
関東大震災が語られるとき、下町の被害が大きかったせいか、山手(やまのて)の被害が語られることはほとんどないに等しい。事実、武家屋敷町だった山手線内側の旧山手、および山手線の両側にあたる明治期以降の新山手は、下町の罹災者たちが地震の直後から大勢避難してきており、大学のキャンパスや公園、橋の下などにはテント村や仮設バラック住宅ができていた。
たとえば、新宿区の下落合・目白界隈を見てみると、明治期末より東京府営住宅が建てられ、大震災の前年である1922年(大正11)からは目白文化村(第一・第二文化村)が開発されていたにもかかわらず、全壊家屋はたった2棟Click!と、きわめて軽微な被害にとどまっている。この2棟の住宅も、新築家屋ではなく、江戸期からのかなり古い建物だったようだ。山手では、地震の揺れが下町に比べて小さかったのと、下町のように大規模な火災が発生しなかったこと、また、住宅と住宅の間が近接しておらず、火災が起きても延焼しにくかったことなどが要因として挙げられる。
早稲田の南、戸山(旧・西大久保)あたりに住んだ、歌人の前田夕暮は、関東大震災の記憶を次のように記している。
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震災の時にはこの雑草のなかに寝たものである。のんきなもので電燈がなかつたから、小鳥籠を半紙で貼つて提灯代りとし、そのなかに蝋燭をしろじろとともして、羊歯のなかに子供達と寝た。その時のここちよさ、愉しさを私は今でもなほ時折り反芻している。
朝、羊歯の葉かげで眼をさますと、枕もとの地面に青いハタオリなどがゐたりした。そこで私達は握飯をたべた。子供達はすつかり歓んで、毎晩庭に寝ようと言ひ出した。しかし密かに歓んだのは、子供達よりもむしろ私であつた。(前田夕暮『羊歯素描』より)
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大きな余震を怖れて屋内では眠れず、また停電で電気が点かないのでロウソクの灯りですごしていたのがわかるが、それにしても、本人が書いているようになんとものん気で、のどかな「大震災」風景だ。東京下町や横浜、10mの津波が襲った湘南の“地獄図”とは雲泥の差なのだ。東京に限れば、ほとんどが江戸期に埋め立てられた下町と、その多くは古代から堆積した河岸段丘である武蔵野丘陵の山手とでは、これほど大地の揺れ方が異なっていた。


だが、同じ新宿区でも、東南部の四谷や牛込は大きな被害を受けていた。四谷界隈だけでも、全壊家屋52戸、半壊家屋159戸、死者168人、延焼家屋500戸あまりとなっている。もともとの谷を埋め立てたところが、脆弱だったようだ。また、牛込の早稲田警察署管内では、全壊家屋262戸、半壊家屋328戸と四谷よりも被害が深刻だった。神楽坂警察署管内では、市ヶ谷の陸軍士官学校から出火したがまもなく鎮火、淀橋警察署管内では、早稲田大学理科学研究所から発火したがすぐに鎮火している。倒壊家屋が少なく、揺れ方も小さかったので、人々に余裕があり初期消火が可能だったのだろう。

どうやら四谷と牛込、そして下落合・目白あたりでも揺れの伝わり方に、それぞれ若干の違いがあったようだ。牛込の北東、神田川沿いの目白通り(現・江戸川橋~飯田橋間の十三間通り)では、大曲(おおまがり)あたりで地面に大規模な亀裂が入り、道路面が広範囲にわたって大きく陥没している。神田川の左岸に盛り土をし、広い道路を敷設した箇所だ。山手でも、地盤の弱い箇所に大きな被害が出ているのが歴然としている。でも、これらの被害は、千代田城の南東部に比べたら比較にならないほど軽い。当時は、家々の間に余裕があり、下町に比べて類焼も緩慢だったのだろう。だが、いまは状況が違う。
山手は、都内でも揺れ方は比較的小さいかもしれないが、家々が昔に比べて密集している。1923年(大正12)から昭和初期にかけて、山手は下町からの避難をかねた転居者で人口が激増することになった。山手でも、下町と同様に火災が最大のテーマとなるだろう。
■写真上:震災直後、付近住民や下町からの避難者で新宿御苑にできたテント村。
■写真中:上左は、牛込改代町の惨状。倒壊はしているが火災は起きていない。上右は、被害を受けた四谷区役所。下左は、新宿車庫前の街中の様子。復旧して動き出した市電には、人があふれている。下右は、戒厳令下の四谷見附あたり。銃剣つきの小銃を持った兵士が、街角に立っている。
■写真下:左は、崩落した早稲田大学応用化学研究室。右は、道路に亀裂が走り大きく陥没した十三間通り・大曲あたり。
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