国造(こくぞう)は「くにのみやつこ」ではない。

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 大手町へ打ち合わせに行くと、ときどき立ち寄るところ。将門の首が飛んで落ちてきた・・・なんてことが、実際にあったとは思えない。もちろん、後世の付会だろう。北上(ピタカムィ=川の神)のアテルイやモレと同様、首は賀茂川べりに晒されて朽ちたに違いない。この地は、神田明神の発祥地Click!、エト゜(岬:etu)の先端にあった、なんらかの聖域だったのだろう。江戸期の資料を見てみると、東に神田山を目前にした柴崎村のこの地に、大きな塚(おそらく円墳)が築かれており、古墳碑も存在していたことがわかる。
   原日本語と思われる言語で今はアイヌ語に継承され、特に地名に数多く残っているようだ。
 江戸岬(エト゜は「岬」のほかに「鼻」「くちばし」といった意味があるが、わかりにくいので「江戸岬」と書く)の先端に、大きな墳墓を築いた勢力というのは、神田川や目黒川、多摩川、鶴見川などの河川流域に展開した、古墳時代の「南武蔵勢力」と呼ばれる連合王国だった可能性が高い。東京タワーの直近、巨大な前方後円墳・芝丸山古墳の埋葬者も、おそらく同じ勢力の“大王”の墓なのだろう。
 
 古墳時代とひと口に表現しても、かなり長い時代経過がある。そのある時期に、南武蔵勢力は入間川や荒川上流域など、埼玉(さきたま)を中心とする北武蔵勢力と対立していたようだ。もともとが血縁関係の勢力同士といわれているが、詳細はわからない。東京/神奈川の南武蔵勢力は、渡良瀬川や利根川上流域の上毛野勢力(北関東)とも連携していたようで、北武蔵勢力は関東で孤立していたのかもしれない。だから、近畿圏の大きな勢力である大和と結びついたのだろう。のちに、「武蔵国造の乱」(関西史的な呼称)と呼ばれる対立は深まることになる。
 この対立の関係、とてもよく似た構図がすでにどこかに存在している。そう、出雲の宍道湖をはさんで湖西(出雲勢力)と、湖東(松江周辺・玉造勢力)との対立の構図にそっくりなのだ。出雲勢力に圧倒された湖東の“王”は逃げ出し、大和の“王”へ支援を要請して軍事介入を招くことになる。結果的に、丸ごと出雲を乗っ取られること(国譲り)になってしまう。このとき、大和へ服従するのを嫌った多くの出雲勢力が、海路関東へと“亡命”してきて、関東各地へ、いや奥深く信州にいたるまで(諏訪の建御名方神ルートが面白い)、出雲の聖域や伝説を形成したのだ・・・と、わたしは想像している。彼らは、カンナ流しの産鉄技術と目白(鋼)の精錬技術に、ことさら優れた集団だったのかもしれない。つまり、少なくとも関東に“亡命”して、地域の既存勢力と融和し根づいた出雲の人々の目には、地域の対立を地域内で治められず、外からの軍事介入を招いた湖東の“裏切り者”の姿を、大和に通じた北関東勢力の“王”に見ていたのではなかったか。
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 「武蔵国造の乱」と表現されているが、国造(こくぞう)は「くにのみやつこ」ではない。大和朝廷の成立以前から、国造=“国造りの王”という概念は存在していたことが指摘されている。大和はのちに、国造(くにのみやつこ)制というカタチで“横取り”し、あたかも守護大名を任命するような制度として、本来とはまったく異なる用い方をしている。国造(こくぞう)つまり国を造った王家が、現在の出雲市に連綿といまだ存在するのも象徴的だ。「国譲り」をして消滅したはずの王家Click!が、21世紀の今日まで一貫して存続している。もちろん、「こんにちは」といって気軽に訪問できるようなお宅ではない。
 古墳時代の関東各地にも、もちろん国造=王家は存在していた。江戸岬の先端、あるいは日比谷入江を経て芝一帯を治め、巨大な古墳群を築き上げた王家とは、いったいどのような人々だったのだろう。そして、下落合付近に見られる、巨大なサークル群との関係も、とても気になるところだ。江戸岬の先端に大きな古墳を築いた“王”は、そしておそらくは産鉄技術に優れ、一帯を神田(カンナ:タナラ相通)とし、出雲神の聖域をこしらえ、目前の山を神田山と命名したらしい一族は、ふるさと宍道湖への憧憬を江戸湾に見て、岬を離れがたかった出雲の人々ではなかったろうか。

■写真上:神田明神の発祥地であり、神田祭の神輿渡御の出発点でもある、「将門の首塚」とされる柴崎村の古代聖域。(円墳跡) その後、鳥居龍蔵が関東大震災直後に撮影した写真Click!から、円墳ではなく前方後円墳らしいことが判明。
■写真中は江戸期以前のエト゜(岬)周辺の地形。神田山が日本橋埋め立てのため、崩される前の状態がよくわかる。は、明治期までの「将門の首塚」の形状。大きな円墳が、崩されずにそのまま残っているのがわかる。(ともに『史蹟・将門塚の記』将門塚保存会より)
■写真下は、1960年代の「将門の首塚」。この背後に、大きな円墳があった。は、神田祭で神田川をさかのぼり神田明神へと向かう、わたしのふるさと東日本橋2丁目の氏子神輿舟(2005年)。

この記事へのコメント

  • sig

    こんにちは。
    古代における北武蔵と南武蔵の勢力の確執と、古墳、地名、産鉄技術という角度から大和に組することを潔しとしなかった出雲勢力が関東に流れ、江戸の魁を築いたのではないかとの壮大な推論、興味深く読ませて頂きました。
    2008年07月21日 11:56
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございました。
    関東地方には、出雲の気配と産鉄の痕跡がひじょうに濃厚なことから、空想を大きくふくらませてみました。もちろん、それだけのシンプルな経緯ではなく、より重層的かつ錯綜した歴史が堆積しているのでしょうが、明治以降の「日本史」ではまったく触れられない(あえて無視されてきた)事実の側面ではないかな・・・とも思います。
    2008年07月21日 23:07
  • 考古学ファン

    薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
     そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸に四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
    2008年10月26日 12:23
  • ChinchikoPapa

    考古学ファンさん、コメントをありがとうございます。
    わたしはどちらかといいますと、朝鮮半島から渡来(侵略)してきた王朝がナラ(古・現朝鮮語=国)と規定した地域=近畿地方を興す(占領する)過程で、先住していた原日本の国々(諸民族と表現してもいいのかもしれませんが、古ポリネシア系の遺伝子を多くもつ人々の国々)と、侵略王朝(新モンゴロイドの遺伝子を持った人々)との間の軋轢や対立の過程が、さまざまな伝承として延々と語り継がれてきているのではないか?・・・というシチュエーションに、よりリアリティを感じています。
    その過程で、「イズモ」と表現された国(一枚岩とは限らない)の勢力も、「ナガスネビコ」や「ツチグモ」「クズ」(あるいは一時期の「キビ」や「コシ」も含まれるのかもしれませんが)とメチャクチャな蔑称で呼ばれたもともと近畿地方にあった日本の国々(諸民族)も、より東では「エビス」、東北あるいは北では「エミシ」「ミシハセ」「渡嶋エゾ」と、侵入王朝の記録では一方的に蔑まれ、中国/朝鮮の史書をコピーしたと思われる「蛮族」イメージで語られる諸民族(実は原日本の国々だった可能性がずいぶん以前から指摘されていますが)も、ナラとの間で軍事的・政治的な対立、あるいは時に「連合」と“パワーポリティクス”的な情況を繰り返す中で、徐々に政治的な中核域が形成されていった・・・という捉え方に、文献史学や発掘考古学だけでなく、遺伝子学や形質人類学、言語学、文化人類学などの成果を意識しますと、より想像力を刺激されて惹かれてしまいます。^^
    2008年10月26日 19:11
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。
     >kurakichiさん
     >さらまわしさん
    2015年02月22日 22:14

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