子どもたちに必要なのは真摯な大人だ
『ある子供』(ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督/2005年/ベルギー=フランス)
撮影中はいずれかが役者の、もうひとりはモニターのそばに付いているというダルデンヌ兄弟。その四つの目は、日本での初公開作『イゴールの約束』から終始一貫子どもたちをまっすぐ見つめてきた。不法滞在者を売買する父親を手伝いながら自動車修理工場で働くイゴールは父と決別するが、友情よりも仕事が必要な『ロゼッタ』はアル中の母親を捨てることができない。さらに、スケールを使う音や鋸を引く音以外、音楽はもちろんセリフもほとんどない『息子のまなざし』では、究極の師弟関係とともに、ものを作る工程をていねいに描いた。
感傷を省いた映画はドキュメンタリーより真実に近いフィクションである。と言えば奇妙に聞こえるかもしれない。しかし志半ばで命を落とした不法滞在者との約束のため、保身に走る父親の許から旅立つイゴールを演じた当時14歳だったジェレミー・レニエが、自覚を持てないまま子どもを持つ20歳の父親ブリュノに扮しているといえば、どうだろう。
出産したばかりのソニアが赤ん坊を抱いて家に帰ると、ドアの向こうから顔を出すのはブリュノではなく、見知らぬ男女。走り回ってやっと探し出したブリュノはちんぴら仕事の真っ最中で、赤ん坊の顔もまともに見ない。金はもちろんない。が、したくても仕事がないという先進国特有の現象もあり、一概に働かないからだとも非難できない。ただ、このブリュノという男、そこが救いでもあり、同時にそれで足を掬われるのだが、よく動く。そして動くたびに墓穴を掘る。ひどい男だが、性根の腐った人間ではない。
ブリュノのような男は、ロゼッタのような娘とともに、世界中のありとあらゆる貧困層のなかにいる。今年フランスで繰り広げられたような暴動の背景は、すでに10年前、27歳だったマチュー・カソヴィッツ監督の『憎しみ』に出てきた。
おそらく日本にも、かれらのような子どもはいる。でもこういう表現にはならない。なぜなら日本はちょっとした社会現象はできるだけ大げさに取り上げ、名前をつけることで一過性のブームになると、すぐに忘れ去られるから。ひきこもりも、ニートも、そういう呼称ができた時点で市民権を得、堂々宣言できる。先日NHKで取り上げられていたニートは、実家に戻った息子に家業を手伝わせるというオチで、何? ここん家、自営だったの? とあきれた。だって2~30年も前なら、ごろごろしてんなら手伝ってよ、と親も気軽に言ったと思うが、いまや国連の常任理事国をめざす日本。傷ついて帰ってきた子どもを追い出すわけにはいかない。かといっておまえは甘いと説教もできず、人権だの、プライバシーだのという先進国の掟が邪魔して自分の子といえども、相手が話さないことを根掘り葉掘り聞くわけにもいかない。
で、企業のおえらがたや、大学の先生なんてのが出てきてニート対策を語るが、この件に関してだけは私は若者の肩を持つ。だって努力を怠っているのはかれらじゃなく、アルバイトでしかひとを雇わない企業のほうだもの。アメリカの10年遅れでたいていのことが社会現象化する日本が、こうなるのは90年代初め、努力しても親世代のような暮らしはできない“Xゼネレーション”が出てきたときからわかっていたはずである。来るべき高齢化社会とか言いながら何の対策もせず、いまさら高齢者の医療費負担を増やす、って? こんな行き当たりばったりを政治と呼べるの? と思うが、その政治家が70歳過ぎても辞めずに若者に労働意欲がないなんて寝言いってるんだもの。あなたがたがお辞めになれば、若者数人が正規の職に就けるのに。医療費もそう。いよいよ対策がないなら、寿命が伸びたのは医者の責任なんだから医者の税金を上げればいいのだ。
と、私のように感情的ではなく、『ロゼッタ』に続いて二度目のカンヌパルムドールに輝いたこの映画でも、ジャン=ピエールとリュックは映像の力でもって、子どもたちに必要なのは真摯な大人だとメッセージしている。
負け犬
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●12月10日~恵比寿ガーデンシネマほか公開予定
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ChinchikoPapa