下落合と下町を結ぶ北斗七星。

 下落合と下町を結ぶのは、神田上水の水道水やミツワ石鹸(丸見屋)の三輪家、また田島橋の手前にあった日本橋三越の染物工場ばかりではない。もうひとつ、忘れちゃならない大きなテーマがある。それは、平将門の後裔としての将門相馬家が、下落合に在住していたことだ。現在のおとめ山公園(下落合)と、その周辺を含む広大な敷地に旧・相馬子爵邸Click!は建設されていた。
 その相馬邸の奥深くには、代々同家の守り神として受け継がれてきた木彫りの像が秘蔵されていた。平将門の手彫りと伝えられる、高さ30cmほどの素朴な「妙見」像だ。先日、その相馬家に伝わった「妙見」秘像を、まったくの偶然で撮影することができた。今回は、ちょっと精神世界における下落合と下町との関わりについて書いてみたい。
 妙見信仰すなわち北辰信仰の歴史は古く、6世紀ごろに中国から日本へ伝えられたとされている。日本では、ようやく古墳時代の後・末期を迎えたころだ。北辰は、ふつう北極星のことを意味するといわれるが、妙見信仰と結びついている場合は北斗七星を指すことが多い。(この言い方はおそらく逆だろう。古代からの北斗七星信仰が、のちに妙見菩薩と結びついた可能性が高い)

 千葉氏から分かれた相馬家は、平将門の直系とされる一族で、鎌倉時代には扇ヶ谷(おおぎがやつ)に館をかまえる、源頼朝の有力な御家人のひとりだった。いまでも扇ヶ谷では、相馬家の墓所とされる「やぐら」(鎌倉武士団の横穴式墳墓)があると伝えられ、勧請した相馬天王社が残されている。代々「相馬」を名乗ると同時に、場合によっては分家前の「千葉」という姓も名乗っていたようだ。このあたり、足利幕府を開いた北関東の足利家の本拠地近くの出自である、世良田氏(松平氏→徳川氏)の系譜にどこか似ている。徳川幕府が開かれてからも、徳川家では関東における古くからの旧姓である「世良田」を復活させ、名乗りつづけていた。

 千葉氏の本拠地とされる、千葉市の千葉大学医学部キャンパス近くに、北斗七星をかたどった「七天王塚」が現存している。これまで長期間にわたり、鎌倉時代の遺構ではないかと見られていたが、2002年(平成14)の発掘調査では古墳時代の遺跡が見つかった。それほど、この地の北辰信仰が古い時代からのものなのか、あるいは北斗七星信仰のあとから仏教の妙見菩薩がかぶせられたものなのか、詳細は不明だ。とにかく、このあたりを出自とする千葉氏→相馬氏の守り神は、北斗七星信仰=妙見信仰と深く結びついていた。ちなみに、江戸氏と同様に地名を姓とした千葉氏だが、千葉とは原日本語で「チパ(cipa)」=御幣場(聖域)の意味ではないかと思われる。
 1936年(昭和11)ごろ、陸軍航空隊によって撮影された下落合の空中写真を見ていて、わたしは不思議に思ったことがあった。眼下に見える相馬子爵邸のかたちが、なんとなく妙なのだ。まるで、あとから少しずつ継ぎ足し継ぎ足ししていった、旧館・本館・別館・新館・・・と繁盛している旅館のような建て方をしている。母屋らしい逆「コ」の字型(天理型)をしたフォルムも、妙といえば妙なのだ。明らかに陰影の濃い(屋根傾斜が深いとみられる)、大きな三角屋根を数えてみると7~8つ確認できる。これは、北辰(北斗七星)を意図的にかたどった造りではないのか?
 ひとつ内側にはみ出している小ぶりの建物の屋根は、「武曲星」の“輔星”のようにも思えてしまう。いちがいには決めつけられないけれど、このような上空から見て意味を持つ建築を、下落合ではもうひとつ目にすることができる。旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)にあった、大日本獅子吼会(現・大日本獅子吼教会)の巨大な逆「卍」型の屋根だ。戦争で建築が中断したまま、逆「卍」型の大屋根は未完成に終わっている。
 
 
 相馬家は古く、江戸時代以前より磐城国中村(現在の福島県相馬市)を本拠としていた。江戸期には、領地替えもなくそのまま同所に封じられつづけ、江戸後期になると小大名(6万石)ながら外様から譜代格、そしてついには念願だった譜代入りを果たしている。相馬市には、いまでも北辰(妙見)信仰の遺構や寺社が数多く残されている。そして、相馬藩の剣術師範である千葉常成は、この地で「北辰夢想流」を編み出した。
 相馬家の「千葉」と「北辰」つながりはどこまでもつづくが、相馬家-平将門-江戸総鎮守・神田明神が直結するように、千葉常成の「北辰流」は、今度は日本橋へと直結することになる。常成の子の千葉周作は、江戸へ出てきて「北辰一刀流」を完成させた。周作が道場「玄武館」を開いたのは、日本橋品川町だった。幕末にはお玉ヶ池のあったあたり、神田玉池稲荷の間近へと移転している。四神のひとつ、北神である「玄武」と、ここでも北斗七星が深く関わりつづけていた。ちなみに千葉周作の「玄武館」からは、幕末にあまたの剣客が輩出していった。
 
 相馬家に代々受け継がれ、神田明神に奉納された「妙見」像を観察すると、明らかに仏教の影響が色濃く見られる。まるで、江戸期の円空仏を思わせる鉈彫りのような作風だが、その素朴で装飾性のないシンプルな造形は、江戸期よりもはるかに古い作品なのかもしれない。

■写真上:1990年(平成2)に行われた平将門の鎮座1050年大祭に、相馬家から神田明神へ奉納された、将門手彫りと伝えられる妙見像。神田明神へ初詣に出かけたら、偶然にも“秘像”を開帳していた。今年は、なにかと運が向いてくる予感。 その後、神田明神の本像は、相馬彰様Click!の調査により小田原藩相馬家(下総相馬氏流)による寄進であることが判明している。
■写真中左上は、1936年(昭和11)に撮影された相馬子爵邸。右上は、同邸の大屋根をポインティングしたもの。写真の下方が、現在のおとめ山公園にあたる。左下は、1947年(昭和22)に上空から撮影された、大日本獅子吼会の未完の逆「卍」屋根。右下は、1932年(昭和7)の同建物。
■写真下は、神田お玉ヶ池跡に建立された玉池稲荷(お玉稲荷)。は、神田明神雪中。

この記事へのコメント

  • くま

    初めましてくまと申します。

    神田明神 道場と検索しましてたどりつきました。
    ブログ大変興味深く拝見させて頂きました。

    私、今、音羽の講談社敷地内にある、野間道場と言う木造の道場の保存運動をおこなっております。
    その道場は、大正14年に、神田明神わきにあった道場を買いとって移築したものといわれております。

    むくり破風板の玄関屋根をもっており、道場内は、江戸時代町道場の様式を持っております。
    戦前戦後共、剣道家にとっては、聖地のようなところですが、この度講談社の都合で来年に解体される予定となりました。
    何とか思いとどまって頂けないかと、色々と画策しておりますが苦労しております。

    私は建築士です。

    普段建築士として快適なまちづくり、家造りのお手伝いをしておりますが、このような保存運動はまったくの素人であり、色々な先生方やまちづくりの専門家等にご相談しながら活動しております。

    本日も、藁にもすがる思いで、ChinchikoPapa 様のブログにたどりつきました。
    くまのブログ日誌を読んで頂き、色々とご指導ご鞭撻の程頂ければ、幸いと願いご連絡した次第です。

    この度の件で、6月24日から書き始めました下記ブログ等

    今までの成り行き経過を書いております。

    何か感想等あれば、書き込んでいただければ幸いと願っております。

    よろしくお願い致します。

    ( ブログ日誌) 夢は空我のくま
    日記アドレス http://mykit.jp/pc/sukenojyo/
    携帯アドレス http://mykit.jp/i.php3?i=sukenojyo
    2006年10月20日 21:20
  • ChinchikoPapa

    くまさん、はじめまして。
    神田明神下にあったといわれている、窪田清音の道場が現存しているとは驚きです。講武所がらみの人脈が、野間家に色濃くあったものでしょうか? 江戸の道場ですので、江戸にこのままぜひ残したいですね。
    解体決定に対する、区の教育委員会の反応はいかがなものでしょうか? 記録調査は過去におこなわれているのでしょうか? この文化財保護課の「記録調査」が、公的な保存を推進するうえでの第一歩となるようです。この記録がないと、どのような歴史的な建築物であっても保存の対象として、検討の俎上に浮かび上がりません。区教育委員会の生涯学習部(課)へ問い合わされれば、文化財保護のご担当にまわしてくれるはずですので、すぐに確認できるかと思います。
    区が財政的に無理なようであれば、都の同部局、それでもダメなようでしたら地方の建物文化財関連の保存施設へ移築・・・という手順・道筋が考えられますが、できれば同所にそのまま残しておきたいですよね。同敷地に、講談社による次の新たな建設計画が予定されているのでしたら、せめて都内のどこかに移築保存していただきたいものです。
    写真を拝見しますと、たいへん天井の高い道場で、いかにも幕末の講武所風の造り、つまり講武所拵えと呼ばれる直線的で長大な「大だんびら」造りの刀、あるいはそれを想定した木刀を振りまわすのに適している建築様式をしています。
    2006年10月22日 11:12
  • ChinchikoPapa

    くまさん、再びこんにちは。
    幕末にあった、講武所教授の窪田道場が建てられたとみられる、神田明神下の切絵図を記事末に掲載しておきます。文久2年(1862年)改訂版の尾張屋清七版『下谷絵図』です。ここには、「講武所附町屋舗」と書かれていますが、おそらくここに窪田道場はあったのではないかと思います。ちょうど、神田明神下の通り南端、現在の石丸電気があるあたりです。
    窪田清音といいますと、講武所との関連よりも、わたしは幕末きっての人気刀匠・山浦(源)清麿のパトロン・・・というイメージの方が強いですね。この人がいたからこそ、清麿は多くの作品を残せたのだと思います。
    2006年10月22日 11:48
  • くま

    今日は、くまです。
    色々と教えて頂きありがとうございます。

    講武所附属町屋敷について調べてみました。
    非常に可能性はあるのですが、明治時代には、火除け地になっていたみたいです。
    大正時代の関東大地震でもそこら一体は火の海で、建物がほとんど残らなかったみたいです。
    町道場が焼け残っていたという確証を掴むために、今仲間と共に調査しております。
    又何かわかりましたら、ご報告いたしますのでよろしくご指導の程お願い致します。
    あと、気になるのは、野間道場の玄関屋根が起り破風板の形をしていることです。
    起り破風の形状を持つ屋根は、関東では珍しいです。
    くまのブログに前にかきましたが、非常似ているのが掛川城の二の丸御殿の玄関屋根です。
    何か関係あるのか?
    今それも調べております。
    神田明神、町道場、講武所、起り破風、森要蔵、とキーワードがどのようにつながっていくのか?
    なかなか難しい処です。

    小さな縁から貴HPにたどりつきましたが、これからもよろしくお願い致します。
    2006年10月30日 15:38
  • ChinchikoPapa

    ぜひぜひ、なにか判明しましたらお知らせください。
    道場の建築様式が珍しいということで、新築ではなく当初からどこからか移築された可能性もありますね。こういう推理や追跡調査は、とても楽しいです。
    こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。
    2006年10月30日 17:08
  • くま

    くまです。
    お世話になっております。
    継続し、講武所附属町屋敷について、古地図を詳しく調べておりまます。
    明治時代の航空地図を入手し、詳しく見てみたら建物があった模様です。
    今大正時代の航空地図を探しております。
    関東大地震の火災に焼け残っていたのか?
    もしその資料が見つかればと今色々調べております。
    2006年10月31日 22:42
  • ChinchikoPapa

    サイトを拝見しました。ものすごいスピードで調べられているのですね。そのご熱心さに感服いたしました。すでに、山浦清麿のことにも触れられていましたね。窪田という人は度量が大きかったのか、清麿が女と駆け落ちして注文打ちの約束をすべてスッポかしても、しおしおと舞いもどってきた清麿をそれほど文句も言わずに受け入れてたりします。先渡金は持ち逃げするし、紹介者である窪田の立つ瀬がなくなるしで、武家の面目を丸つぶれにされたわけですから怒り狂ってしかるべきなのに、窪田という人は、またせっせと清麿の面倒をなにかとみています。そういう鷹揚なところが、窪田清音という人の強く印象に残るゆえんなんでしょうね。
    国会図書館には、いろいろな地図が保存されていますが、1917年(大正6)ごろに設立された東京交通社あたりの地図に、なにか載っていないか興味深いところです。いま、たまたま1933年(昭和8)の神田区地図(同社)があるのですが、すでに講武所附属地界隈は再開発が行われたのか、商店街として細分化されています。そのほか、関東大震災のあとになりますけれど、東京各地で作られた「事情明細図」が存在しないかどうかも要チェックですね。個々の家々まで描きこまれていますので、少なくとも震災後の街並みが詳しくわかると思います。
    2006年11月01日 12:16
  • ChinchikoPapa

    くまさん、こんばんは。ご案内、ありがとうございます。
    のちほど拝見して、署名させていただければと思います。署名集めは、ネットでも地道な積み重ねと、じっくりした取り組みが必要かと思います。(実感!) 少しでも多くの人たちの署名が集まりますように。
    2006年12月21日 23:58
  • ChinchikoPapa

    そのほか、たくさんのnice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年06月26日 12:31
  • ChinchikoPapa

    ずいぶん前の記事に、nice!をありがとうございました。>tenkoさん
    2009年09月10日 22:32
  • 青山

    千葉氏は将門の直系ではありませんよ

    千葉氏は系図や伝承に怠りがあるので気をつけましょう

    上総氏が平家惣領。高望王由来の直系、千葉氏は分家。
    将門の直系は相馬氏です
    2014年10月25日 10:13
  • ChinchikoPapa

    青山さん、コメントをありがとうございます。
    ご指摘をありがとうございました。古い記事で、誤記をそのままにしておりました。このあと、各記事では相馬様ともご連絡がとれ、「将門相馬家」と表現しておきながら気づかずにいました。重ねて、お礼申し上げます。
    2014年10月25日 12:43
  • 三河

    落合さんはじめまして。
    私、高田馬場在住の三河(PN)と申します。
    平将門伝説、北斗七星、星辰・妙見信仰、製鉄のネットワークなどを趣味で調べております(^^)
    縁あってこちらのブログにたどり着き、興味深く拝見させていただいておりました。

    件の相馬家に伝わってきたという妙見菩薩像ですが、私も正月神田明神に会社で祈祷に行った際、併設の資料館で参拝かなうことができました。
    びっくりしたのはその像容!
    私が見聞きしたのとはまったく違うことにびっくりしました。
    御寄進は相馬家43代の相馬春胤様とのことでしたが、落合さんも調査されていらしゃるとのこと。
    もしご存知でしたらその像容についてご教示いただけたら幸いです。

    あと、おとめ山公園脇の東山稲荷神社も将門調伏系の神社として私も何度か足を運んでおり、そちらの記事も大変興味深く拝見しました。
    もしFBをやられてましたらご教示いただけるとうれしいです。
    何卒よろしくお願いいたします。
    2018年01月20日 22:36
  • ChinchikoPapa

    三河さん、コメントをありがとうございます。
    下落合の相馬邸、さらにそのあとに転居した中野(広町)の相馬邸につきましては、巫術的な側面から、あるいは両地域の神田明神分社の存在(このあたり徳川邸の習合とも関連しますが)、さらに落合地域の妙見山の存在など(以上はすべて記事にしています)、けっこう詳しく調べていますが、神田明神の妙見像につきましては、改めて詳細に調べたことはありません。
    また、相馬邸の敷地内に建立されていた太素社(妙見社)のご神体につきましても、情報が少なく詳らかではないですね。
    藤稲荷社の由来は、1950年代まで荒れるに任せる状態でしたが、いまのように整備されたのは60年代以降です。それまでは、相馬邸東側の近衛家(藤原氏)と同じく、江戸東京の地霊の影響で没落していたものでしょうか。w
    ただし、藤稲荷社に関しましては、「将門」に絡む伝承は鎌倉期以降の付会で、それ以前のタタラ製鉄の遺構(鋳成社)を疑っています。同社に奉納されていた刀剣とも絡み、目白(鋼の古語)との関連を強く感じさせる社ですね。
    以上、神田明神の妙見像の詳細につきましては、お答えできずにすみません。
    2018年01月20日 23:05
  • 三河

    落合さん、早速のお返事ありがとうございます。
    豊富な情報量と緻密な分析に感服いたしました。

    まず妙見像の件は承知しました。
    引き続き私の方でも神田明神に取材してみようと思います。

    それにしても御留山にそんなディープな歴史があったとは、近所に住んでいながら知りませんでした。
    関連の記事をぜひ拝見させていただきます。
    (落合に妙見山があったとは・・・驚きです)

    あと藤稲荷(東山稲荷)についてもご高説ありがとうございます!
    まさかここでたたらとの関連性があるとは夢にも思わず・・・。
    落合に遺構があったということでしょうか?
    目白=鋼というのも含め、大変興味深いお話です。
    私も若尾五雄氏の『黄金と百足』から
    稲荷=鋳成り
    藤=藤蔓による砂金採取技術
    藤太=砂金淘汰
    という説を支持する者です。
    今でこそ小さな社になってしまいましたが、東山藤稲荷には多くの謎がありそうですね。
    ぜひまた記事にまとめていただければ幸いです。
    2018年01月21日 16:56
  • ChinchikoPapa

    三河さん、重ねてコメントをありがとうございます。
    中井駅の北側、山手通り工事現場ではタタラ遺跡が発掘されていますが、残念ながら戦時中だったために満足な調査も行われず、すぐに破壊されてしまいました。目白は、江戸期以前からつづく「鋼」の古語ですね。現代でも、刀鍛冶の鋼における等級の用語として、使われることがあります。
    拙ブログで「相馬孟胤」「相馬邸」「タタラ」「巫術」「荒神」「神田久保」「砂鉄」「北斗七星」…etc.のキーワードで検索されますと、多種多様な拙記事がひっかかるかと思います。ぜひ、お試しください。
    また次回の記事から、下落合より中野区広町へ転居した相馬邸について、書きはじめたいと思っています。そこで重要なテーマとして起立してきますのが、神田川沿いでは最大級の古墳時代後期の集落遺跡と、同じく同河川沿いでは最大クラスのタタラ遺跡の存在です。そこには、氷川明神と藤神稲荷がセットになって存在するという、下落合との相似形を確認できるのが面白いですね。
    2018年01月21日 18:47
  • 三河

    ChinchikoPapaさま
    こちらこそお早いお返事をありがとうございます!

    まずはお詫びを・・・。
    わたくし、お名前を貴ブログ名「落合道人」さんと勘違いしておりました。。。
    ご無礼お許しください<(__;)>

    その後も引き続きむさぼるように記事を読ませていただいております。
    タタラ、将門、北斗七星、巫術などなど、興味深いテーマばかりで、ご見識の広さにただただ感服です。
    次回の連載も楽しみにしております!
    今後とも何卒よろしくお願い申しあげます。
    2018年01月21日 19:07
  • ChinchikoPapa

    三河さん、すばやいリプライをありがとうございます。
    いえいえ、最近は「落合さん」とブログ名で呼ばれることも多く、ぜんぜん気になりません。w
    中野広町20番地の相馬邸につきましては、いっぺんには調べ切れませんので、飛び石の連載になるかと思います。^^; 少しお時間をください。よろしくお願いいたします。
    2018年01月21日 19:17
  • 三河

    ChinchikoPapaさま、お優しいお言葉ありがとうございます!
    なんだかご近所の賢人にお会いできたようで嬉しいです(*´∇`)
    私は旧諏訪町付近におりますので、どちらかというと諏訪・早稲田・大久保が探索範囲です。
    相馬邸につきましても取材・執筆でお忙しいとは思いますが、楽しみにしております。
    また別記事でも早速お伺いしたいことなど出てきましたので、
    都度都度コメント差し上げることもあるかと思いますが、
    無理のない範囲でご教示いただければ幸いです。
    どうぞよろしくお願いいたします!
    2018年01月21日 21:51
  • ChinchikoPapa

    三河さん、重ねてコメントをありがとうございます。
    上記の件、了解いたしました。
    お訊ねに、ご希望どおりの内容をお知らせできるかどうかはわかりませんが、わたしにわかる範囲内でお答えいたします。よろしくお願いいたします。
    2018年01月21日 22:21

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相馬邸はなぜ下落合に建てられたのか。
Excerpt: 以前、相馬邸Click!がなぜ下落合という立地を選び、赤坂氷川明神Click!前(元・中屋敷)から転居してきているのかを、おもに巫術あるいは望気術的な側面から連載形式で記事Click!にしたことがある..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-11-01 00:00

“落合パズル”11年めに感じるダイナミズム。
Excerpt: きのうで、このサイトをはじめてから丸10年がすぎ、きょうから11年めに入る。文章を書いていると、ときどき果てしない複雑なジグソーパズル、ときに謎ときゲームへ挑戦しているようだ……と感じることがある。 ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-11-25 00:01

250キロ爆弾の爆風にも耐えた邸宅。
Excerpt: いちばん運用したいときにシステム不具合の嵐だと、ほんとうに書く気が失せてしまう。So-netブログさん、いい加減にしてください。きのうから、書いた原稿が三度も登録フォームのTimeOutエラーで行方不..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-06-25 11:57