下落合はミステリーサークルだらけ。(9)

 下戸塚(西早稲田~高田馬場)から下落合、上落合には、明らかに古墳と見られる塚が残り、また焼け跡の空中写真では“ミステリーサークル”が多数発見できるエリアだけれど、昌蓮の「百八塚」伝承Click!は比較的薄い。「百八塚」の言い伝えは旧・下戸塚町、いまの早稲田界隈でわずかに残る程度だ。ところが、神田川の小滝橋から北新宿(柏木)、大久保あたりにかけては、はっきりと「百八塚」と称する塚の伝承が色濃く残っている。
 この伝承の差は、どこから生じたのかを考えると、地元の農民による開墾の進捗と深く関わるのではないかと思う。上記のエリアの中で、もっとも早くから農地として開墾されていたのは、江戸時代の初期から天領(幕府直轄地)に指定されていた、上落合~下落合界隈だと思われる。おそらく、古代から広範囲にわたって、なんらかの畑作地帯と化していたようだ。つづいて、江戸時代に古墳の墳丘を崩して開拓事業が進んだ、下戸塚(早稲田界隈)のエリアがある。もちろん、大久保や柏木界隈も江戸期に入ると開墾は進むけれど、まだまだ武蔵野原生林そのままの土地が多かった。
 
 国木田独歩の『武蔵野』に惹かれて、わざわざ大久保界隈に引っ越してきた画家・三宅克己は、周辺の景色をスケッチに描きとめている。それを見ると、畑地というよりもいまだ武蔵野の雑木林の風景が多く、それらの原野は農地化される前に、品川赤羽鉄道(山手線)や道路網などの整備により宅地化が進んだのではないかと思われる。幕府の鉄砲隊である組屋敷が軒を連ね、彼らが栽培していた広大なツツジ園があったことも、塚を崩して平坦な農地にする開墾事業を遅らせた原因かもしれない。旧・尾張藩下屋敷だった戸山ヶ原Click!にも、同じことが言えそうだ。大久保から柏木にかけて、本格的な開墾が行われるのは明治維新以降のことだ。
 つまり、古墳とみられる塚がそのままのかたちで明治以降まで残り、同時に「百八塚」伝承も途切れず、後世まで継承しつづけたのではないか・・・と考えられるのだ。大久保駅から神田川沿いにかけて、明らかに「百八塚」の伝承が残る円墳状の塚に、「金塚」「真王稲荷塚」「百人町塚」(仮称/名前は伝承されていない)の3つがある。

 まず、岡本綺堂の旧宅近く、百人町の住宅街のまんまん中に「百人町塚」(仮)が存在した。ちょうど、鉄砲組の御家人(百人組同心)たちが造園していた、ツツジ園の西端に近い位置だ。幕末から明治初期あたりに崩されているようだが、固有の名称は付いておらず単に「百八塚」と呼ばれていたらしい。「百八塚」は、早稲田から北新宿あたりにかけ、神田川沿いに展開したおそらくは古墳(多くは円墳)の一般名称だから、この塚は固有名が忘れられたことになる。現在は平坦な住宅地であり、大きな塚があった痕跡はまったく残っていない。
 それに比べ、「金塚」の痕跡ははっきりと残っている。1887年(明治20)前後に崩された「金塚」の頂上には、江戸期(1752年・宝暦2)に建立された地蔵尊が奉られていた。旧・大杉栄宅Click!のすぐ近くだ。現在の小滝橋通りの造成のため墳丘が崩されると同時に、金塚地蔵は現在の北新宿1丁目交差点に移されている。いまでは、子育ての地蔵と呼ばれているが、江戸時代には金塚地蔵へ祈願するとタバコ嫌いになると伝えられていた。現代にはピッタリな嫌煙地蔵だが、わたしはお参りしないでおこう。(汗) なぜ「金塚」という名称になったのかは不明だが、江戸期に付近を開墾した際、タタラ場跡でも見つかり金屎(かなくそ/鋼の精製滓)でも出土したのではないだろうか? 「金塚」の周囲に置かれていた石仏・石碑なども、金塚地蔵と同じ堂内へ納められている。

 「真王稲荷塚」も、百人組同心たちが栽培していたツツジ園の西端にあった。この塚は明治初期に崩され、そのまま真王稲荷も廃社となってしまった。この塚も、当時の道路工事にひっかかったのではないかと思われる。塚の頂上には、もともとなんらかの石碑が建立されていて、それが真王稲荷のご神体だったようだ。でも、残念ながら石碑は現存しておらず、どのようなものだったかはまったく不明だ。直近にある「金塚」という名称を踏まえると、真王稲荷の由来はかなり古く、鋳成神=鍛冶神と結びついていたのではなかろうか?
 先の画家・三宅克己は、1906年(明治39)に新宿駅前から大久保へと引っ越してきた。すでに開墾事業や道路工事が進み、上記3つの墳丘は崩されてしまったあとだったが、当時の情景を次のように書き残している。
  
 新築して移転したその家は、旧豊多摩郡役所裏で、前後広い麦畑で取り囲まれ、玄関前の蜀江坂下の往来には、ケヤキの並木があり、もう夕方などほとんど人影も絶えて、若い女中一人では柏木、淀橋通りに買物に行くのでさへ、寂し過ぎた程であった。(『思い出づるままに』三宅克己より)
  
 
 明治末でさえ、周辺がいかにさびしい場所だったかがわかる文章だが、だからこそ明治期まで「百八塚」が崩されずに残り、その伝承も絶えることなくつづいていたのだろう。三宅が描く大久保周辺の風景には、すでに消滅していた上記3つの「百八塚」とは別に、こんもりとした塚らしき地形がところどころに描かれている。

■写真上:中央線・大久保駅近く、北新宿1丁目交差点にある「金塚地蔵」堂。
■写真中は、旧・岡本綺堂宅近くの「百人町塚」(仮)跡。百人組同心のツツジ園の跡だが、いまではなんの痕跡もない。は、大正初期の大久保界隈で、手前に見える家は内村鑑三邸。
■写真下は、三宅克己が描いた明治末か大正初期の大久保界隈。は、上落合にあった浅間塚古墳。おそらく、大久保界隈にもこのような円墳がたくさん見られたのだろう。

この記事へのコメント

  • らきこ

    はじめまして。
    そんな場所だったんですね。
    近所なので時間があった時にでも探検してみようと思ってます。
    2006年02月15日 11:31
  • ChinchikoPapa

    らきこさん、はじめまして。また、nice!をありがとうございました。
    大久保界隈を散歩すると、韓国料理の楽しみもありますね。
    わたしは辛いのが苦手なのですが、あまり辛くない韓国料理
    ばかり選んで食べてます。(笑)
    2006年02月15日 11:53
  • はにぞう

    はじめまして。
    20年以上前に百人町界隈に住んでいました。
    管理人様が仮称百人町塚と指摘されている場所の近くに、近所の人が近づかない土地、というのがありました。外部から来てその土地に住んだり商売した人はいたもののなぜかよくないことがおきたり長続きしないという噂でした。
    そこに元々あった池かお社?をつぶしたせいだと地元のお年寄りには言われてたようです。なにせ幼かったのでうろ覚えの情報ですみません。
    なお、その場所は当時もうすでに塚の跡など全く残っていない平坦地でした。

    あと、当時、百人町3丁目にも一箇所こんもりした地形の崖があって子供の遊び場になっていました。今は再開発で跡形ありません。
    2006年02月16日 15:02
  • ChinchikoPapa

    はにぞうさん、はじめまして。
    「人が近づかない土地」というのは、そこがなんらかの聖域か死者との関係(黄泉の入口/墓域)という謂れがあったケースが多いようです。
    大別しますと、そのエリアが設定された当初から、または後世になって「近づいちゃダメ」という忌避感が形成されるケースと、後世に「怪物伝説」や「オバケ伝説」に転化されて、「近づくと怖いよ」という伝承になるものとがあるようですね。
    下落合にも、オバケ伝説や怪物伝説が残っていますが、江戸期に開拓された土地にも、古墳との絡みでなんらかの謂れが残存していて、それが語り継がれてきたのではないかと想像しています。
    大久保界隈は、明治期まで「百八塚」が残っていましたので、なにかより直截的な伝承があったのかもしれませんね。
    2006年02月17日 00:21
  • 小金昭

    そうすると、国際キリスト教大学に残っている、内村鑑三が写る彼が愛した「祈祷の森」とはこの辺りだったんですね?あの写真が移された正確な場所って特定は、難しいですかね…
    2013年06月18日 02:47

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