーで掲載されていたのがうれしかった。練馬区立美術館の佐伯展では、モノクロの質の悪い写真でしか展示されてい..
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Tracked: 2006-05-02 00:20

佐伯の諏訪谷は急速に宅地化された。
Excerpt: 「セメントの塀」Click!ほどではないけれど、この『下落合風景』もなんとなく既視感がある。手前に、2階屋の屋根上ほどの崖線があり、佐伯祐三はその上から谷間を見下ろして描いている。正面にも、同じぐらい..
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Tracked: 2006-05-06 00:05

これでもか、「八島さん」ちの前通り。
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Tracked: 2006-05-31 00:42

散策マップへちょっとイタズラ。
Excerpt: ようやく、「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」マップが入稿できそうだ。わたしのいい加減なチェックから、三春さんClick!には校正でずいぶんご迷惑をおかけしてしまった。(汗) 刷了は、写真展のギリギ..
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Tracked: 2006-06-02 00:09

写真で見る箱根土地本社。
Excerpt:  箱根土地本社の建物は、松下春雄が1925年(大正14)に描いた『下落合文化村入口』でしか、その様子をうかがい知ることができなかった。松下春雄(1903~1933)は、葛ヶ谷(西落合)にアトリエを建..
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Tracked: 2006-06-06 16:06

二ノ坂付近での佐伯の足取り。
Excerpt:    中井駅北側(旧・下落合4丁目)にある二ノ坂付近での、佐伯祐三の足取りが見えてきた。この『下落合風景』に描かれた光景も、わたしはいつかどこかでデジャビュなのだ。以前、諏訪谷Click!..
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Tracked: 2006-06-07 00:24

尾根道を西へとたどる佐伯祐三。
Excerpt:  この道筋は、「たぶんあそこだろう」とあらかじめ見当はついても、佐伯が描いた当時は盛んに開発が行われていたろうし、おそらく1936年(昭和11)の空中写真ではかなり変貌していると思われるので、ずいぶ..
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Tracked: 2006-11-10 00:29

あのな~、わし「サエキくん」ゆうねんで。
Excerpt:  わたしのブログを読んでくださる方から、『下落合風景』Click!を描く佐伯祐三人形をいただいた。右手でバーミリオンが付いた絵筆を振りあげているので、きっと八島さんちClick!の屋根でも塗っている..
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Tracked: 2006-12-09 00:11

城北学園(目白学園)近くの夕暮れ。
Excerpt:  佐伯祐三の『下落合風景』は、朝日晃氏によれば60点余が存在した作品として確認でき、戦災で焼けてしまった作品、あるいは個人に秘蔵されて表に出ない作品、さらには佐伯作品と気づかれずに死蔵されている作品..
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Tracked: 2007-01-12 00:00

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Excerpt: この『下落合風景』は、明らかに目白文化村の内部を描いている。道の左側の縁石沿いには共同溝が描かれ、電柱がこの道沿いに1本も存在しない。正面に見えている、電柱が林立している家々は、すでに目白文化村ではな..
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Tracked: 2007-01-24 00:00

人間交差点『聖母病院の友人たち』。
Excerpt:  わたしの家族は、わたしひとりを除き全員が聖母病院への入院経験がある。オスガキたちが産まれたのも聖母病院なら、肺炎やインフルエンザ、喘息などで入院したのもこの病院だ。だから、わたしはなにかというとセ..
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たまには「とん狂な失言」を。
Excerpt:  山本周五郎ではないけれど、おそらくきょうの記事は「とん狂な失言」となるのだろう。下落合界隈の、あまりの急激な変わりように、わたしの記事も取材も追っつかない。(御城)下町Click!の記事が書きたい..
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Tracked: 2007-03-27 10:29

佐伯の「制作メモ」と描画位置を整理する。
Excerpt:  佐伯祐三の「下落合風景」シリーズとその周辺を描いた作品は、現時点でモノクロの画像も含めて、全部で42点(会場写真に写る新発見の作品や、「踏切」と「絵馬堂」を含めると47点)ほどが確認できる。この点..
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再現・益満邸テニスコート前の佐伯祐三。
Excerpt:  前日、雨模様の中を美術学校の恩師である森田亀之助邸Click!の南隣り、下落合630番地に引っ越してきて住んでいる里見勝蔵を訪ね、ついでに20号の「森たさんのトナリ」Click!を仕上げた佐伯祐三..
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Excerpt:  佐伯祐三の贋作は、この世に掃いて捨てるほどあるのだそうだ。たとえばそれに近い例として、幕末の刀工・源清麿の、「作品を見たら贋作と思え!」という“お約束”に等しく、佐伯作品を見たら贋作を疑え・・・と..
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Excerpt:  西坂上の徳川邸にあった、ボタンで有名だった東京名所の「静観園」Click!については、このサイトでも何度か取り上げている。同じ西坂の道路筋、「八島さんの前通り」Click!沿いの第三文化村Clic..
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まだ飽きへんし「八島さんの前通り」。
Excerpt:  わたしの手元にあった資料の中に、すっかり埋もれて気づかずにいた佐伯祐三Click!の『下落合風景』が見つかった。新たに見つかった作品は、しつこいほどに「八島さんの前通り」Click!だ。もう、ほん..
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『下落合風景画集』Ver.2ができた。
Excerpt:  昨年の6月に制作した『下落合風景画集』Click!につづき、その後新たに見つかった作品を加えた、佐伯祐三『下落合風景』の全画集・第2版ができあがってきた。旧版よりも4ページ増やし、全44ページ仕様..
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Tracked: 2007-12-31 00:00

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Excerpt: 高良とみ(和田とみ)というと、戦後に旧・ソ連や中国など共産圏諸国との友好交流や国交回復に大きな役割りを果たしたからか、肩書きが外交畑の政治家および婦人運動家となることが多いけれど、生涯全体を見わたして..
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Tracked: 2008-12-08 00:01

下落合を描いた画家たち・笠原吉太郎。
Excerpt: 笠原吉太郎(1874~1954年)も、昭和初期の下落合をあちこち描いているが、知名度の点から個人蔵が多く、目にする機会がきわめて少ない。しかも、この画家は親しくした画家たちに影響されやすいのか、時代に..
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古い本棚をのぞいていると。
Excerpt: 最近、古い本棚を整理しているのだが、大正期から昭和期の面白い本や資料がいろいろ見つかる。みんな、親父が読んだり集めていた蔵書や資料なのだが、地図類もたくさん保管されている。その中に、1950年(昭和2..
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絶滅危惧種のウグイスとトンビ。
Excerpt: 子供のころ、縁日かなにかで「おみくじウグイス」というのを見たことがある。少し横長の大きな鳥かごに入れられ、よく飼いならされたウグイスが、おじさんの指示を受けるとかわいい鳥居の鈴を鳴らし、奧にある小さな..
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Excerpt: 2008年1月のバージョン3を編集して以来、すっかり改訂をさぼっていた『下落合風景画集-下落合を歩く佐伯祐三-』Click!の最新版=バージョン4ができた。基本的に朝日新聞社の佐伯作品画像を使わせてい..
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Excerpt: 池袋に住み洋画家をめざしていた佐藤英男(早大建築科在学当時)は、1926年(大正15)の初冬、姉の佐藤松子に付き添われて佐伯祐三Click!のアトリエを訪問している。佐伯の連れ合いである米子の姉、池田..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2017-01-16 12:30