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このとき、すぐに消火できたら・・・。
Excerpt:
上の写真は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災の発生直後に、たまたま飛行可能だった陸軍の航空機から撮影された、新佃島・月島界隈の空中写真だ。相生橋の左手、新佃島と月島の何箇所からか火の手が..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2005-09-01 00:03
中村彝のアトリエ再び。
Excerpt:
先日、中村彝(つね)アトリエClick!にお住まいのS様の奥様に、念願かなってアトリエ内を詳しく拝見させていただいた。建物の内部は、大正時代初期の香りが色濃く残る、佐伯祐三アトリエClick!と同..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2006-02-04 22:23
下落合の家並みアルバム。
Excerpt:
下落合(旧・下落合1~4丁目)は、1945年(昭和20)4月10日と5月25日の空襲で焼けたエリアと、延焼をまぬがれたエリアとがまだら状に点在している。13日夜半の、「神田川・妙正寺川流域工業地帯..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2006-03-06 20:13
空襲直前の下落合・1944(昭和19)。
Excerpt:
敗戦間近の1944年(昭和19)秋に、陸軍参謀本部陸地測量部が撮影した下落合上空からの空中写真を入手した。このわずか半年後、1945年(昭和20)4月13日の夜半には神田川・妙正寺川沿いの工場地帯..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2006-04-23 00:06
250キロ爆弾の爆風にも耐えた邸宅。
Excerpt:
いちばん運用したいときにシステム不具合の嵐だと、ほんとうに書く気が失せてしまう。So-netブログさん、いい加減にしてください。きのうから、書いた原稿が三度も登録フォームのTimeOutエラーで行..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2006-06-14 11:13
目白文化村の空襲。
Excerpt:
1945年(昭和20)4月13日(金)の深夜、目白文化村の住民は空襲警報にたたき起こされた。13日深夜から14日の未明にかけて、米軍のB29爆撃機は高田馬場から池袋の各駅周辺を夜間爆撃している。3..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-01-18 20:53
たまには「とん狂な失言」を。
Excerpt:
山本周五郎ではないけれど、おそらくきょうの記事は「とん狂な失言」となるのだろう。下落合界隈の、あまりの急激な変わりように、わたしの記事も取材も追っつかない。(御城)下町Click!の記事が書きたい..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-03-27 10:29
懲りずに「くの字のカーブ」の道に挑戦。
Excerpt:
以前、どうやらわたしは誤って描画ポイントを設定してしまい、議論が噴出してしまった「くの字カーブ」の道Click!だけれど、いままでの既成観念である二ノ坂からちょっと離れ、他の下落合の道筋はどうだろ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-05-30 00:02
下落合を描いた画家たち・鈴木誠。
Excerpt:
明らかに下落合の風景を描いた鈴木誠の作品を、いまだ見つけることができない。風景画家ではなく、どちらかというと人物描写を得意とした画家だからだろう。でも、佐伯祐三と連れ立って、長崎町界隈へも写生に出..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-08-15 10:33
目白会館からスタートした矢田津世子。
Excerpt:
結核により、36歳の若さで病死するまで、ずっと下落合に住みつづけた小説家に矢田津世子(やだつせこ)がいる。吉屋信子Click!と同じように、矢田の下落合における引っ越しルートを書こうとしていたのだ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2008-01-04 00:16
タッチの差の林唯一邸。
Excerpt:
わたしはまたしても、しくじりをしてしまった。旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)に建っていた、画家の林唯一邸を撮りそこねてしまった。もう少し早く、このサイトをはじめていたら、林唯一アトリエを確実に邸..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2008-01-28 00:28
空襲の死者を埋めた薬王院の森跡。
Excerpt: 1945年(昭和20)の4月13日と5月25日の二度にわたり、落合地区はB29による爆撃を受けた。4月13日Click!の空襲は、神田川から妙正寺川沿いの工場地帯(といっても友禅染や藍染など染物工場が..
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Tracked: 2008-08-14 00:31
「日本は敗ける」と海軍将校は言った。
Excerpt: 「落合の緑と自然を守る会」の堀尾慶治様は、戦時中、何度となく米軍による空襲に遭遇されている。最初の空襲は1942年(昭和17)4月18日、16機のB25によるドーリットル隊の本土初空襲だった。目白の千..
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Tracked: 2008-08-16 02:28
諏訪谷の斜面を考える。
Excerpt: 諏訪谷Click!の東端から曾宮一念邸Click!の軒下あたりまでを描いた、佐伯祐三Click!の『下落合風景』Click!の一作「セメントの坪(ヘイ)」Click!に、もう少しこだわってみたい。実は..
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Tracked: 2008-09-03 11:55
しつこいですが東京大空襲64年目。
Excerpt: 先日、亀戸天神社で恒例の「梅まつり」をやっていたので、久しぶりに観にいってきた。菅公の亀戸天神は、江戸期の1663年(寛文3)建立なので、江戸東京では相対的に新しい「名所」だ。でも、幕末にはかなり人気..
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Tracked: 2009-03-10 00:00
カリーがカレーになったお話。
Excerpt: 新宿中村屋Click!の前を通りかかったので、店前の歩道上で売っていたカリーパン(カレーパンではない)を買って帰る。いま、カリーパンを売っている店前の隣りでは、戦前、白い飴の棒をトントンといい音をさせ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-05-23 00:01
下落合からたどる「黒門」物語。(上)
Excerpt: 下落合では、相馬邸の「黒門」Click!は住民の方々に強い印象を残している。それは、大江戸市街に建っていた大名家の、めずらしい長屋付きで袖(出番所)を抱えた門というだけでなく、門前で時代劇のロケーショ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-06-24 00:01
下落合を描いた画家たち・堀潔。
Excerpt: 1916年(大正5)から旧・牛込区(現・新宿区の一部)の喜久井町、のちに転居して同区戸山町に住んでいた水彩画家に堀潔がいる。下落合でもお馴染みの満谷国四郎Click!や吉田博Click!、中村不折Cl..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-07-28 00:03
戦災で失われた幻の彝作品を観る。
Excerpt: 明治政府の廃仏毀釈と第2次世界大戦は、日本に存在した膨大な美術品をこの世から消滅させた。おそらく、半減といっても大げさではないだろう。以前に佐伯祐三Click!の記事でも書いたけれど、彼の作品の場合C..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-07-30 00:30
打ち上げ花火を気にする世代。
Excerpt: 夏になると、東京のあちこちで打ち上げ花火がある。大規模な大会は、お盆明けの大川(隅田川)の花火大会Click!をはじめ東京湾、多摩川、板橋の各花火大会、そしてしょっちゅう打ち上げているのが神宮・・・と..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-08-13 00:08
佐伯一家の墓所へお参り。
Excerpt: 佐伯祐三Click!に佐伯米子Click!、そして佐伯弥智子Click!の3人が眠る墓所が、東京の四ッ谷駅前にあることをつい最近知った。大阪・中津の光徳寺Click!にあるのは、佐伯祐三のみが眠る墓で..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-12-19 00:02
下落合の事件簿「飛行機墜落」編。
Excerpt: 1945年(昭和20)5月25日の夜半、高田町の学習院下に撃墜されたB29が墜落したことは、以前に記事Click!へ書いた。それよりも20年ほどさかのぼった大正時代の末、飛行機が下落合へ墜ちてきたこと..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-08-16 00:06
満谷国四郎アトリエを拝見する。
Excerpt: 1918年(大正7)8月末、下落合753番地に竣工した満谷国四郎Click!の新邸Click!は、下落合には多かった西洋館ではなく和館ないしは和洋折衷館だったようだ。関東大震災Click!ののち、満谷..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-10-07 00:26
迎撃戦闘機が椎名町に墜ちてきた。
Excerpt: 以前、山手線をはさんで下落合の東隣りである高田南町の学習院下で操業していた国産電機へ、池袋上空で撃墜されたB29が墜落Click!したことを記事にした。1945年(昭和20)5月25日の夜半のことで、..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-11-09 00:01
池袋上空を見張っていた武井武雄。
Excerpt: 池袋1021番地(一時期は1024番地で仮寓)に住んだ、童画家であり童話作家の武井武雄Click!は、太平洋戦争がはじまると『戦中気侭(きまま)画帳』(筑摩書房)という絵日記を残している。その中には、..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-04-14 00:01
下落合がずいぶん長い森田亀之助。
Excerpt: 美術史の分野では「学芸員の父」とも呼ばれる森田亀之助Click!だが、下落合が気に入っていたのか、ずいぶん早くから同地に住んでいる。(城)下町Click!は京橋生まれの森田は、戦時中も疎開せずに下落合..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-05-17 00:14
帰宅したら空襲で家がない古川ロッパ。
Excerpt: 古川ロッパ(緑波)といえば、戦前はエノケン(榎本健一)と並んで日本の喜劇界の大御所のような存在だった。わたしの親の世代なら、おそらく知らない方はひとりもいないだろう。古川ロッパの弟子筋には、森繁久彌C..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-09-06 00:08
ドラム缶が吹っ飛んだ目白文化村空襲。
Excerpt: 東京写真工芸社(旧・富士美写真館Click!)の佐藤仁様Click!は、1945年(昭和20)4月13日夜半の目白文化村空襲Click!を目の当たりにされている。戦時下、特に戦争末期の下落合で展開した..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-02-02 00:02
解体後に空襲で炎上する旧・相馬邸?
Excerpt: 大磯Click!にお住まいのSILENTさんClick!より、1979年(昭和54)に出版された花田衛『五代太田清蔵』(西日本新聞社開発局出版部)の資料をお送りいただいた。その中に、下落合から見ると不..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-02-26 00:02
吉武東里邸から寄贈された大谷石を細見。
Excerpt: 建築家の吉武東里Click!が、1945年(昭和20)3月に疎開先のふるさと大分で死去したあと、上落合470番地Click!にあった吉武東里邸は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で炎上し..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-07-19 00:03
星野家に残る目白文化村の空襲記録。
Excerpt: 第二文化村Click!から南へと下る振り子坂Click!のとっつきに、戦時中は戦時金融金庫理事をつとめていた大きな星野剛男邸が建っていた。1923年(大正12)に箱根地土地Click!が第二文化村を販..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-10-23 00:01
目白文化村の空襲。
Excerpt: 1945年(昭和20)4月13日(金)の深夜、目白文化村の住民は空襲警報にたたき起こされた。13日深夜から14日の未明にかけて、米軍のB29爆撃機は高田馬場から池袋の各駅周辺を夜間爆撃している。3月1..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-05-19 14:58
下落合を描いた画家たち・佐伯米子。
Excerpt: この絵を初めて観たとき、その据わりの悪さや不自然さに、ちょっと気持ちが悪くなってしまった。戦後すぐの1948年(昭和23)に開かれた、女流画家協会の第2回展に出品され、「婦人文庫賞」を受賞していると思..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-09-07 11:47
空襲の消火に必死の国際聖母病院。
Excerpt: 1945年(昭和20)4月13日午後11時すぎにはじまった第1次山手空襲Click!で、焼夷弾が雨あられのように国際聖母病院のフィンデル本館Click!に降りそそいだ様子が、当夜、病院に勤務して必死に..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2016-08-13 00:02
この記事へのコメント
中島茂信
若いころは、終戦記念日のことなんて考えもしませんでしたが、
年をとるにつれ、いろいろと考えるようになりました。
いったい誰のための戦争だったのか。誰の戦争だったのか。その責任の一部は、ジャーナリストにもあったように思います。ジャーナリストの端くれとして、そのこともちょっと考えさせられます。
ChinchikoPapa
「國を守る」「國防」というときの、では当時の「國」とはなんだったのか、その主体が逆説的に歴然とわかりますね。少なくとも、「國」の主体とは、守れずにあまた死んだ国民でも、守れず焼き尽くされのちに占領された領土でもなく、なにが「守られた」のか?・・・というところにおいて。
せいさく0319
掲載されている日記を興味深く拝見させていただきました。事後の御連絡となりましたが、当方の記事にリンクをはらせていただき、日記を紹介させていただきました。
リンクをはらせていただいた件について、何か差しさわりがございましたら、その旨、御連絡ください。何分、ブログ初心者なもので、ご容赦ください。
また、よろしければ、今後とも、そちらのサイトを拝見させていただくつもりです。よろしくお願いいたします。
せいさく0319
サイト名 気になるブログ10件
mail:noguchi0319@mail.goo.ne.jp
http://plaza.rakuten.co.jp/kininaruburogu10/
ChinchikoPapa
わたしも、ブログ半年の初心者ですので、よろしくお願いいたします。
ChinchikoPapa
p
いきなりこちらの記事に飛んでしまい恐縮です。
ぶしつけな質問で恐縮ですが、次々と出てくる貴重な資料や写真は公文書館や図書館などで探し出されて複写されたものなのでしょうか?
実は私の父(昭和2年生まれ平成19年没)は空襲で焼け出されるまでは「文化村」に住んでいて疎開もせずに庭に防空壕を造っていて飛行機好きの父はロクに待避もせずに〝見物〟していて背中から1m余りのところに焼夷弾が落下して命拾いしたとのことです。そして同じ日か判りませんが「千歳橋方向にB29墜落」を目撃し、翌日「工場」付近に残骸を見物に行ったという話しを聞いていました! 正にこの件だったのですね!?
感激です。機会があったら昭和4年生まれの叔母(大正13年生まれの伯母も健在ですが残念ながら重い認知症です…)にこの記事を見せてあげたいと思います。
ChinchikoPapa
写真類は、もうさまざまですね。ご指摘のように公文書館や史料館、資料館、図書館などから、当時の新聞・雑誌・分野別専門誌、果ては個人の方が所有されているプライベート写真まで、ありとあらゆるものが含まれています。
できるだけ、元原稿からスキャニングするようにはしていますが、貴重なものですと館外持ち出し禁止ですので、そのようなケースではコピーをしてからのスキャニングとなります。(画質は当然少し落ちますね) あるいは、写真の場合は紙焼きサービスがあるところもありますので、このケースですと精細な画像を載せることができます。
文化村でお父様が遭遇された空襲は、もし、第一か第二、第四文化村のいずれかにお住まいだったのであれば1945年(昭和20)4月13日夜半、第三文化村でしたら同年5月25日夜半つまりこの記事の空襲の、いずれかではないかと思います。叔母様に訊かれると、わかりそうです。^^
飛行機が好きで、空襲の夜空を飛びかう探照灯(サーチライト)に照らされたB29を見上げていた人は、けっこうたくさんいそうですね。
p
住んでいたのは「第一」そして焼け出されたのは4月13日。ボケがはじまっている叔母でもこの辺りの記憶は正確だと思います。
その後も敷地内の防空壕と急造の小屋で生活していた筈なので墜落シーンや残骸を見たのは5月だったのですね!
そういえば戸山の女子部正門付近(?)に少なくも昭和40年代まで不発弾か航空機の残骸のようなものが展示(?)してあったような記憶がありますが父がそれをみて「あの時の・・・」と話していました。
ChinchikoPapa
うちの母も認知症になりましたが、昔のことはいつまでも正確に憶えてました。第一文化村にお住まいだったのですね!
4月13日夜半の空襲では、自宅の防空壕を出て目白文化村西側の御霊社の森、あるいはバッケが原まで避難された方が多くいらしたみたいですね。第一文化村の会津八一邸(文化村秋艸堂)が燃え、貴重な蒐集品がすべて灰になったのもこの日です。
高田町の国産電機に墜落したB29の残骸が、戸山ヶ原の近衛騎兵連隊に隣接した練兵場(現在の学習院女子)に展示されていたんですね。わたしも、これは初耳です。ひょっとすると、写真が残っているかもしれません。貴重な情報をありがとうございます。
古田 宙
町内では落四(当時は尋常小学校?)と落合郵便局が「避難所」に指定されていたようで、私の一家は郵便局に行きました。町内の他の人々と共に局の二階の事務室で、空襲が収まるまで黙り込んだまま一緒に過ごしていたと思う。やがて警報が解除されましたが、延焼は収まっていなかったのか、自宅へ戻るのは危険だとのことで、一家は「権兵衛山」の松林の中へ逃れ夜明けを待ちまっておりました。最近『私たちの下落合』(平成21年増補版)で同じ経験をなさった方がおられることを知りました。夜が明けて帰宅したが、幸い自宅は空襲被害を免れていた。西落合の方角から目白通り沿いに火の手が上がったそうだが、平和幼稚園前の某酒店のところで決死的な消火活動の結果延焼が収まったと後に聞かされました。また近所の家に落下した爆弾が屋根を突き破ったが、不発だったそうとかで、そういう運も重なって。
しかしそのまま都心に住み続けるのは危険と考えられたようで、疎開先の当てのない家庭は役所の指示で“集団疎開”をさせられることになったのです。田舎に当てのある家族はとっくの昔に疎開を済ませていたらしい。町内に住んでいた同じような家族は、群馬県北部(現在は多分渋川市)の吾妻線沿線の駅に近い場所にあった寺に疎開することになりました。七月初めのことだったらしい。そういう数家族が寺の庫裡で共同生活を強いられました。記憶に残っている映像は群馬の山々の眺め、榛名と赤城、そして眼の下を流れる吾妻川の景色だけ。吹きさらしで仕切りのないのトイレとか滅多に番が回ってこなかった入浴とか不便極まりない生活だったようだ。食事もジャガイモ混じりというか、イモに米粒が少し付いているような粗末なものだったが、ただ母の頑張りもあってか空腹に苦しんだ記憶はない。地元の農家の皆さんは好意的で、もらい風呂をしたり、農作物を提供してくれた。地元産の旬の果物も美味しかった。学童の集団疎開の悲惨さはたびたび語られていて記録も少なくないが、私たちのような疎開生活を経験した人は少ないのか、記録を読んだことがないせす。幸いなことには間もなく敗戦を迎えて、私たち一家は焼け残った自宅に帰ることができました。群馬の冬は気温が低くなるし、強い風も吹くので、寒くなる前に戦争が終息したのは結果として本当に幸運だった。後に同じ経験をした女子と落四で同級になったが、あの頃の話をすることは一度もなかったし、近所の人たちとも同様であった。その後群馬には何度も行く機会があったのだが、疎開したその寺を訪れる機会は二度と。名前も正確な所在地も忘れてしまったし、同行した母も亡くなって久しい。
落四の同期連と当時のことを話題にし合うのだが、あの夜地元に住んでいた者はひとりもいません。ほとんどの者はとっくに田舎の縁者宅に疎開してしまっていたから。
ChinchikoPapa
5月25日夜半の空襲のとき、古田さんと権兵衛山のヒマラヤスギが生えた近くの畑で一夜をすごされていたのは、斎藤昭さんですね。このサイトでは、昭和12年当時の林泉園の様子を描いた水彩画をいただいていました。斎藤さんは代々、神田のご出身なので、やはり疎開先がまったくなかったのではないかと思います。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-07-17
『私たちの下落合』は先日、かなりページ数も増えた最新版(平成25年版)をいただいたのですが、まだ時間がとれずに拝読していません。わたしが記憶しているのは、旧版(平成18版)で書かれている斎藤さんのエピソードです。そういえば、目白通りの下落合側が幅20mにわたって建物疎開で解体されていたにもかかわらず、桜並木に火が点いて次々に目白通り沿いを伝っていった・・・という記録も読んだ憶えがあります。それにしても、ご自宅が延焼をまぬがれたのは、不幸中の幸いでした。
わたしの家も、疎開先といいますか田舎がまったくなく、親戚一同すべて東京が故郷ですので、3月10日の東京大空襲で日本橋の実家を焼かれ、避難してきていた諏訪町(高田馬場)の親父の下宿先では、4月13日と5月25日の山手空襲に二度遭い・・・と、もうさんざんな目に遭ったようです。ただし諏訪町の下宿先は、延焼が2、3軒先で止まり、なんとか焼失をまぬがれたそうで、戦後もそのまま住んでいられたようですが。
わたしも、「学童疎開」の記録はあちこちで見聞きしていますが、「集団疎開」の記録は読んだ憶えがありません。ぜひ、今後も増補版が出されるであろう『私たちの下落合』へ、寄稿されてはいかがでしょう。たいへん貴重な記録になると思います。
また、今年は落合第四小学校の「学童疎開」の記録が、DVDになって出ています。1944年(昭和19)現在の落四小の生徒たちは、茨城県の笠間地域へ疎開したそうですが、その疎開期間の記録を収めたDVD『僕たちの戦争-学童集団疎開 ある少年の記憶-』としてまとめられています。幸運なことに、食べ物には苦労をされているのでしょうが、疎開先では地元の人たちとの間で、それほどひどい軋轢や齟齬は生じなかったようですね。
当時、お寺に疎開した下落合の方々が、お寺を再訪するまでの物語が展開されています。また、実際に疎開された落四小の方々の証言も収録されていて、たいへん貴重なDVDですね。
落合地域を取材していて、戦時中のことをうかがおうとすると、たいがいの方は「そのときは落合にいなくて・・・」と当時を知らない方が多いのに、わたしもずいぶん前から気づいていました。たいがいは、徴兵されて前線に行かれていたり、疎開されていて不在だったりと、大正期や戦前の記憶よりもはっきりしない部分があります。
落合に残っていた方は、徴用により自宅から勤労動員で近くの工場に通っていた方、「銃後の守り」でそのまま自宅におられた女性たち、そして疎開しようにも東京が故郷でほかに行くところがなかった人たちです。その方たちが、1945年(昭和20)の4月13日と5月25日を経験されているわけですが、どちらかといいますと5月25日の山手空襲のほうが、強い印象とともに記憶されている方が多いですね。
古田 宙
皆さまの手になるこういう媒体は実に貴重なものですね。その努力には本当に頭が下がる思いでいっぱいです。
ChinchikoPapa
真鍋さんや酒井さんのDVDは、この春にできたばかりのようですので、そろそろ図書館等にも収蔵され、貸し出しがはじまるのではないかと思います。『私たちの下落合』は、奥付にあります堀尾さんへFAXをお入れになれば、最新版をすぐにご入手できるのではないかと思います。
わたしも、できるだけ落合地域の戦中・戦後の記録を取材してはいるのですが、やはり当事者の方々の直接証言のほうが、はるかに重みがあって貴重かつかけがえのない記録ですね。
わたしも、こちらの記事でときどき引用させていただいています『私たちの下落合』は、数年に一度は増補・改訂版が出るようですので、ぜひぜひご体験を寄稿されてください。落合地域の貴重な記録として、また落合に限らず子どもたちの未来へのメッセージとして、残していかなければならないものだと思います。
猫
バケツリレーの消火作業、馬鹿馬鹿しいと、祖父もかなり批判していました。一畳に一個の焼夷弾では、逃げるだけでも手一杯だと。
逮捕されたアメリカ兵の全員処刑は当然だと思います。
日本はもっとアメリカに抗議していいのではないかと思います。
ChinchikoPapa
空襲に備えた防火訓練のまま、消火活動ができたところはまだマシだったのではないかと思います。3月10日の東京大空襲のように、焼夷弾をバラ撒かれたあと低空でガソリンを散布されたら、まったく防火訓練など無意味ですね。とにかく、即座にどこかへ避難しなければ、焼死するような状況だったと思います。
広島や長崎と同様に、ひと晩で10万人余の死者・行方不明者を出した東京大空襲は、もっと語り継がれていいと思います。
猫
また、歴史的な建物や文化財も沢山失われたというのも、非常に無念に思えてなりません。
私の祖父は、お墓に逃げたと言っていました。
石ばかりなので、燃えるものがない、と。
私の祖父がいたのは池袋なので、もしかしたら目白に向かって逃げたのかもしれません。
翌朝、浅草の様子を見に行ったそうですが、隅田川には死体の山で、最悪な状況だったと言っていました。
ChinchikoPapa
東京市内の建築や文化財は、関東大震災でかなりダメージを受けましたけれど、同大震災は大火災の延焼が迫るまで時間(3昼夜かけて延焼しています)があったので、ずいぶん運び出せて避難できたと思います。ところが、東京大空襲はひと晩で焼け野原ですから、膨大な文化財が失われましたね。
わが家でも、江戸期から集めていた文書や浮世絵、明治期以降のアルバム類がすべて灰になりました。
親父たちは、東日本橋から人形町方面へ逃げて助かりましたが、水辺の隅田川沿いに逃げた人たちは悲惨なめに遭っています。特に、大震災の教訓から燃えないコンクリート建築として建設された、浜町の明治座へ逃れた方々がかわいそうでしたね。
あと、卒業式のために疎開先から東京へと戻っていた子どもたちも大勢巻きこまれていますので、卒業式などどうでもいいから疎開させたままにしておけばよかった……という、親の世代の方たちが戦後にたくさんいました。
ブンブン
ChinchikoPapa
はい、どうぞご自由にお使いください。学習院下の国産電機に墜落したB29につきましては、墜落直前の国産電機をとらえた空中写真も含め、ほかにもいくつか記事を書いてますので、「国産電機」で検索されますとひっかかると思います。
いまは亡くなられてしまいましたが、戦時中に学徒動員で国産電機工場に勤務されていた、下落合にお住いの松尾様という方から、B29の墜落については詳しくうかがいました。この記事では、搭乗員は全員死亡と書いていますが、ひとりだけ生き残って逮捕されたという伝承も採取しています。