江戸の芸妓を分類すると、吉原のナカにいた「廓芸者」、日本橋を中心に居住した「町芸者」、川向こうは深川の「羽織」(辰巳芸者)の3つのタイプになる。「町芸者」は、元文年間(1736~1741年)ごろに日本橋界隈に住んでいた、芸子や踊り子からスタートしたといわれている。中でも橘町、村松町、薬研堀、難波町の4町の踊り子が一流といわれていた。
明和から安永年間(1764~1780年)ぐらいに、芸子・踊り子と呼ばれていた名称が、いつしか「町芸者」と呼ばれるようになった。彼女たちは、ふだんは商家の娘や息子に三味線や浄瑠璃を教え(要するに音楽教師だ)、留守居茶屋(大名の留守居役寄合い)へ呼ばれて、音楽や踊りを見せては暮らしていた。茶屋が多くでき始めると、裕福な商人のお座敷へ呼ばれて、踊りや喉を披露するようになる。1760年代には、町芸者の分布は大江戸40ヶ所にも及んでいたとされている。
町芸者とともに誕生したのが、彼女たちと遊ぶためのお座敷、つまり料理茶屋だった。でも、1788年(天明8)に出版された洒落本『吉原楊枝』(山東京伝)には、「今年廿五の暁かけて、柳橋の別荘に若いんきよ」と、柳橋界隈がまだ寂しい閑散とした土地柄だったことがうかがえる。それが、わずか10年後に山東京伝は、「きせる煙草入に白を用いず藍のあめへのと、ひたへをぬくのは今時はやらずと、丸じりの雪駄をぐつとはき捨てながら、柳橋あたりの料理ぢややの座敷へとをる」(『猫射羅子』)と描写しているので、柳橋が大きく変貌していた様子がわかる。『近世風俗志』(守貞漫稿)によれば、幕末の柳橋には「川長」「梅川」「万八」「亀清」「中村屋」など、江戸を代表する料理茶屋がすでに並んでいたことが記されている。おそらく、そのころには大川に面した貸席や、舟遊びをする舟宿が神田川沿いにひしめいていただろう。
宵の口、柳橋の料理茶屋で町芸者と遊んで腹ごしらえをしたあと、当時の男たちは舟で新吉原や深川の岡場所へ繰り出していったに違いない。英一蝶(はなぶさいっちょう)の「片しぐれ」の替え唄で、「柳橋から」という当時の小唄が伝わっている。
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柳橋から(本調子)
柳橋から小舟でいそがせ山野堀
土手の夜風がぞつと身にしむ衣紋坂
君を思へば逢はぬ昔がましぞかし
どうしてけふは御座んした
さういふ初音を聞きに来た
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狭い柳橋界隈には、戦前まで100軒前後の料亭がひしめいていた。関東大震災で壊滅し、東京大空襲でも焼けはしたが、戦後も90軒を超える料亭が営業をつづけていた。手元には、残念ながら戦前の料亭の写真はないが、戦後に再建された料亭の写真が数多く残っている。
それでは柳橋の、いや江戸東京の超一流といわれた料亭のお座敷を14軒Click!ほど、実際に巡ってみよう。残念ながら、柳橋芸者は呼べませんが・・・。
■写真上:神田川河口の左手にあった、戦後の「亀清」。
■写真中上:現在の柳橋を上空から。河口が柳橋で、幅の広い橋が浅草御門跡の浅草橋。料亭はほとんどなくなったが舟宿が増え、屋形船がひしめいて停泊しているのがわかる。
■写真中下:左は、1868年(明治元)の柳橋。右は、明治初期の柳橋界隈。河口左手に「亀清」が見えるが、当時は「亀清楼」という亭名だった。戦後とは、ずいぶん建物のデザインが違う。また、柳橋が江戸期の姿で木橋のままなのがめずらしい。
■写真下:戦前の柳橋料亭街。夜は賑わうが、昼間はこのようにひっそりとしていた。
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