下落合や目白というと、大正期から戦前まで、東京の山手の中の山手といわれ、特にツンとすました街のようなイメージがあるが、さにあらず、まるで下町の巫女や占い師のような、面白い人たちも住んでいた。昔の街には、どこかいかがわしくてうさん臭げな人が、町内にひとりやふたりは必ず住んでいたものだが、下落合にもそんな匂いのする人たちが、数は少ないけれどいたのだ。こうでないと、東京の街らしくなくてつまらない。
松居松翁(松葉/真玄※)といえば、明治末から昭和初期にかけて 劇作家あるいは映画の脚本家、翻訳家としてかなり有名だった。歌舞伎や舞台では幕末から明治にかけての“英雄”や政治家をテーマにした脚本を数多く残したり、松竹映画のシナリオを手がけたりした。歌舞伎好きの方なら、名前はよくご存じかもしれない。二代目・市川左団次や、岡本綺堂との交友は有名だ。近くに住み秋艸堂を構えていた、会津八一とも行き来があったかもしれない。会津と同じく坪内逍遥に師事し、『早稲田文学』の創刊時には編集委員もつとめている。その膨大な作品とともに、いまではほとんど忘れられてしまった存在だけれど、この人も下落合に住んでいた。単なる小説家や劇作家なら、別に下落合では珍しくないのだが、松翁は「隻手療法」(「霊気療法」とも)のスポークスマンとして、ことあるごとにその「霊験」を喧伝して歩いていた。
1932年(昭和7)に発刊された『落合町誌』では、「隻手療法」(正式には「隻手万病を治する療法」)運動の人気が、マスコミを通じて急激に高まり、「患者」が殺到してくるのを防ぐためか、『町誌』にはめずらしく「下落合」とあるだけで番地を公表していない。実は、聖母坂と目白通りにほど近い、「福の湯」近くの下落合617番地に住んでいた。
「隻手万病を治する療法」とは、臼井甕男が提唱した民間療法のひとつで、患部に手をかざすことで万病を治してしまうという「物理の方術」だった。『町誌』では、「隻手療法」のことをこんなふうに紹介している。
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「隻手療法」が発表されるや、世を挙げて其起死回生的効験に驚異し、都下新聞は国民保健の大運動を捲き起こすに至ってゐる。この療法の科学的根拠は光波のデスバッチで、それが動物の身体に応用される時、体内の血行を盛んならしめ、あらゆる疾患を一掃する・・・
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説明を読んでみてもよくわからず、なにやら頭が“デスバッチ”しそうだが、医者に見放された患者で、内科疾患はもちろん、外科の切傷や火傷などにも効き、治療を始めればたちどころに治ってしまうそうだから、「光波のデスバッチ」の威力は、21世紀の東西洋医学も及ばないスゴイのひと言といわなければならない。確かに、患部に文字通り「手当て」を行うと、痛みがやわらぐ気がするのだが、それが「光波のデスバッチ」によるものかどうかは知らない。実際に、松翁も治療をほどこしたらしく、そのルポルタージュが当時の雑誌に残っている。「死者」を甦らせた・・・なんてことまで、そこには書かれていた。
週刊誌の中で、松翁は「この療法を知って以来のわたしの気持は、とても凝乎として芝居なんか書いていられない様な---実際を告白すれば、まあ、そんな風な気持になっている。わたしが一生懸命にこの療法を宣伝して、自分の理想を実現する時が来れば、日本は実に極楽になるのだ。いや、延いては世界中が無病息災のパラダイスになるのだ、ああ、一人にでも多く宣伝したい」と、もうなにかに憑かれたような発言をしている。『町誌』では、こんなふうに結んでいる。「決して精神的とか霊的とかいふものでなく、この現象は医学者としても看過すべきでないと思ふ」・・・。
『落合町誌』の著者は、取材をさせてもらい、写真まで撮らせてもらったせいか盛んにヨイショしているけれど、その後、「光波のデスバッチ」が東洋医学あるいは西洋医学にも取り入れられたとは、わたしの知る限り聞いていない。『落合町誌』が出版された翌年、1933年(昭和8)6月、松居松翁は尿毒症で急死している。「霊験療法」家の不養生とでもいうのか、「光波のデスバッチ」は自身の病気にはまったく効果がなかったようなのだ。
なんとも不可解な話なのだが、でも、こういう人がいるからこそ、東京がますます面白くなり、格好の話題を提供して街が楽しくなるのは間違いなさそうだ。
※『落合町誌』では、本名を「松居玄真」と記載されているが「真玄」の誤植。
■写真上:大正期から営業をつづける「福の湯」の煙突。
■写真下:左は、松居松翁が『落合町誌』の取材を受けた4年後、1936年(昭和11)ごろ福の湯(現在も同所にある)近くの松居邸。大正末まで稲村邸だったところで、『町誌』に書かれたころは、下落合へ引っ越して数年しかたってなかったと思われる。右は、大正期と思われる松居松翁(葉)のプロフィール。
この記事へのコメント
kenta-ok
ChinchikoPapa
ディスクジョッキー
もしかして、子供がまだ小学校の時
ここのお風呂屋さんが健康ランドみたいな所だと
子供達のお母さん達から聞いた事があったような
確か、せせらぎの里近くだったような・・・・・・。
ChinchikoPapa
踏み切り近くの「福の湯」さんは、いろいろな仕掛けのお風呂やイベントが行われているようで楽しそうです。うちのオスガキどもは、何度か行ってるはずです。
みやしげ
以前からちょくちょく覗いていましたが、この話題だと書かない訳には…
私は中落合3丁目の生まれ育ち(現在は練馬区在住)、そして私のオヤジも下落合生まれ育ちであります、ちなみに二人とも落一の卒業生。
さて福の湯の次男坊は(現在のご主人はお兄さんだと思いますが)私の落一時代の同級生でして、さんざん彼の家(というか福の湯)で遊びました。それこそ庭でも、番台でも、裏のボイラー室でも、脱衣場でも、どこでもかしこでも、、
坂下の福の湯さんは、たしか関係ないはずです。
福の湯のご家庭は3代続けて落一の卒業生です。おじいさんはなんと落一プールの敷地(坂の下にちょっと下がっているアレ)を寄贈したという話聞きました。お兄さんのお子さんがいらっしゃれば、4代続けて同じ小学校という、ニュースソースになりそうな話題です。
ちなみに私の実家も下落合→中落合で70年商売やっておりました。しかし山手通りの拡張で廃業しております。東京は400年の間、開発され、拡張され、改造され続ける街。
繁栄の裏にはいろんなドラマがあるんです…
みやしげ
http://blog.goo.ne.jp/miyasaku_shigeyoshi
スクマール
心身改善臼井靈氣療法について調べていてこちらのプログに出会いました。
松居松翁氏は「双手」療法でなく「隻手」療法だったと思いますが、『落合町誌』の取材では「双手療法」と答えていたのでしょうか?
もしもよろしければ出典元のページとタイトルを教えていただけないでしょうか?
図書館を通じてコピーを取り寄せたいと思いますので、どうかよろしくお願い致します。
ChinchikoPapa
「福の湯」さんは、聖母坂の上下にあり、坂上は大正期の事情詳細図から記載があって坂下は戦後ですから、てっきり経営が同じか「分家」だと思ってました。ぜんぜん関係がなく、たまたま偶然に同じ「福の湯」だったんですね。
落一のプールの件は、初めてうかがうお話です。このプールにつきましては、お年寄りから若い方まで、体育館ではなく「講堂下の古いプール」として強烈な印象を残しているようで、落一の取材では必ずお話に登場したテーマでした。「福の湯」さんが、土地を寄贈したとはどなたのお話にも出ませんでしたので初耳です。こんな物語が隠れていたとは・・・。貴重な情報をありがとうございました。重ねてお礼申し上げます。
ChinchikoPapa
ときどき拝見させていただきます。(^^
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
■落合町誌(落合町誌刊行会/1932年・昭和7)
319ページ 「松翁 松居玄眞(ママ)」 2行目~8行目(分割引用)
■サンデー毎日(1928年・昭和3年3月4日号)
14~15ページ 3段目 16行目~26行目
それから、「双手」ですが、これはスクマールさんがおっしゃるとおり「隻手」が正解で、「双手」はわたしの誤読による略字化のミスです。さっそく、記事の当該箇所を訂正させていただきました。ご指摘くださり、ほんとうにありがとうございました。
スクマール
図書館へは(遠いので)いつ頃行けるかわかりませんが、コピーを取り寄せていただけるようお願いしたいと思います(サンデー毎日の記事はネットや本で紹介されており読んでいます)。
松居松翁氏が学んだ療法は、正式には「心身改善臼井靈氣療法」というのですが、学会本部のあった東京が空襲にあったこともあって昔の資料というものがないそうなんです。
松居氏にも霊気療法に関する著書があるそうなんですが、ここ数年ずっと探しているのですが見つかりません。
ですから落合町誌の記事もページ数は少ないようですが、わたしにとっては貴重な資料です。
ご紹介いただきありがとうございました。
ChinchikoPapa
http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/matsui319P.pdf
ダウンロードがお済みなりましたら、ご一報いただければ幸いです。いろいろと、ありがとうございました。
スクマール
Chinchikoさん、ご親切ありがとうございました! <(_ _)>
ChinchikoPapa
こちらこそ、誤りをご指摘いただき助かりました。ありがとうございました。
<(_ _)>
ChinchikoPapa