「強い父親」と「父親不在」というテーマは違う。

 いかにも家父長然とした父親、つまり「強い父親」のいる家に、わたしは“強い違和感”をおぼえる。東京っぽくないのだ。いや、より厳密にいうと東京の(御城)下町Click!っぽくない。わたしの“父親”のイメージというのは、千葉周作の北辰一刀流「玄武館」へと通う町人ながら剣術つかいであり、明治ののちは代言人(弁護士)となったが、母や妻、娘の前では「まあまあ、ほほほ」と愛想(あいそ)笑いのひとつもする、通油町は長谷川時雨Click!の親父さんのようなイメージだろうか? 武家言葉よりも町言葉のほうが板についていた、勝家(海舟)のイメージ・・・としてもいいだろう。
 中国あるいは朝鮮半島からもたらされた外国(儒教)思想や“嗜好”が好んで受け入れられたのは、江戸の武家社会(それもすべてではない)であって、大多数の町人が住む界隈では、ついに生活の本質に根づくことはなかった。だから、各町内ごとに政(まつりごと)や生活(たつき)相談の巫女が別々に存在するほど、東京の町場は最近まで「父権社会」ではなく、ポリネシア(古モンゴロイド)っぽい習慣を残した「母権社会」、つまり本来の日本らしい姿を色濃くとどめていたのだろう。このあたり、沖縄の社会にどこか似ている。いまでも町内巫女の系譜は「占い師」へと姿を変え、東京じゅうでしぶとく生き残ってたりするのだけれど・・・。
 「強い父親」が存在しない町内では、町会長や社長に便宜上「男」をすえたとしても、意思決定権や実施権は女性が握っている場合が多い。わが東日本橋(日本橋両国)はすずらん通り界隈Click!の場合、その傾向が顕著だった。町会長は男(立花屋二代目さん)だったにもかかわらず、いざもめごとが起きたときに実際の政(まつりごと)のヘゲモニーを握るのは、すべて“粋なおかみさん”といわれた女親分だったようだ。町会長はにっちもさっちもいかなくなると、“おかみさん”のところへ手土産を持って、仕切りの相談をしに出かけていく。
 その町会長の息子である小林信彦の文章に、こんな箇所がある。「目白近辺」らしい山手の友人宅を訪ねた折のこと、「強い父親」の存在に大きな違和感と“あこがれ”を抱いた場面だ。
  
 (略)私が読みすすんだのは、これが<強い父親のいる山の手の家庭>を描いているからであった。
 <強い父親>という存在は、私にとっては、あこがれに近いものであった。中学時代に大塚仲町や目白近辺の友人の家に遊びにゆくと、その家に入るまえに、
 「きょうは、親父が家にいるから、大きな声で笑わないでくれ」
 と釘を刺されたりした。 (略) いかに家の中だけとはいえ、そのようにコワいというのが私の理解を超えていた。
 「きみは、そんなに親父さんがこわいのか?」
 と私がきくと、
 「そりゃこわいさ」
 と相手は、当たり前のことをきくなという風に苦笑した。(小林信彦『昭和の東京、平成の東京』より)
  
 元士族の軍人や官吏が多く住む山手には、東京の町中とはまったく異なる父親が生息していた。小林信彦が「あこがれ」たのは、「強い父親」ばかりでなく山手の風情や、そこに暮らす人々がとても新鮮に感じたからに違いない。ちょうど、下町にあこがれた山手人の永井荷風とは180度逆のケースだ。でも、著者が感じた違和感は、わたしの世代で感じるものとは多少異なるのかもしれない。小林信彦の感覚は、わたしの親父世代のものであり、戦後、大きくさま変わりしてしまった下町をベースにした感覚では、いまだなかったわけだから。

 違和感といえば、夏目漱石という人はよくわからない。下町方言を自在にあやつる山手人の漱石は、家父長然とした生活規範の中で暮らしていたようで、東京の町場から見ると、存在自体が「言行不一致」の矛盾のかたまりのように映ってしまう。生活スタイルと、東京の文化風俗(おもに言語)がまったく一致しない早稲田の奇妙な人物なのだ。
 東京の下町方言は、音韻が美しくたいへんていねいだ。・・・とこう書くと、ウソツケと言われそうだが、漫才師のしゃべる度ぎつくて下卑た言葉を「大阪弁」だと思われている、生っ粋の大阪人の口惜しさを書けば、「ああ、なるほどそうか」とある程度想像していただけるだろうか? 乱暴な職人言葉を、極端に“定向進化”させた、おもに時代劇によってデッチ上げられた「てやんでい」「べらんめい」が、下町方言だと思われている方が多いのに驚く。ときに、無骨な山手方言よりも下町方言のほうが、はるかに優しく繊細で、ていねいなことがある。そりゃそうだ、江戸東京じゅうの顧客を相手に発達した、洗練された商人言葉が本質なのだから・・・。
 繊細でていねいな下町方言をあやつる方は、最近とみに少なくなったけれど、本来の生活スタイルはそれほど変わっていない。わたしの家系には、女性が昔から多いけれど、「まあまあ、ほほほ」とついあたりかまわず愛想をふりまくクセは、もう遺伝子レベルだから終生抜けはしない。男が弱いのではなく、相対するナニ(下町方言です)が強すぎるのだ。
 そう、もうひとつ町場の男には、「髪結いの亭主」という“あこがれ”もあった。ヘゲモニーを女性に一任し、好きなことをしていたほうが、とてもラクだし世の中が平和なのだ。いざというときにだけ(たとえば地名を役人が勝手に変更するとか/笑)、怒ってすごんで出て行けばいい。ちなみに、「強い父親」と「父親不在」とは、まったく異なるテーマだ。このあたり、深川の小津安二郎のいう「(戦時中は)つまらない奴が威張っていた時代」という言葉と、いくらか重なってくるような気がする。

■写真日本橋川と日本橋Click!。神田っ子は、江戸東京の中心は千代田の神田だと思って威張っているが、日本橋っ子は、日本国の中心(セカチューだという“中華思想”の方もいる)だと考えている。それほどプライドの高い土地柄の上に、“こんなもん”を造ってしまったのがそもそも間違いの始まりだ。情報公開もなく、地元への断りなしに役人が机上で秘密裏にモノゴトを進められた時代・・・。曽祖父から親父の世代まで4つに増えた運動と夢のうち、3つまでが実現しているので、残るはこのひとつ。わたしの世代では、さらに新たな2つが追加されているのだが・・・。とうとう首相の口から、“こんなもん”はそろそろなんとかしようと言わせるまでになった。これついては、また機会があったら改めて書いてみたい。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    いつもリンク先まで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年01月04日 13:23

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