70年前、大雪の下落合。

 昨年の2月、東日本橋のわが家における二二六事件の朝の情景Click!をブログへ書いたが、では下落合ではどうだったのか? ひとつ特徴的なのは、事件が伝わるリードタイムが東日本橋と下落合とではまったく異なっていたのではないか・・・という点だ。その前提には、もうひとつ「ラヂオ」のニュースという課題もある。
 昨年のブログ記事では、事件の朝、ラジオからニュースが流れていたと書いた。だが、これは親父の記憶違いの可能性が高まった。当日のラジオ放送は、午前中から“沈黙”しており、放送が再開されたのは夜に入ってから(午後8時すぎ)というのが定説だ。それとも、広島で被爆直後に幻のラジオ放送が流れていたというケースと同様、世の中の定説にはないが、早朝からなんらかの放送をしていたものか・・・? 親父の母、つまり祖母が当日、事件を知って「東京が戦争で火の海になっちまう」と感じたのは、ラジオのニュースを聞いたからでは、どうやらなさそうなのだ。このあたり、ニュースが流れていたという親父の記憶と相まって、判然としない。新聞の号外は、昼をすぎてからようやく配布され始める。
 では、情報源がラジオや号外でないとすると、なぜ祖母は事件のあらましを知っていたのか? おそらく、うちにあった業務用の電話を通じてではないかと思われる。麻布や赤坂、六本木、溜池といったあたりに住んでいた親戚や知人から、早朝に電話が次々と入ったのではないか? だから、午前9時前に“異変”を知ることができ、しかも軍隊が出動してなにやら危険な状況にあることを、電話の内容から察知していたものと思われる。
 では、下落合界隈では、事件はどのような伝わり方をしたのだろうか? 下落合の直接資料ではないけれど、上落合にお住まいの方の二二六事件当日の記録が残っている。
  
 まことに静かな朝であった。国電(当時は省線と呼んでいた)も西武線も動いていなかった。ラジオも朝から放送をしなかった。新聞も来ない朝であった。「こんな大雪が降ったから・・・」と思っていたところ、その日の午後早稲田にある米問屋の従業員の人が「今朝早く軍隊が出動して、首相や大臣を殺ろ(ママ)したらしい」と話をしていった。新聞もないしラジオも放送しないので、この話を半信半疑で聞いたのである。夜の八時頃はじめてラジオがニュースを放送した。そして軍隊が出動して大事件があったことを知ったのである。(『昔ばなし』上落合郷土史研究会・1983年)
  
 これを見ると、当日の午後にようやく牛込区から淀橋区あたりへ、ウワサが伝わってきたのがわかる。ただ、これとても筆者がわざわざ大雪の中、早稲田の米問屋へ出かけたから聞けた風聞であり、家の中ですごしていた人たちはいったいなにが起きたのかわからず、風聞さえ伝わってはこなかったのではないだろうか。もちろん、下落合1147番地に住んでいた政治家の佐々木久二などは、かなり早くから正確な情報をつかんでいたろうが・・・。

 この日本橋区と下落合界隈の差は、どこからきたのだろう。ウワサの伝播のしかたが日本橋で早かったのは、東京じゅうに取引先がある商人の町だからであり、電話網を通じてかなり正確な情報が刻々と伝わり、それが町全体へとまたたくまに拡がったからではないか。下落合近辺で、いち早く情報を仕入れていたのが、「早稲田の米問屋」というのも示唆的だ。目白通りの商店街でも、比較的早くから事件を知っていた商店があったかもしれない。
 1936年(昭和11)当時、大邸宅ならまだしも、なかなか一般家庭には電話が普及しておらず、日々ふつうに電話を使いこなしていたのは、なんらかの商売をしていた自営業だった。もちろん、企業のオフィスには電話が数多くあったろうが、前日深夜からの大雪で電車が不通となっており、出勤できた社員はごく一部であったと思われる。こうして、おもに自営業の電話を通じて、二二六事件の風聞は東京じゅうに拡がっていったのではないか。
 
 生前、親父が行きたがらなかったエリアのひとつに、渋谷とNHK周辺がある。元陸軍衛戌刑務所の跡地であり、二二六事件の関係者が非公開・弁護士なしの軍法会議(暗黒裁判)のさなか収容されていた場所だ。そして、刑務所に隣接した処刑場で、被告たちは千代田城の方角に跪かされ、次々と額を撃ち抜かれて銃殺された。処刑当日、代々木練兵場では軽機関銃による演習が行われ、陸軍衛戌刑務所上空には陸軍航空隊の戦闘機が舞っていた。長時間つづくことになる、処刑の銃声を消すためだ。でも、渋谷周辺に住んでいた人々は、空砲と実包の銃声の違いを明確に聞き分けている。
 決起した青年将校や北一輝の思想へ、特に共感をおぼえていたとはぜんぜん思えない親父だが、政治の腐敗と農村の疲弊、貧富の落差が極端に広がる日本の将来を憂えた彼らの「革命」へ、ほんの一抹の同情を寄せていたのかもしれない。学生時代の軍事教練のイヤな想い出もあるのだろうが、血と硝煙の記憶が残る渋谷には、あまり足を向けたがらなかった。
 下落合の佐々木邸へ、かろうじて難を逃れた岡田啓介首相Click!が逃げてくるのは、翌27日の夕方以降のことだった。

■写真上:雪の駿河台。聖橋からニコライ堂を望む。70年前に、親父が“円タク”の車窓から見た東京も、このような風情だったのだろう。
■写真中:1936年(昭和11)2月27日、事件の詳細を伝える朝日新聞。有楽町にあった東京朝日新聞社も襲撃されたが、印刷所の活字をひっくり返されたのにもかかわらず、翌日には発行していた。
■写真下は、NHKの敷地に隣接して建つ二・二六事件慰霊像。加害者である処刑者とともに、被害者である政治家や警察官たちもいっしょに奉られている。いまでも、NHKでは同事件の幽霊話が絶えない。は、2月29日に上げられた「軍旗に手向ふな」のアドバルーン。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年08月16日 11:14

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