「久松るす」はまだ貼ってあるか?

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 わたしが子供のころ、冬に下町界隈を歩くと「久松るす」と書かれた紙が、門口や玄関に貼ってある家をみかけたことがある。それが、何軒かあったものだから、よほど「久松」という人が多く住んでいる親戚の寄り集まった街角らしい・・・などと、ボケた頭で思いこんでいた。それが「お染風」の除け札だと知ったのは、小学校高学年のころだったろうか? 親に改めて訊いたら、思いっきり笑われてしまった憶えがある。
 「お染風」とは、インフルエンザのことだ。四世・南北『道行浮塒鴎(みちゆき・うきねのともどり)』(お染の七役/お染久松)に登場する、許婚(いいなずけ)がありながら丁稚の久松に見さかいもなくコロッと惚れてしまう、つまり、すぐに恋が感染しやすいお染ちゃんのような風邪・・・という意味だ。芝居の予備知識などゼロだったころだから、そう説明されてもよくわからず、お染という女性は取り憑かれたら最後、人を殺すほどのすごい性悪だったんじゃないか・・・などと、勝手な想像をふくらませていた。
 江戸時代にも、すでにインフルエンザは猛威をふるっていたらしい。「お染風」という呼び名がもっともポピュラーとなったが、ほかにも「お駒風」「稲葉風」「琉球風」「谷風」といった名称が残っている。材木屋「お駒」はやはり芝居のヒロインで、お染とは異なり稀代の悪女だ。「谷風」は天明年間に活躍した無敗の力士だが、流行性の風邪にやられてあっけなく死んでいる。谷風をも倒すほどの威力ということで、このときの“流行性感冒”はそう名づけられたようだ。江戸期に名づけられた、これら「○○風」という名の風邪は、その強い感染力からインフルエンザだと見られている。当時は、ウィルスを抑える医薬や抗生物質などもなく、罹患したらそれこそ生命がけだったろう。
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 「お染風」という呼び名が最後まで残ったのは、1890年(明治23)に大流行したインフルエンザが、東京でそう呼ばれていたからだ。江戸期に流行った「お染風」が、明治期になってまたしても復活したと、当時の人たちは考えたのだろう。だから、その除け札である「久松るす」はずいぶん長く、下町では戦後までずっと残ることになった。このネーミング感覚、どこか米国のハリケーン名に似ている。でも、大江戸では女性名だけではなにかと不都合が多かったらしく(笑)、平等に男性名もつけているところが面白い。明治の「お染風」のあと、1918年(大正7)に再びインフルエンザは流行するが、もはや「スペイン風邪」と名づけられ、「お染風」は町場の通称となってしまった。
 「久松るす」の除け札は、いまでも江戸深川資料館Click!に再現された深川の裏店を歩くと、門口に見つけることができる。「久松るす」や「久松留守」ではなく、中にはもっと直截的に「お染御免」と書かれた除け札もあったそうだが、わたしは一度も見たことがない。

■写真上:向島・三圍(みめぐり)稲荷の井戸にある、めずらしい三柱鳥居。三圍稲荷は、駿河町の三井越後屋の守り神として有名で、いまでも日本橋三越Click!の屋上には勧請した稲荷が残る。
■写真下は、三圍稲荷の大鳥居が書割の「向島道行の場」。三圍稲荷に行ったことのない役者が、鳥居に足をかけて見栄をきってしまった失敗談は有名。隅田堤の土手上と鳥居との間は、下り階段をはさんで10m以上はあっただろう。左から、七代目・尾上梅幸のお染、三代目・市川左団次の久松、七代目・坂東三津五郎の猿まわし。(昭和20年代) は、同じ土手上からの鳥居の眺め。

「浮世絵風美人画」のponpocoponさんが、 「お染風に罹ったお染ちゃん」Click!を描いてくださいました。顔がポッと上気して、高い熱がありそうですが、それがまた色っぽい。(笑) 浅草に遊びに出ようと店先へ出てきたのですが、さすがに「ちょいと、めまいがしますのさ」・・・と躊躇している様子です。

この記事へのコメント

  • fuRu

    「お染の七役」はずいぶん前に玉三郎で観たことがあります。
    楽しい芝居でした。
    ちなみに、久松は八十助さん(現三津五郎さん)。
    それにしても、「お染風」なんて
    インフルエンザもしゃれた名前を付けてもらったものですね。
    そういうゆったりとした時間が、どんどん失われてゆく今時の世の中です。
    どこかで、そういうゆったりとした時間を求めている、だから、落語ブームなんていうことになっているのかもしれませんね。
    2006年01月12日 16:37
  • ChinchikoPapa

    「お染ちゃんにかかって、熱だして寝てる」・・・なんて、すてきな表現ですよね。つい、「いったい、どっちのお染ちゃんだい?」と訊き返すあたり、下町あたりの若い子の会話っぽくて好きです。正月に風邪を引いて寝てた下のオスガキに、「お染風かな?」と言ったら、ガールフレンドからもらった風邪のようで「○○子風だよ」と、切りかえされてしまいました。
    お染久松の書割を見ると、わたしは条件反射的につい桜餅を思い出してしまうのですが、これは子供のころにインプットされたんだと思います。(笑)
    2006年01月12日 17:10
  • ponpocopon

    お染は玉三郎の写真集に載っているので是非描きたいと思っているのですが、お染の簪と衣装の豪華さに怖気づき、なかなか実行できないでいます。(久松の許嫁のお光は描いているのですが・・・。お染も一緒に描いたけど襦袢姿でした。)
    「久松留守」とは楽しいですね。・・お染風と心中なんて未遂でもちょっと怖い・・・。
    2006年01月12日 22:22
  • ChinchikoPapa

    ぜひ、描いてください!
    風邪をひいて微熱のある、目がうるんだお染ちゃん・・・というのも、なかなか艶っぽそうでいいです。あっ、でもインフルエンザだと、微熱というわけにはいきませんね。鼻水はグジュグジュだし、こめかみには梅干が張ってあったり、おでこには熱さましの豆腐がのっていたり・・・とか。(笑)
    「道行き」というとちょっと暗めになりますから、少しお茶目なお染ちゃんもいいですね。nice!とコメントをありがとうございました。
    2006年01月13日 00:29
  • 負け犬

    そういえば私が子どものころ、ものもらいができると「めばちこ、10円で売ります」という語句と、一筆書きみたいな金魚を3匹描いて、電柱に貼りに行きました。こういうおまじないみたいなの、全国的にいろいろあるのではないかと思うんですが……。
    2006年01月16日 18:58
  • ChinchikoPapa

    負け犬さん、こんにちは!
    病気がらみではないのですが、その昔、鳥居のマークを書いた紙を、ベタベタ塀や家の前の電柱に貼りつけているお宅がありました。もちろん、立ちション予防だったのですが、最近見かけませんねえ。
    「めばちこ」が10円ということは、口内炎は5円、めんちょうは1円ぐらいでしょうか? すぐに買ってもらえないと、苦しいものばかり。「めばちこ」札、ぜひ見てみたいです。(笑)
    2006年01月16日 21:20

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