
田島橋は、神田川にかかる橋の中でも意外に古い橋だ。板橋が土橋に架けかえられたのは、江戸期の1791~92年(寛政3~4)となっているが、それ以前から板橋が架けられていたことがわかる。地図は残っていないが、落合丘陵下を貫く鎌倉街道の道筋がついた時代から、すでに橋は存在していたのかもしれない。そのころの橋名は、もちろん「田島橋」ではなかった。単に、「川橋」とか「畝橋」と呼ばれていたのだろうか。
では、田島橋となった謂れについて、金子直德という雑司ヶ谷に住んだ人が、寛政年間に著した『和佳場の小図絵』(わかばのこずえ)から引用してみよう。
●
御公義普請にて板ばし成しを、寛政三年より四年の春迄に土橋になし給ふ。昔、安藤対馬守様の鼠山御屋敷より大久保原の辺に、野屋敷という御遊地ありて、狩など有し時、たじまの守様の通路に懸給ふ故、今にその名と成と也」
●
安藤対馬守が利用したのなら「対馬橋」となりそうだが、いまひとつ要領をえない記述だ。但馬守の通路に架かっていたから「但馬橋」と呼ばれるようになり、そのうち「田島橋」の字が当てはめられるようになったとのこと。寛政時代前後の但馬守には、土屋但馬守と秋元但馬守がいる。前者の下屋敷は麻布なので、この橋を利用する可能性はほとんどない。浜町の中屋敷で水心子正秀(新々刀の巨匠)を庇護していた、秋元但馬守の下屋敷は淀橋(現在の都庁あたり)だから、可能性としてはこちらのほうが高いだろうか。
※その後、安藤家では「但馬守」を受領していた時期があったことが判明し、「田島橋」の謂れは下落合の安藤但馬守下屋敷にちなんで付けられたものと思われる。
下落合界隈の神田上水(神田川)にかかる橋の中で、田島橋はもっとも大きくて立派な橋だ。これには、大正末から昭和初期にかけて、十三間通り(新目白通り)を通す計画があったからだ。氷川神社の目の前にあった下落合駅前から、十三間通りは南へ大きくカーブして田島橋をわたり、現在の栄通りを大幅に拡張して高田馬場駅前で早稲田通りと合流するはずだった。それが、下落合駅が西へと移動Click!してしまったのと、早稲田通りの交通量が増えたため、最終的には合流をあきらめて学習院下へと貫通することになる。大きな田島橋は、十三間通り計画の名残りというわけだ。
そしてもうひとつ、田島橋から上流の落合土橋にかけては、江戸時代に「落合蛍」の名所として有名だった。太田南畝(蜀山人)の『ひともと草』(1806年・文化3)から、田島橋付近の風情を引用してみよう。
●
大江戸には王子のふもと石神井川又谷中の蛍沢に多くありといへども、此所(下落合村)にくらぶれば及びがたかるべし。あるは若き女の川辺を団扇にて飛行光を遂ひうち、はらふけしき、瑶階の夜のすずしきにひとしく、かかる川辺にさまよひて詩をも歌をもつらねたらんはまことに命ものぶる心地やせん。
●

いまからは想像もつかない、清冽な上水(水道水)が開渠のまま流れる田島橋界隈は、そこかしこで蛍川が観られたのだろう。雑司ヶ谷の金子直德が編集した、『富士見茶屋抄』という句集が残っている。その中に、田島橋はこう詠まれている。
田島橋の鶴
田鶴啼や 尾花にわたる 浪の色
かげろうに ねぶりこけるな 橋の田鶴
神田上水の両岸に拡がる一面の田圃で、鶴が舞っていた田島橋は、いまアプラコウモリの格好の営巣地となっている。
■写真:現在の田島橋。正面に見えるあずき色の建物は、東京富士大学の本館。左手は、レトロな変電所建屋。この変電所については、改めてまた書いてみたい。
■図絵:新宿歴史博物館で所蔵される「落合惣図」(部分)。右手に見えているのが田島橋。中央上には藤稲荷社、その下には氷川明神女体宮がある。右下には妙正寺川と神田上水が落ち合う地点が描かれ、「一枚岩」の記載が見える。この「一枚岩」の位置をめぐっては、過去、地元でいろいろな議論がまき起こった。

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この記事へのコメント
Mimura
DJブログのコメントとこれ!
実家に帰りたい!
あの富士大学も大変だったらしいです!
建てる時に実家近所の皆さんとの話し合いがあって・・・・・・。
ちなみ、あの大学建てる前の管理人さんの娘さんも
私と同じ高校の出身です!
つまり、小道さんとも同じです!
もちろん、私と小道さんより年下です!
ChinchikoPapa
富士短期大学だから、当然「富士大学」になるのかと思っていたら、「東京富士大学」とネーミングされました。どうしてだろう?・・・と思ったら、東北にすでに「富士大学」が存在するのですね。富士山の見えない岩手の大学なのに、なんでまた・・・と、大学当局は悔しがったんじゃないでしょうか。(^^
小道
峻介自身がよく歩いた道なのでしょう。
彼は良く橋を描いていますが、田島橋もどっちかというと無名な橋。
そういうものを捕らえる彼の視線が、一番の興味ある点です。
ChinchikoPapa
彼は旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)、ちょうど吉屋信子邸と林芙美子邸の上に住んでいましたが、耳のせいで召集もされず、おそらく妙正寺川から神田川にかけて、戦時中も頻繁にスケッチ散歩をしていたんじゃないかと思います。
ディスクジョッキー
あの実家近くの橋が本の中に出てくるとは・・・・・。
読んでみたいものです。
あの変電所も古いですよね
私が物心ついた時からありますからね。
ただ、あそこで24時間構わず不定期
大きな音がど~んして、
家の者が言うのは
今年の夏はクーラーかなんかの大きい音で
眠れなかった!ぼやいてました。
ChinchikoPapa
ど~んという音は、電源設備が古いせいでしょうか。まさか、大正期の設備は使ってないとは思いますが・・・。(^^; 小道さんのコメントもいただきましたので、明日にでも松本竣介と田島橋について、記事を書いてみますね。(^^
あれっ? 小道さんとは、なにかまだ記事のお約束をしたような、しなかったような・・・。(汗)
小道
明日、楽しみです。今の東京は、あまりに変わり過ぎて、峻ちゃんの歩いた町を彷徨することが不可能になってしまいました。
ChinchikoPapa
わずか60~70年前の松本竣介が描いた東京の風景でさえそうなのですから、北斎や広重が見た大江戸となると、もう残っていれば奇跡に近いです。でも、なんとか風情が残っているところもあるんですね。(^^
耿之介
夢酔独言に藤稲荷に百日参詣した話しがでてきますが、「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるほどお稲荷様が多い江戸で、本所から参詣するほどご利益があるお稲荷様なんですね。今度お賽銭あげに行ってきます。でも尻はしょって本所から下落合まで韋駄天走りする小吉っつぁんの姿を想像すると笑ってしまいます。
タタラとおろち伝説、氷川神社、古墳等に関する考察も大変勉強になりました。
今後も楽しみに読ませていただきます。
ChinchikoPapa
「目白文化村」サイトを、いちおう書き終えてから、その後さらに書き足したいテーマがいくつか出てますので、またオルタネイトテイクとして突然、再開するかもしれません。文化村も、1960年代までは下落合3~4丁目だったわけですから、「気になる下落合」と「気になる目白文化村」との境界がテーマによっては曖昧で、どちらに含めようか迷いますね。
「藤(森)稲荷」ですが、江戸期には現状からは想像もできないほどの広大な境内を持った、かなり立派な社でしたので、高田馬場も近く蛍狩りで有名だったこともあり、幕臣たちには案外なじみや土地勘のある、通いやすいエリアだったのかもしれませんね。
益田
早稲田の西北に一箇の犀ヶ淵ありて、現に百年ばかり前まで、時々
「サイ」の出現せしことあり。高田の面影橋の一つ上流にして但馬橋
の下なり〔十万庵遊歴雑記三編中〕。今は付近に下宿など出来たれ
ど、つい先頃までは物凄き魔所なりき。薄暮に水中より半身を顕わす
を遠く望み見たる者ありと称し、或は幅三間ばかりの小川なれば獣と
しては調子が合わぬより、「サイ」と称する悪魚などとも記載したる者
あり。
とあったので、但馬橋で地図で調べてなかったので、検索してここにきました。
ChinchikoPapa
「サイ」ですか。(シャレではないです(^^;) その「サイ」がいわゆる「サイの神」だとしますと、それが奉られている場所は下落合付近では見聞きしたことがないですね。「才」とか「塞」とか「口」とか、民俗学ではいろいろな字が当てはめられて語られるようですが、「サイ」伝説はいまだ下落合で聞いたことがありません。
少し北側の氷川明神付近には、「ガシャ髑髏」と「大蛇(おろち)」の伝承がいまに伝わっています。
さて、「サイ」とはなにを表現したものでしょう。世田谷(セタヤチ)と同じく、ニホンオオカミ=セタでも棲息していて、別名「サイ」と呼ばれていたのでしょうか。
益田
日本には犀は居らぬ筈なり。犀は山野に住む獣なれども、別に水犀と称して三本の角ある者は水牛に似たりと支那の書に見ゆる由、朝鮮にては犀
を誤って水牛のことと解する者ありと云えり〔雅言覚非三〕。
日本にても或は亦此の誤訓を伝えたるものか。但し台湾の外には今は犀と
誤るべき水牛も存在せざればよほど不思議なり。蓋し「サエ」又は「サエト」
は、往古境の神を祭りし畏ろしき場処のことなれば、或は此が為に「サイ」
と云う怖るべき一物を作り出し、之を処々の碧潭に住ましむるに至りしやも
亦測るべからず。
読んでる途中なので柳田の妖怪譚の結論までいかないのですが、私は
竜の湯という銭湯によくいくのでここを何度か通過したことがあります。
ChinchikoPapa
「落合の近傍神田上水の白堀通にありて一堆の巨巌水面に彰れ濫水巌頭にふれて飛驪す/此水流に鳥居が淵 犀が淵等その余小名多し/此の辺ハ都て月の名所にて秋夜幽趣あり」
この記述によれば、川の流れを遮る一枚岩の存在から、いろいろな水流や水淵が生じて、それらを「鳥居が淵」に「犀が淵」と名づけたものでしょうか。「鳥居が淵」は、すぐ近くが氷川明神の社域でしたので、なんらかの関連がうかがえますけれど、「犀ヶ淵」は一枚岩自体の形状から、それが妖怪変化に見えたので付けられた名称でしょうか。
記事末に、「鳥居が淵」と「犀ヶ淵」が描かれているとみられる、江戸名所図絵の田嶋橋上流「一枚岩」ページを掲載しました。犀ヶ淵の記述も拡大しておきます。ご参照ください。
益田
今は付近に下宿など出来たれ
ど、つい先頃までは物凄き魔所なりき。
や、
蓋し「サエ」又は「サエト」
は、往古境の神を祭りし畏ろしき場処のことなれば、
という感じが少しします。
今度行くとき廻ってみようかとも思います。
ChinchikoPapa
一時期、「一枚岩」の位置をめぐって、落合側と高田側との間で“論争”があったそうですが、このあたりの神田上水のあちこちに、川底から露出する大きな岩盤があったのだから、「一枚岩」は落合から高田にかけの流域随所に存在した・・・ということでいいじゃんと、なったとかならなかったとか。(笑)
でも、「落合の・・・」と書かれている以上、落合土橋あたりから田嶋橋間のどこかににあったと考えるのが、やはり自然のように思います。
益田
遠野物語については、以下のようなブログを見つけました。
http://wildcatseeker.cocolog-nifty.com/wcseeker/2007/04/post_e1c7.html
変わってしまった地名が多く調べるのに異様に時間がかかるのです。
今読んでいる妖怪話の諸国寄せ集めのような本も、地名は受け流していたのですが東京で知っていそうな場所なので探しました。
なぜ柳田が噂話に類するようなものを集成しているのかまだよくわからないので、どのような態度で現在の場所と俗話を関係付けたらいいか漠然としてますが、但馬橋近辺の銭湯には必ず行く予定があるので、気にかけています。
ChinchikoPapa
鳥居龍蔵は戦前、古墳ばかりでなく東京から関東全域に残っているメンヒルも調査していますが、実は関東地方にも数多く残っていたのに、惜しげもなく壊されていった・・・ということなのかもしれませんね。「一枚岩」とは、自然の造形物か人工の構造物の別を問わず、そのようなメンヒルの一種だったのかもしれません。早稲田あたりから上落合まで、ちょうど神田川流域に伝わる「百八塚」の中心部あたりが、下落合の丸山(田嶋橋の北側エリア)周辺と思われますので、「一枚岩」の存在は以前からちょっと気になってはいました。
新宿区が編纂した、伝説・伝承類の資料にあたってみたのですが、「犀が淵」のいわれと思われるフォークロアは見あたりませんでした。柳田国男が「犀が淵」を記録にとどめたのは、どこかで採録したメンヒル周辺に伝わる伝承と結びついたからなのでしょうか。
益田
「19世紀前半、文化・文政期のころ、隠居の僧十方庵大浄敬順は携帯コンロと煎茶道具を携え、江戸内外の名所旧跡を訪ね歩いた。道行く人、道の草木、風の色をもふかい愛情でつづり、200年前の江戸を髣髴させる。」
とあり、図書館にあるようなので借りてみようかと思いました。
柳田自身は私の数冊読みかじりの認識では、遠野物語に対する反批判で、歴史上の事実でなくても当時の人たちの心の中に実際起こった事なのだ、という言い方をして、そのまま記述すればただのお化け話で終わるところを、わざわざ漢文調の文体にして厳めしい感じに仕上げて効果を発揮していますが、犀が淵について河童駒引についての川牛の項に引用している文章も似たような工夫が見られます。「淵は兎に角怖しき処なり。あの紺青の水の底には動物学の光も未だ透徹し得ざるが如く、此の外にも非常なる物之に住むと云えリ。」
こうした独特の演出が水木しげる氏の絶賛を受けたのかとも思いますが、私自身は読みが足りなくてメンヒルについて柳田の関心はまだ読んでないのですが、石については、「東京小石川の牛天神の牛石は、石の上に窪みありて昔は之に塩を供えたりという。或は又海中より出現せし天神の乗り物の化石したるには非ざるか」などとあります。
ChinchikoPapa
> なのだ、という言い方
この視点、いまとなってはたいへん貴重な視座だったということになりそうですね。のちに、整えられ「化粧」をほどこされてしまった「公的な歴史」、それに見あわないものはさっさと捨象されて顧みられなくなってしまった中にこそ、実は、さまざまな課題や謎を解くカギ、ヒントが隠されているのかもしれません。特に、地域史との関わりでは、たいへん重要なテーマだと思います。なんらかの事実関係があったからこそ、あるいは必要性に迫られたからこそ、産まれて語り継がれてきた伝承なり伝説ではないのか・・・という切り口ですね。
「牛」というと、「件(くだん)」やスサノウ(牛頭天王)伝説をすぐにも思い起こしますけれど、江戸期まで、面影橋の北側に位置する氷川明神はスサノウ1柱、田嶋橋の北側にある氷川明神はクシナダヒメ1柱、そしてその西側にある七曲坂に大蛇伝説が伝わっているのも、神田川(江戸期以前は平川)の周辺に出雲の伝承がきわめて濃厚なのが感じられます。
氷川の伝説と斐川の伝説とがオーバーラップするように、各地の「犀」伝説が重なってきますと、消されてしまった歴史、あるいは地域の新しい物語が見えてくるのかもしれません。
益田
神社が祭られる場所はそれが始め水源地だったからではないか、というような記述もあったと思うのですがわかりません。今読んでいるところは駒引きから猿回しになり、毛坊主というか野山伏や陰陽師の話になってしまってるんですが、乞食はもとホイトといい、正月に祝詞をあげて布施してもらっていたものが、だんだん迷信とされて遂にはただの物貰いになった、というような説明は本当かどうか知りませんが興味深かったです。
ChinchikoPapa
直接、柳田の著作からではありませんが、御留山の山麓にある「藤」と、下落合の西端に2箇所ある「五郎(御霊)」の伝承について、以前こちらでも触れたことがありました。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-01-08
「藤一族」は、水源地や湧水地の卜術を一手に引き受けていた、古代の集団だったようですね。
わたしも、柳田国男はかなり以前(学生時代)に読んだのですが、今となってはほとんど記憶がおぼつきません。でも、一度でも目を通しておきますと、なにかの機会に「この伝承や伝説の構図は、どこかで見たような・・・」というカンのようなものがひょっこり底のほうから顔を出し、急いで民俗学関連の本をひっくり返してみることになります。このサイトでも、下落合のあるキーワードに触れますと、そのような作業になることが再三ありました。(^^
益田
こちらにのせてしまいました。削除してください。
お詫びに調べたところ、犀が淵はやはり岩ではなく猫のような犬の大きさの化け物とありました。
遊歴雑記第三編
巻の中
六拾三
豊島郡高田村十二景
六拾四
拾位高田の十景
にかなり詳しく岩のこと、化け物のこと、そのた近辺の風物が乗っているようです。
ChinchikoPapa
犬サイズの猫というのは、すぐにヤマネコを連想しますけれど、惹かれますねえ。
ひとつ上のコメント、さっそく削除いたしました。
益田
「犀が淵の月光といふは、田島橋の下にして、此の淵に悪魚住て今も猶もの凄し、左はいへ逆流に目明の朧たる風色又一品たり、去し文化十一年申戌の夏楽山翁は家族六七輩を同道し、此川筋に釣せんとして不図ここに来たり、川端に適して逆流の一際すさまじく渦まくよと見えしが忽然として水中より怪獣あらわれたり。その容貌年経し古猫に似て大さ犬に等しく、惣身白毛の中に赤き処ありて、斑に両眼大きく尤丸し、口大きなる事耳と思ふあたりまで裂、口をひらき紅の舌を出し、両手を頭上へかざし、怒気顔面にあらはれ、人々に向ひて睨みし様なり、水中と岡と隔といへどもその間わずかに三間余、頭上毛髪永く垂下りて目を覆ひ、腹とおぼしきあたり迄半身を水上へ出し、しばらく彼人々を見詰にらみしかば思ひもふけず恐怖せし事いふべからず、耳はありやなしや毛髪垂覆ひし故見へざりしが、頓て水中へ身を隠し失たりしと、若此時楽山翁のみならば、件の妖怪飛かかりやせんと彌驚怖し宿所に帰りて件の怪物を見しまま書きとどめ、文を作り詩を賦して筥に収めたり、蓋彼怪獣の容軆を書きし様は獺の功を経しものが、又世に伝ふ川童なというものにや、画にて見るさへ身の毛彌立ばかりぞかし、況や思わず真の怪物にあひたる人をや、珍説といふべし、然るに岡田多膳老人は如是と称して佛学を好めり、性として斯かる怪談を好るが物好にも心づよく、彼怪獣を見届んと両度まで独行し、彼処の川端に躊躇せしかど、出遭ざりしと咄されき、是によって土人悪魚栖りと巷談す、しかれども月光の晴明にして雅景なるは一品なるものおや。」
楽山翁が書いた絵、とありますが誰だかわかりません。岡田多膳老人しかり。
ChinchikoPapa
広重の「観音霊験記」の1枚に、「犀ヶ淵」の記述が見えますね。ここに登場する豊嶋郡がどのあたりで(石神井付近でしょうか?)、「犀」が現れた川も何川なのかは不明ですが、ここでも悪魚として伝承されているようです。
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/chichibu/gendai32.html#
益田
六拾三
豊島郡高田村十二景より
「一、一枚岩の鮎といふは、初編に述べしが如く、田島橋の川下面影橋の上に、大岩河中にありて長さ数十間幅凡そ三間余り、その岩中高に亀の甲に似たる逆流左右へわかれて、汀より大岩へ飛び越えるほど也、水増時は石面わずかに出、水枯れる時は大石みな現れて亀の甲を干したるが如し、その大岩の左右水みなぎり流れ逆音又高し、此早瀬に数千の鮎の魚の下流より登る様は実にめずらしく、ザルをもってすくい取りあり釣するあり、佳境又いうべからず、又酒に興ずるの徒は水上より盃を流し川下にありて取り上げて楽しめるもあり、曲水の雅宴ここに足ぬべし、但し此処畦道にして農田の通いのみにて、草深くまた低ければ、五月より八九月の頃までは、蝦蟇毒蛇及び悪虫の恐れなきにしもあらず、依って二月の末より卯月の頃まで、彼処に来たりて逍遊する雅客少なからず、斯かる面白き勝地ありといえども、東武の人見聞ざれば知らざる人おおむね八九分はあらんか、絶倫の美景の埋もれたるは遺恨というべし、又侠客の徒は炎熱のみぎりを避けんが為に、ここに来り水に浴し逆流に遊人もありとなん。」
とあるのですが、「初編に述べしが如く」の初編を取り寄せて見ると記述が姿見橋へと変わっています。
ChinchikoPapa
結局、神田上水のそこかしこには、川底から岩盤が多く露出していたから、「一枚岩」もその名とは異なり1枚とは限らず、落合あたりから面影橋あたりにかけて、何枚も露出していたのだろう・・・ということで、いちおう“決着”がついたのだと聞いています。
竹田助雄の「落合新聞」だったでしょうか、この“論争”の経緯を解説した文章も、どこかで読んだ記憶がありますね。
益田
遊歴雑記初編の中第八下高田村一枚岩の事實より
「武州豊島郡下高田村一枚岩と云うは、姿見橋の川上凡そ三町に有り、則南蔵院といえる寺の門前、畦道を左へ取りて西へ行事、溶り曲がりて三四町にして一枚岩に至る、沾涼もしらずして尋ねざりしにや、江戸砂子にも載りざりしは恨みと云うべし、此一枚岩と云うは、本来神田上水の川上たり、承応二壬辰年玉川の水と猪の頭及び妙福寺等の池水を引きて、雑色村の下において両水西南より一つに合し、是より幅広く落合て、下は組馬場姿見橋を過ぎて東流し大あらい堰に至る、両川筋一つに合するが故に、落合の号ここにおこる、其所今比丘尼橋の川下是なり、されば上にいう両水を御府内に引かんと落合まで掘割来たりしが、此処に長さ拾五六間幅は七八間もあらんか、一枚の大石土中に横たわりて、掘割る事成り難し元来此石性堅く殊更根深く、次第に石の裾広がりて大サを知るべからず、さればとて此石を除て際へ川筋を掘割る時は、又侯敷多田畑の損失有ゆへに拠なく、彼大石を左右に水筋を掘りわりたれば、逆水落合村より段々流れ来たりて、此処の大石にあたり水左右へ別れ、石を過ぎて後又両水一緒に会流して、末は姿見の橋下に至る、されば彼長さ拾五六間幅七八間の大石は、常に水上に出恰も亀の甲を干したるが如し、雨天つづき水増す時は、石隠れ、又打つづき快晴して水枯れ少なければ、大石過半顕れ、両岸のみ水通行して河中の石上に飲宴す、又一品と云うべし、此所水は大石にせかるるが故に、逆流一入清潔なれば、興に乗じ川上より盃を流し、石の下流に至て是を拾う、曲水の雅宴とは是真の稀石にして一個の勝地成れ共、片鄙の僻地ゆえ、人の知らざるは恨みと云うべし、殊に石上に安座して四方を眺望すれば、西北には遥かに芙蓉峰より山々はこなたにつづくか如く、鼠山七曲り坂藤稲荷等を眺め、又西南は大久保より和田戸山諏訪明神の木立抔間近く景望し、風色の能に至りては、兎角の論なし、ただここに遊歴するは四月より八月までは、畦道草深く毒虫の恐れなきにしもあらず、九月の末会式の頃より春は農夫の田を打比迄に、彼所をさがし逍遥せば可ならんかし、予昔拾九や二拾才といはれし頃、学友にすすめられ水練を習うには、人の見るは恥ずかしければ、或時は巡行の詩会よりここに至り、又は会談の席より同道して、平松岩吉、只木孫次郎、堀田文之助、僧可終等と度々此一枚岩に至り、水に浴し逆流を遊ぎて慰みける事も有りしか、此地の風景昔にかはらずといへども、四十余ヶ年の今は、只木と愚老のみ活きのこり、只木も中古より柔兵衛と改名し、公務には私なく従来武人とはいいながら、近年酒も減少して気力落ち、一両年己来徳本に帰依して、日課の念仏怠らず、既に念仏徳益の記を作れリ、予は牙齢ぬけ落ち相好昔に異也、只替らぬ物は天造風色にこそ。」
これだと面影橋の川上凡そ三町ということで高戸橋あたりのくねったところかなとも思うのですが、南蔵院といえる寺の門前、畦道を左へ取りて西へ行事、南蔵院といえる寺の門前、畦道を左へ取りて西へ行事、溶り曲がりて三四町にして一枚岩に至る、というところの溶り曲がりてというところ、溶の字に「ウ子」とルビがあるのですが意味がわかりません。
ChinchikoPapa
そもそも、幕府が採集した橋名が逆であり、その後『新編武蔵風土記』を種本にした地誌が同じ間違いをエンエンと繰り返し、実際に現地を訪れ取材した人たち(尾張屋や広重など)が制作した切絵図や図絵が正確な橋名を採集できたのだ・・・と考えています。この2つの橋名は、本来まったく別の流れにかかる別の橋名だったと思われます。このあたりのこと、以前にこちらでもご紹介したことがあります。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-05-20
ご紹介いただいた資料は、神田上水と並行して流れていた小川、ちょうど南蔵院や氷川明神のすぐ南側の小流れにかけられていた「俤(面影)橋」のことを記していると思われます。現在の面影橋は、本来は「姿見橋」と呼ばれていたと想像するんですね。
ご引用の資料は、幕府が採集を間違えた『新編武蔵風土記』をベースに書かれているのではないかと思われます。つまり、「姿見橋の川上凡そ三町」というこの川は、神田上水のことではおそらくありません。南蔵院の境内に沿って流れていた小川にかかる「俤橋」(幕府資料は「姿見橋」)のほうだと思われます。この間違いは、幕府の資料をベースにした明治以降も踏襲それて、姿見橋を面影橋と呼ぶようになったのではないかと思います。
小川にかかる俤橋(姿見橋)から、西へクネクネ曲がった道を400m前後行くと「一枚岩」があった・・・ということですので、田嶋橋からはずいぶん下流になりそうです。しかも、川の中にはなく、「一枚岩」は土中にあったと書かれていますので、くだんの「一枚岩」とはまったく別のものとなりますね。やや不正確な記述もみえて、玉川上水と神田上水が同時に引かれたようなニュアンスで書かれてますけれど、玉川上水は神田上水のかなりあとの時代になります。「妙福寺」は「妙正寺」の誤りですが、「一枚岩」はもともと神田上水にあるもの・・・とも書かれていますから、この著者は「一枚岩」は本来、神田上水の中にあるということを、よく認識しているようですね。
「溶」は「うね」と読みます。「子の刻」の「ね」ですね。「畝」や「畦」と書かれることも、江戸期の文献には多いですね。
益田
益田
ChinchikoPapa
「畦道を左へ取りて西へ行事、溶り曲がりて三四町にして一枚岩に至る」・・・という記述は、神田上水沿いの話ではなく、灌漑用水にかけられた俤(面影)橋(地元の伝承)を、左折して西へ「砂利場」の北側の田畑をウネウネたどっていく・・・というように解釈しました。
神田上水にかかる姿見橋(現・面影橋)の高田村側は、上水が氾濫を繰り返していたため田畑を耕作できず、砂利採集と洪水の緩衝帯としての「砂利場」が拡がっていたと思いますので、田畑の畦道を歩いていく・・・という記述とは一致しないように思うのですが。
益田
「文化九年(1812)、江戸は小日向(こひなた)にある廓然寺(かくねんじ)の住職を五十一歳で退き、悠々自適の隠居暮らしを始めた十方庵(じつぽうあん)こと大浄敬順は、たっぷりの余暇(生活そのものが余暇と化していた)を近郊の散策と小旅行に費やした。その印象をこまごま記したのが『遊歴雑記』。五編十五冊からなるこの書には、文政十二年(1829)、彼が六十八歳になるまでに綴った紀行や散策の記が、実に九百五十七話も収めされている。 」とあるので、1781年か80年、安永か天明の頃遊びに行ったことになりますね。
ChinchikoPapa
この支流は、神田上水から分岐するとともに、現在の目白駅のある谷間、金久保沢からの湧水も吸収し、あるいは現在の学習院内の血洗池を形成する湧水源も含めて、高田村に灌漑用水を供給していたのかもしれません。
それから、神田上水のもとは、平(ピラ=崖)川の流れがすでに存在していて、お茶の水あたりの掘削工事のような大規模浚渫作業が必要だったのか?・・・という点です。目白崖線の下あたり、昔の絵図に描かれた神田上水は、人工的な堤のある掘割上水道とは異なり、自然の流れを形成しているように見えます。玉川上水の大規模な工事と、神田上水のそれとはまったく異なっていたのではないか?・・・という課題ですね。
益田
ChinchikoPapa
実は、学生時代の終わりぐらいから、柳田の著作を全集で読み始めていたのですが、ひとつひとつを厳密に読み解こうとすると、とんでもなく時間と手間がかかる・・・ということに、すぐに気づきました。柳田のあとに(彼の仕事をベースに)つづく、後世の民俗学者の膨大な著作を押えるだけでも、かなりの時間がかかり、重ねられた研究にそれぞれ目を通して、いちばん新しい「成果物」へたどり着くのも容易なことではない・・・とわかったんですね。
ひとつのテーマにしてからがこれですので、それにいろいろなテーマが錯綜してくると、資料の発掘や読み込みに潤沢な時間が確保できない環境だと、とても追いつけないと感じました。ただ別の視点で見ますと、柳田の仕事は、近代日本が棄ててしまった物語の宝庫、研究対象としてモデル化された地域にとっては失われた地域史の宝箱・・・といえそうです。
神田川に架かる140の橋
確かにそうですね。
http://kandagawa.kingtop.jp/kanda_099.html
私も、神田川が好きで全部の橋を探索しました。
神田川大事にしたいものですね。
ChinchikoPapa
わたしも、神田上水から旧・江戸川あたりにかけての風情が大好きです。(^^ この記事はかなり前のものですので、その後、いろいろなことがわかりました。安藤対馬守は、一時期「但馬守」を受領していますので、橋名の由来はやはり安藤家のものだと思われます。また、田島橋の巨大化は、大正末にはすでに完了していますが、これは十三間通り(新目白通り)計画によるものというよりも、客車運行を開始する前の西武電気鉄道を使い、軍用物資の輸送のために千葉にあった陸軍の鉄道連隊が橋梁工事をほどこしたのではないかと想定しています。
戦前の地図には、田島橋は小さく描かれ「化粧」(陸軍の大正六年図式)されてしまっていますが、これも戸山ヶ原への物資輸送とからみ、意図的な描画ではないかと思います。詳細は下記をご参照ください。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-11-25
「神田川に架かる140の橋」サイト、すばらしいですね! ときどき、拝見させていただきます。ありがとうございました。