タヌキと国芳と夕立と。

 一勇斎国芳という浮世絵師がいた。芝居の『与話情浮名横櫛』(よはなさけうきなのよこぐし/斬られ与三)で有名な日本橋玄冶店(げんやだな=現・日本橋堀留町)に住み、おもに武者絵を得意とした。いちおう歌川豊国一門に名を連ねたが、ずっと不遇時代がつづいていた。彼を一躍有名にしたのは、『通俗水滸伝豪傑百八人』シリーズで、これが「武者絵の国芳」の名声を不動のものにする。でも、この国芳は、むしろ風刺画や戯画にこそ彼本来の味わいが出ているのではないか・・・と、わたしはひそかにそう思うのだ。
 上の絵は、1843年(天保14)ごろの作品。描かれている川は、もちろん大川(隅田川)で、向こうに見えるまるで永代橋のように描かれた長大な橋は、大橋(両国橋)だろう。橋の西詰と東詰には、巨大な見世物小屋か芝居小屋がかかり、何本も幟が立っているのが見える。おそらく、左手が両国広小路のある東日本橋だろう。手前の地面が、深川も近い南本所あたりということになる。空がにわかにかき曇り、降りだしたしのつく夕立にあわてふためいた人々が、雨宿りをしようと近くの軒先めざして駈け出している図・・・ではない。よく見ると、手前をあわただしく右往左往しているのは、人ではない。なんと、タヌキなのだ。
 『狸の夕立』というタイトルがつけられたこの絵、よく見ると俵をかぶって雨を避けているのはひとりだけ・・・、いや1匹だけ。ほかはみんな、自分の巨大な八畳敷きを拡げて雨よけにしている。しかも、俵をかぶっているタヌキは、自分の八畳敷きを傘代わりに若い娘(?)たちへ貸し出しているのだ。粋な(?)茶釜柄や水流柄の着物を着ているのは、明らかに未婚の娘タヌキたち。また、父親ダヌキに連れられた手前の子ダヌキは、自分の持ち物である小さな一畳敷きをけんめいにかぶって、なんとか雨を避けようとしているのがおかしい。

 こういう戯画(マンガ)を描かせると、国芳は抜群の才能を発揮する。ありがちな講談調や芝居調の武者絵ではなく、こういう漫画をもっとたくさん残してほしかった。わたしは、北斎漫画よりも国芳漫画のほうが、奇想天外な発想と躍動感あふれる描写力で上だと思う。そして、北斎よりもはるかにユーモラスで茶目っ気たっぷりだ。
 昔は、大名の下屋敷や商家の隠居屋敷を囲んだ屋敷森の多かった本所や深川界隈にも、タヌキがいっぱいいたのだろう。そういえば、下落合のタヌキは野鳥の森と薬王院の森だけで、あっというまに2家族8匹に増えてしまった。おそらく、下落合の目白崖線だけで軽く15匹は超えるだろう。そのうち、急な雨にあった浴衣姿の下落合娘たちClick!に、八畳敷きを傘代わりに拡げてくれるだろうか?

■写真上:一勇斎国芳『狸の夕立』(中判)、1843~1844年(天保14~弘化元)ごろの作品。
■写真下:日本橋の玄冶店跡近くの三光稲荷のある路地裏。三代将軍・家光に重用された、幕府の医師・岡本玄冶の拝領屋敷があったことから、「玄冶」の名称が残る。
下落合みどりトラスト基金

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