ページ全段が不倫騒動の朝日新聞。

 朝日新聞や毎日新聞が、1ページ全段ぶち抜きでひとりの女性の不倫騒動や離縁状、ついでに愛人との逃避行の様子を伝えたとしたら、いまの読者はどのような反応をするだろうか? 妻の側から、夫へ向けた三行半(みくだりはん)を紙上に公開掲載し、ついでに駅頭まで追いかけて愛人との逃避行の詳細まで記事に書かれていたとしたら、朝日や毎日の編集局はとうとう「いっちまった」と、おそらくいまの読者は思うに違いない。だが、「そんなバカな」と思うような報道が、1921年(大正10)10月22日に行われていたのだ。
 同時代を生きた長谷川時雨は、「ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間との交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽くせよう、到底及びもつかないことだ」と、『柳原燁子』(1922年・大正11)の冒頭で書いている。だが、これほどドラマチックな生き方をした女性は、当時でも、いや現在でさえなかなか見いだせない。夫とうまくいかない女性のことを、「○○夫人」というタイトルで小説化するのが、戦前から戦後にかけて流行ったけれど、菊池寛自身は否定しているものの、彼の『真珠夫人』はどうみても柳原燁子(あきこ)をモデルにしたものだ。菊池寛は、九条武子をモデルにした『無憂華夫人』も執筆している。
 柳原燁子は、九条武子と同様に佐々木信綱を師とする歌人でもあった。下落合に九条武子Click!が引っ越してきたのは、すぐ近くに柳原燁子が住んでいたからだろう。九条武子は、関東大震災直後の1924年(大正13)ごろに下落合へ転居してきているが、柳原燁子は大震災の年、1923年(大正12)に念願がかなって宮崎家へと入り宮崎燁子となっていた。九条邸と旧・上屋敷駅近くの宮崎邸は、目白通りをはさんで800mほどしか離れていない。このふたりの歌人の親交は、九条武子が下落合で亡くなるまでつづいている。
 柳原燁子、歌詠みのペンネーム・柳原白蓮の生涯は、あまりにも有名なので端折ることにする。つい一昨年(2003年)にも、斎藤燐の脚本で「恋ひ歌~白蓮と龍介~」(主演:三田和代・榎木孝明)が舞台にかかったばかりだ。大正天皇の姻戚である伯爵家で育ち、華族女学校(のちの女子学習院)を中退後、1900年(明治33)に北小路資武と結婚するが5年で離婚、1911年(明治44)には九州の“炭鉱王”伊藤伝右衛門と再婚、朝日新聞の連載記事から「筑紫の女王」と呼ばれるようになる。だが、彼女が書いた戯曲が縁で、帝大の労農派思想団体「新人会」の宮崎龍介(中国革命の孫文を支援した宮崎滔天の息子)と知り合い、1921年(大正10)に夫への絶縁状を朝日紙上に公開して駆け落ち。朝日新聞が柳原白蓮の言い分を掲載し、それに対抗するように毎日新聞が逃げられた夫・伊藤伝右衛門の弁明記事を掲載するという、前代未聞のスクープ合戦となった。

 当時のマスコミとしては、これ以上の格好のネタはなかったろう。由緒ある柳原家は貴族院議員、北小路家は没落貴族、白蓮によれば「無教養」な石炭成金の“炭鉱王”、周囲から「筑紫の女王」と呼ばれる薄幸でわがままな大正天皇の姪にあたる美しいヒロイン、左翼活動家で帝大生の恋人・・・と、もう脚本家や少女漫画家だって恥ずかしがり、これほど見え透いたリアリティのない登場人物たちを配したりはしないだろう。だが、これらはすべて現実に起きたことだった。朝日新聞の大見出しは躍る、「同棲十年の良人を捨てゝ/白蓮女史情人の許に走る」、「青春の力に/恋の芽生え」。こうして、「芸術と恋に生きた女性」という白蓮像ができあがった。どこまでが事実で、どこまでが“世間”の妄想で、どこまでが彼女自身の自己陶酔の産物だったかは、“白蓮事件”当初から判然としない。

 先日、西部池袋線(武蔵野鉄道)の旧・上屋敷駅周辺を散策していたら、とても趣きのある美しいお屋敷を見つけて立ちどまった。古い和風家屋なのだが、造りががっしりとしていて大正~昭和初期の建物のように見える。(のちに、一部が戦後に改築されていることを知った) 自由学園明日館にもほど近いこの界隈は、敗戦年の5月25日夜半の空襲にも焼けていない。お宅の表札を見て歩き出し、しばらくしてから「アッ!」と気がついた。このお屋敷こそが、「白蓮と龍介」が1923年(大正12)から暮らした家だったのだ。戦後はつらい生活もあったようだが、ふたりの暮らしは1967年(昭和42)に柳原白蓮が亡くなるまでつづいた。晩年の5年間、彼女は緑内障で両眼を失明していたようだ。宮崎龍介は、1971年(昭和46)に没っしている。
  
 われは此処に神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
 おとなしく身をまかせつる幾年は親を恨みし反逆者ぞ
                        (柳原白蓮・第一歌集『踏絵』より)
 わだつみの沖に火燃ゆる火の国に我あり誰ぞや思はれ人は
 我歌のよきもあしきものたまはぬ歌知らぬ君に何を語らむ
                             (第二歌集『幻の華』より)
 そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ(辞世)
  
 
 余談だが、豊島区が「雑司ヶ谷」(6~7丁目)という町名を、なんのいわれもない「西池袋2丁目」へと無理やり変更する1966年1月、宮崎龍介は「住民の声を無視する区には協力しない」と、区の文化事業への協力をいっさい拒否している。住民たちが起こした地名変更撤回の訴訟は、最高裁まで争われた。

■写真上:宮崎龍介と柳原白蓮の旧宅。現在も、同家には子孫が住まわれている。
■写真中:1921年(大正10)10月22日付けの東京朝日新聞。まるで現在の週刊誌のような、扇情的な見出しが随所に躍る。連日、このような報道が各紙上でつづいた。
■写真下:同じ仏教者の柳原白蓮()と九条武子()。佐々木信綱に師事し、ふたりは同人誌『心の花』を通じて親しく交流した。関東大震災のあと、柳原白蓮は上屋敷(あがりやしき)、九条武子は下落合と、歩いて10~15分ほどの近所に住んでいた。白蓮が逼塞して、ひとり中野の“隠れ家”に住んでいたころ、九条武子は自分で縫った綿入れなどを彼女のもとへ頻繁に差し入れしていた。九条武子の死後出版された歌集『白孔雀』巻末に、白蓮は寄稿している。
 「私が今の生活に馴れるまでの間を、たあ様(九条武子)はどんなに励まし、かつ慰めてくれたことであったろう、『あなたは幸福よ。』 この一言によって私は考えさせられた。人というものはどうかすると自分の幸福を忘れている事がある。幸福だという事を忘れれば幸福にはぐれてしまう、という事を教えられた。私は何といってあの方に感謝していいかわからない」・・・。

この記事へのコメント

  • エム

    この記事に触発されて柳原白蓮のことを書いた本を読んだり
    ネットで検索したりしました。
    1930年に「九条武子夫人 無憂華」という映画があって、
    脚本が柳原燁子になっていました。
    へぇ~、びっくり。
    2005年11月21日 17:29
  • ChinchikoPapa

    えっ、それはわたしもビックリです。柳原白蓮は戯曲も書いてましたので(それがきっかけで宮崎龍介と知り合ったわけですが)、映画のシナリオもそれほど手こずらずに書けてしまったのかもしれませんね。
    それにしても、主演の鈴木京子というのは、どのような女優だったものか・・・。引退したのが早かったのか、1941年以降は映画に出ていないですね。映画を観てみたいですが、まず無理でしょうか。
    2005年11月21日 22:14
  • 大分県民オペラ

    2007年秋、オペラ『白蓮』(原作 林真理子 台本、作曲 原嘉壽子)を大分で上演致します。
    よろしくお願い致します。
    2007年01月09日 19:10
  • ChinchikoPapa

    大分県民オペラさん、「白蓮」お知らせをありがとうございます。
    「筑紫の女王」の異名をとった、宮崎白蓮に興味のある九州方面の方、ご覧になってみてください。
    http://www6.ocn.ne.jp/~opera67/
    2007年01月09日 23:28
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!をありがとうございました。
     >pochi2さん
     >sigさん
    2014年09月11日 10:58
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2014年09月11日 10:59

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