
上の写真は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災の発生直後に、たまたま飛行可能だった陸軍の航空機から撮影された、新佃島・月島界隈の空中写真だ。相生橋の左手、新佃島と月島の何箇所からか火の手が上がり始めているのが見える。月島と佃島とを分ける運河が見えているが、この水の帯が佃島を大火流から救うことになる。月島側は焼け野原となったが、佃島側の火災はなんとか消し止められた。
隅田川をはさんだ両岸も、おそらく地震の発生直後はこのような光景だったのだろう。関東大震災の犠牲者は14万人といわれる中、東京市内だけで7万人とも8万人ともいわれる犠牲者を出したわけだが、地震による家屋倒壊などで圧死した人たちは、わずか5~7%といわれている。残りの人たちは、すべて火災によって発生した「火事竜巻」や「大火流」による焼死者と窒息死者、そして火に追われた溺死者だ。火災さえ抑えれば、かなりの人々が助かったことになる。では、この火事竜巻や大火流とは、いったいなんなのだろうか?
以前、このブログに書いた下町空襲(3月10日)Click!や山手空襲(5月25日)Click!でも、火事竜巻や大火流が登場している。大規模な火災によって急激に空気が膨張すると、強風が吹き荒れる火事嵐が発生する。厳密な規定はないようだが、風速が50mを超え、人間や物が一瞬のうちに吹き飛ばされる火事嵐を大火流と呼んでいるようだ。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲の際、巨大な炎が大川(隅田川)を水平に日本橋側へ渡ってきたのは、本所・深川一帯にこの大火流が発生していたからだと思われる。

さらに、この大火流同士がぶつかり合い、竜巻現象を起こすことがわかっている。この火事竜巻は、風速100mをゆうに超え、関東大震災では家々や荷を満載した荷車が曳き馬ごと空へ巻き上げられるのが目撃されている。また、火事竜巻が怖ろしいのは、川筋を通り道としやすいからだ。大火事が起きると、人は本能的に水のある川筋へと避難しがちだ。だが、障害物がない川こそが、火事竜巻の通り道となり対岸への延焼を容易にしてしまう。関東大震災では、隅田川の水が炎とともに上空へ長く巻き上げられているのが目撃されていた。
大火流の怖さは、火事現場から離れたあとでも襲ってくる点にある。炎からかなり離れているにもかかわらず、避難した先へ熱風が吹きつけ、着衣が極度に乾燥していく。すると、わずかな火の粉をあびただけで、あるいは火の粉さえ浴びなくても一瞬のうちに全身が火だるまとなってしまう。この現象は、東京大空襲で避難している最中の群集のあちこちでも見られた。火災の現場からはかなり離れているのに、まるで人体から自然発火するように焼死している人たちが多いのだ。「大きな火災の近くには、絶対に近寄るな!」と、親父が繰り返し何度も言っていたのは、関東大震災の伝承や東京大空襲の経験が言わせていたのだろう。大火災から逃れても、すぐに安心はできないのだ。

この図は、大川(隅田川)をはさんで発生した、関東大震災の大火流と火事竜巻を記録したものだ。大川の右側に2つ、火事竜巻が並んで描かれているところが本所の陸軍被服廠跡。ここへ避難した、4万人弱と推定される人たちが、一瞬のうちに大火流と火事竜巻に呑み込まれた。いまは震災復興記念館が建つ被服廠跡の犠牲者は、東京市内の全犠牲者の55%にもおよぶ。そして、ここで発生した火事竜巻は大川を渡り、対岸の蔵前を総なめにしている。

わたしの祖父は関東大震災のとき、祖々父とともに近所の倒壊した家屋から一家4人を救出し(うち娘は死亡していた)、消火活動にも加わっているが、大火流にはまったくなすすべがなかったという。冒頭に掲載した震災直後の佃島・月島のように、この段階で各地の火災が消し止められていたら、実に多くの人たちが助かっていただろう。次の震災時には、大火流そして火事竜巻が発生する前に、ぜひなんとかしたいものだ。
■写真上:現在の晴海上空あたりから撮影した、大震災発生直後の佃島・月島。
■写真中:左は屋根が崩れ落ちて廃墟となったニコライ堂、右は浅草の仲見世の惨状。正面に浅草寺の五重塔が、かろうじて倒壊をまぬがれているのが見える。
■写真下:左は溶けた釘の山。大火流の中は、瞬間的に1,500度を超えていたと思われる。右は被服廠跡に建つ震災復興記念館。横網(よこあみ)町公園には、関東大震災の犠牲者5万8千人と東京大空襲の犠牲者10万5千人の、合わせて16万3千人の遺骨が眠る。
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ChinchikoPapa