ねえばあや、お待ちなさい!

 「ねえ、ばあや、待って。・・・そう、急いで、歩かないでちょうだい」
 「お嬢様が、ごゆっくりなのでございますよ」
 「ハァ、ハァ、そうじゃないわ。わたくしの、歩き方は、いつもどおりですもの」
 「・・・・・・・・」
 「ねえ、ばあや。ふつう、半歩下がって、わたくしのあとから、ハァハァ、歩くのが、ばあやの、たしなみだと思うの」
 「おや、そうでございますか?」
 「ねえ、ばあや。わたくし、ハァ、ここの日本橋三越で、お買い物、ハァ、したいのよ」
 「まあ、お嬢様。先ごろの、国鉄・下山総裁の事件を、ご存じないのでございますか?」
 「わたくし、新聞を読みませんので、下々の世情や話題には、疎くて・・・ハァハァ」
 「下山様は、ここで目撃されたのを最後に、北千住の線路で轢断死体となって・・・おおコワッ」
 「ねえ、下落合のわたくしの、お買い物と、ハァハァ、国鉄の下山様は、なにか関係がおあり?」
 「三井越後屋で、お嬢様の身になにかあったら、あたくしの責任になっちまいましてす」
 「・・・ねえ、ばあや、ハァ、ねえ、待ちなさいってば」
 「おや、ちょいと水菓子の千疋屋が、建て替えをしてるわ」
 「ひ、人の話を、ハァ、ハァ、ちゃんとお聞きなさい、ばあや!」
 「お嬢様、大きな声を出されては、はしたのうございますよ」
 「ねえ、どうして、日本橋川を渡ると、ばあやの歩みは、急に速くなるの?」
 「そりゃね、あたくしの故郷に近いせいだからですよ、お嬢様」
 「ねえ、三越の天女(まごころ)像も、久しぶりに、ハァハァ、見てみたいのよ」
 「三越よりも、下町にはもっといいお店が、たくさんございますよ、お嬢様」
 「日本橋三越よりも、上等なものを売っていて?」
 「赤札堂に、ドンキホーテに、マツモトキヨシもございます」
 「・・・わたくし、ぜんぜん、まったく、聞いたことがない、お店だわ」
 「おや、お嬢様、あそこにうなぎ屋が」
 「ねえ、ばあや、うなぎじゃなくて、三越なのです」
 「まあまあ、八目も置いてるんですって」
 「ばあや、急に耳が、遠くおなり?」
 「・・・・・・・・」
 「まったく、なにをしに下落合から、ハァハァ、わざわざ日本橋まで来たのか、これではわかりはしないわ。・・・運転手だけで、ばあやを連れてくるのではなかったのよ」
 「・・・・・・・・」
 「それとも、これはパイ生地Click!のしかえしの、つもりなのかしら。それにしても、このバーさんは、なんで、こんなに、元気なのよ、まったく。・・・ハァ、ハァ、まさか、ボケたのではないでしょうね?」
 「あたくし、まだボケるような歳ではございません!」
 「・・・ちゃ、ちゃんと、聞こえてるじゃないの!」
 「お嬢様、ほら、うなぎのいい香り」
 「だから、うなぎじゃなくて、わたくしたちは、ハァハァ、三越で、お買い物をするのです!」

 「ああ、足が棒のよう・・・。ねえ、ばあや、うなぎをいただいたら、ちゃんと三越でお買い物ですよ」
 「はいはい、わかりましたよ、お嬢様」
 「わたくしは、三越のレストランで、ポークソテーをいただくつもりでしたのに・・・」
 「洋食なんぞよりも、日本橋はこっちのほうが美味しゅうございますよ」
 「・・・そうかしら? ・・・ほんとうかしら?」
 「さて、お嬢様は、なんになさいます?」
 「わたくしは、いつもの、うな重の松を・・・」
 「まあ、なにをおっしゃいますやら、お嬢様! ここは、うなぎの本場でございますよ。いつもの下落合は大和田の、うな重の松なんて、あれまあ、そんなチャチなものを召し上がってはいけません!」
 「まあ、じゃあ、もっと美味しいものがあるのかしら?」
 「駿河町は三井越後屋界隈にみえたら、まずは、うな丼でございますよ」
 「まあ、うなドンってなあに? わたくし、聞いたことがないわ」
 「あれまあ、召し上がったことがおありにならない?」
 「ええ、いつも大和田ではお父様が、うな重の松を頼まれるんですもの」
 「ほんとうにお嬢様は、おかわいそうな方。うなぎの最高級料理を、ご存じないなんて」
 「うなドンて、どのようなものなのです?」
 「丸い器の中に、それはもう、うなぎが上品に載っているのでございますよ」
 「・・・まあ」
 「角ばった下品なうな重などとは、格がまったく違うのでございます」
 「・・・そう、じゃあ、わたくし、それをいただくわ」
 「そうでございますとも、お嬢様。ちょいと、兄さん! うな丼並みと・・・」
 「でも、そんなに高級なお料理を、どうしてわたくし、知らなかったのかしら?」
 「お嬢様、これは旦那様にはナイショ。そんな贅沢をされたのが知れましたら、このばあやばかりでなく、お嬢様まで、きっとお叱りを受けます」
 「わかったわ、ばあや。でも、うな重の松よりも美味しいなんて、わたくしとっても楽しみだわ」
 「うな重の松なんて、そんな下世話なものは、あたくしがいただきます」

1950年(昭和25)現在、天女像は残念ながらまだできていない。

この記事へのコメント

  • エム

    お嬢様は三越の「特別食堂」で食べたかったのでしょうね。

    今は日本橋三越にはたいめい軒も満天星も入っていますね。
    わたしはカフェウィーンでザッハトルテが食べたいです。
    2005年08月11日 22:13
  • ChinchikoPapa

    わたしは日本橋の三越や高島屋へ行きますと、昔から食べ物よりも、どうしてもアンモナイトの化石を壁面に探したくなります。(^^;男の子ですね。
    確かデパートばかりじゃなくて、このあたりの地下鉄の壁にも、珊瑚の化石かなにかが露出してました。女性は、化石探しなんかよりも、美味しいもののほうがいいですよね。(笑)
    2005年08月12日 00:43
  • いのうえ

    Papaさん こんにちは。 三井越後屋で三越なんだ! 知りませんでした。
    最初の写真の さっそうと日本橋を歩く女性、かっこいいですね。 帯と着物の色がきりっとしていて。 白洲正子のコーディネイトを思い出しました。
    2005年08月12日 01:03
  • ChinchikoPapa

    三井越後屋は、「現銀掛値無し」の正札商売を最初に始めた店でしたので、日本橋の呉服の大店仲間から恨まれ、日本橋通りの表店を追い出されて駿河町の裏へ移転させられたんですよね。いまでこそ、表通りに面していますが、江戸期は裏筋だったんです。三越が、江戸期にはディスカウントショップの急先鋒だったなんて、いまからは考えられないですけれど。(笑)
    わたしも、前を行く涼しげな「ばあや」には見とれてしまいました。(^^
    2005年08月12日 13:22
  • la_vie_en_Rose

    初めまして♪ 偶然お邪魔いたしました♪♪ 面白ぅございますわ♪
    ・・・以前、歌舞伎座の入口で【じいや】のような初老の紳士が
    「道成寺様でいらっしゃいますか?」とわたくしに向かって走り寄ってらしたのを
    思い出しましたわ♪♪  うなぎと言えば三番町の・・・・むふふふふ。
    2005年08月24日 20:40
  • ChinchikoPapa

    初めまして、la_vie_en_Roseさん。コメントをありがとうございます。
    歌舞伎座の入口で、「道成寺様?」と尋ねられるのは、ちょっと意味深かもしれませんね。「清姫様でいらっしゃいますか?」と「じいや」は訊きたかったのでしょうか? 歌舞伎の観すぎで、安珍になりきってる「じいや」さんだったりして・・・。(笑)
    僧侶の格好とか、コスプレ系してませんでした?(^^;
    2005年08月25日 00:43
  • namie

    namieもカフェウィーンがいいです。

    このばあやさんは、だんな様に解雇されるでしょうね

    寒空の下のジャングルジムからどんな花を見上げるのでしょうか。

    それとも、お嬢様が救って差し上げるのでしょうか。
    2013年01月21日 14:00
  • ChinchikoPapa

    namieさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    どうやら、ばあやさんは旦那様の絶大な信頼から、解雇されそうもないですね。「死ぬまでお嬢様とご一緒」などといって、法事帰りお嬢様にめまいを起こさせてるぐらいですから、救われないのはお嬢様のほうかもしれま゛ん。w
    2013年01月21日 21:28

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Tracked: 2005-09-05 21:46

ねえ、ばあや、捕まえて!
Excerpt:  「まったく、なんであたしがこの歳になって、お嬢様のお部屋掃除なんてえことを、いまさらしなきゃなんないんだい」 「ばあや、お掃除まだぁ~?」 「はいはい、もうすぐでございますよ、お嬢様!」 「早くす..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2005-09-30 00:01

お嬢様は少し、はしたのうございますよ。
Excerpt:  「まあ、ばあや、ご覧!」 「おやまあ、こっからの眺めだけは、戦争前とあんまし変わりませんですねえ」 「不忍池はいまでも、蓮のお花がたくさん咲くのでしょうねえ。まあ、岩崎様のお宅が見えます」 「ここ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2006-01-05 01:05