小津安二郎の『秋日和』(1960年/昭和35)には、シーンからシーンへの“間”に挟まるショットとして、やたらに大手町のビル街が出てくる。ビル内部のロケも頻繁に行われたらしく、懐かしい事務所の木製ドアが連なる、昔見たビルの廊下が登場したりする。光りが屈折してオフィスを覗けない、ストライプの模様入りガラスのはまったドアの内側からは、盛んにタイプライターやテレタイプ、黒電話の音が響いてくる。
仕事の打ち合わせで大手町ビルヂングへ出かけると、いつも小津安二郎の映画を思い出してしまうのだ。昔ながらの、地味なリノリウムが貼られた廊下やグレイの木製ドア、真鍮色をしたドアノブやむき出しのパイプ、ひんやりとした大理石仕様の壁や円柱、・・・。もう、50年ほど前の時代へとタイムスリップしてしまったんじゃないかと思えるほど、大手町ビルヂングの風情は頑固なまでに変わらない。廊下の向こうから、背広姿の痩せた笠智衆が、シャッポーを片手にひょうひょうと歩いてきそうな気がしてくる。
わたしは、打ち合わせが終わってもなかなかエレベーターへは乗らずに、ときどき各階を散歩しながら帰ってくる。きっと、企業情報をねらう怪しい人間に見られているのかもしれない。最近のビルは防音性に優れていて、廊下を歩いていてもシーンと静かだが、大手町ビルヂングはわさわさとオフィスで仕事をしている人々のざわめきが聞こえてくる。電話の音やパソコンのキーを叩く音もそこかしこから響いたりして、「ああ、仕事をしてるなぁ~」と、いかにも東京の懐かしい“職場”の雰囲気が漂う。このビルの地階も圧巻で、ボイラー室や電力室などは怪人二十面相と明智小五郎が対決していそうな、レトロっぽい設備が詰まっている。どこか、太い配管の破れからシューッと、暖房用のスチームが吹き出てきそうなセピア色の空間だ。
ふと、エレベーターの脇を見ると、ポストがわりの透明な郵便管の投函窓が口を開けている。中が真空がかっていて、ここに郵便物を投げ込むと、アッという間に1階にある郵便局の集荷場へと運んでくれる。昔の新聞社にも、こういう「システム」があった。記事を書くそばから、デスク上の透明パイプへ原稿を丸めて入れると、またたく間に地下の活版職人のもとへと飛んでいく。大手町ビルヂングの郵便管は、ためしに手を入れてみたけれど吸引力がなく、もはや使われていなかった。
■写真上:打ち合わせの最中に写真を1枚、「ちょいと失敬。いや~、まだ早いなんて言ってると、アッという間に歳取っちゃうのさ。早いとこ片付けちゃったほうが、ねえキミ、見合いだって自由恋愛だって、結婚しちまえばキミ、どうってことないのさ・・・」。(小津映画・中村伸郎モード)
■写真下:左は佐田啓二と司葉子がすれ違う、『秋日和』のワンシーン。右は現在の大手町ビルヂング内部。天井が低くなっただけで、廊下の風情は当時のビルとほとんど変わっていない。
この記事へのコメント
中島茂信
ChinchikoPapa
佐田啓二と岡田茉莉子の夫婦が住んでいた団地(秋刀魚の味)は、いまとなってはわたしも息が詰まりそうでだめですね。当時は、それでも抽選で当たるのを待つほどの人気でしたのに・・・。
いつもnice!をありがとうございます。<(_ _)>
みのりかわ由妃
久々に読み応えのあるブログに巡りあえました。
ところで、
>エレベーターの脇を見ると、ポストがわりの透明な郵便管の投函窓が
これはメールシュートのことですね。メールシュートは原始的な「落下」
で集荷しているので、真空はかかっていません。
なので、たまに大きい封筒が途中で詰まり、難儀するそうです。
>昔の新聞社にも、(中略)デスク上の透明パイプへ原稿を丸めて入れると
これは「気送管」ですね。こちらは物品のヨコ移動ができるように
真空、もしくは圧縮空気がかかっています。真空式と圧縮式の違い。
大手町ビルヂングの郵便管に吸引力がないのはそういう理由で、
>もはや使われていなかった。
のではなく、口がふさがれていないプラス集荷時間が投函口に
書いてあれば現役です。
初投稿でナマイキ申し上げました。
ChinchikoPapa
単に重力を利用したしくみなのですね。ポストの口から手を入れたり、耳を当てたりしてしまいました。(笑) くだんの「メールシュート」の口ですが、郵便マーク以外なにも表示がなくて単に口を空けているだけでした。
ひょっとしたら、使われているのかもしれませんが、2階で手を入れて待ってると上階からの郵便物がみんな手に入ってしまうわけですから、「現役」だけれどどの企業も使わない・・・という状態が長いのかもしれません。(^^
みのりかわ由妃
>ポストの口から手を入れたり(以下略)
>2階で手を入れて待ってると上階からの郵便物が
>みんな手に入ってしまうわけですから
これ、ものすごく新鮮でした。
郵便投入口からはいきなり本線に入らず、高速道路のように
導入帯(なんというかちょっと走るあの部分)を通って
集荷されると理解していたので、そういうしくみのメール
シュートもあるんだ~!と。
今度どこかで、じろじろしてみます。ありがとうございました。
余談ですが、使用されなくなった理由は
・昔に比べ、カタログなど定形外郵便物が多くなった
・定形でも発送数量が多い→割引を利用する
・一社で大量に投函されても困る
というのもあるそうです。
ChinchikoPapa
> ・昔に比べ、カタログなど定形外郵便物が多くなった
いまだと、ハガキや封筒の紙質もいろいろでしようから、よけいにひっかかりやすいかもしれませんね。煙突掃除ならぬ、「メールシュート掃除」が師走にやってきて、1年間でたまったメールを掃除して年始に配達しないといけません。
メールシュートを利用するときは、「あけまして、おめでとう暑中見舞い」が常套句になりそうです。(笑)
> ・一社で大量に投函されても困る
いまも、“郵便管”が現役で使われてたら、いろいろな慣用句がうまれそうです。「メールシュートを上まで詰まらせるほどのDM攻勢企画」とか、「首都高江戸川橋インターで1kmのメールシュートです」とか。(^^;
employee
使われなくなりました。幅が狭く、角3の封筒は入りません。
出す人が夕方の集荷時刻前に段ボールに入れて1階まで持って行っているようです。
ところで、大手町ビルヂングと同年代の建物は、大体9階建てですね。
当時の建築基準法ではぎりぎりの高さだったそうです。
階段は大手町ビルに見られるような三角柱の芯に螺旋階段を絡ませたような設計です。
芯の部分はそのまま吹き抜けの空洞になっていますから
階段の手すりから首を出して下を覗くと
地下まで深い穴が開いているようでスリリングです。
昭和36年くらいのビルになると、今のように踊り場でスイッチバックする階段になっていて、
階数も10階建てとか11階建てになりますね。
ChinchikoPapa
どうして10階ではなく、中途半端な奇数階の9階建てなのか?・・・と、ずっと疑問に思っていたのですが、employeeさんのコメントでようやく氷解しました。当時の高さ制限だったのですね。ありがとうございました。
いまはオフィス街はともかく、住宅街に近いエリアでは、もう少し高さ制限や階数制限が厳しくてもいいのではないかな・・・と思ったりします。40坪ほどの土地に、13階建てのマンションを建てるなんて話を聞きますと、大手町ビルヂングよりも高いんだ・・・とめまいがしそうです。
大手町ビルジングの階段は、怖いですね。わたしは、こういう繰り返しの螺旋状になっている高所が苦手だったりします。(汗)
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-09-16
employee
ChinchikoPapa
employee
ChinchikoPapa
ちょうど、運が悪く9/1の防災の日に36階で打ち合わせがあり、防災訓練でエレベーターがすべて停止している時間帯でした。13階程度なら我慢できても、15階以上になると毎日重たい水や配給食料を持って上がるのは、かなり体力のある人でも至難のワザですね。山登りとは違い、階段の上り下りは身体へのダメージが大きいようです。
employee
36階で思い出しましたが、4年前、霞ヶ関ビルに行ったところ、36階展望台が無くなっていました。
まず35階の東京會舘喫茶室で友人とコーヒーを飲みながら一休み。客は友人と私の2人だけ。明るく眺めの良い空間で静かにくつろぐことができました。
工事中の汐留再開発地区や、その反対側の国会議事堂を眺めながらぼーっと休んだ後、せっかく来たのだからと展望台に行こうとしたところ、店の人から閉鎖のことを聞きました。
あの最上階のスペースは区分けされていて事務所になっています。休みの日で人気もなく、窓も事務所の壁でふさがれていて、蛍光灯の明かりはあるものの、薄暗い。わずかに通路に出ている一枚ガラスの窓や35階から伸びている専用階段が、かつての名残を留めています。展望台行きの直行エレベーターは残っていました。
ChinchikoPapa
展望室が閉鎖されてしまったのは、とても残念ですね。先日、東京タワーと愛宕グリーンヒルズ、聖路加タワーなどにつづけて上る機会があったのですが、どれも霞ヶ関ビルの展望台が低層に感じる高さでした。山手線の車窓から、当時はあれだけ目立った霞ヶ関ビルなのに、いまでは注意してないと見過ごしてしまいますね。
employee
愛宕グリーンヒルズ、そういうビルヂングがあるのですか。昔JOAKがあったという芝の愛宕山にあるのでしょうか。聖路加タワーは3年前に都バスの車窓から見たことがあります。明石町近辺は一度散策しようと思っています。
超高層ビルヂングで働く人々は、どこで弁当をひろげるのでしょう。窓際の休憩室でしょうか。
景色をおかずに食べるご飯はおいしいことでしょうね。「秋日和」で岡田茉莉子が演じたOLのような人は毎日おいしい米の弁当を持ってきて食べているのかも知れませんね。
「こういう場末にあるすし屋が結構おいしかったりするんだよ」
「場末で悪かったわね」
employee
ChinchikoPapa
http://www.jmdb.ne.jp/1969/cs001630.htm
映画では、建設作業員の田村正和が最上階でクレーンを操作中、激しい雷に遭遇して怖くて泣き出し、降りて来られなくなる・・・という、ちょっと情けないシーンがあったと思います。(笑)
お弁当を食べるシーンがあったかどうか憶えてないですが、鉄骨の上階に小屋のような施設があったような・・・。そこで、お昼をたべるのでしょうか。でも、箸1本落としても、たいへんなことになりますよね。
愛宕グリーンヒルズは、ちょうど愛宕山の隣り、南側にある超高層ビルです。最上に近い階にレストランやバーがあり、かなり見通しがきく眺めです。佃島から東京湾のほうまで見通せて、パノラマ写真にはいいポイントです。お弁当を持っていくと、食べられる場所があるといいんですけどね。(^^
スチーム暖房、うっかり触れると火傷しますが、趣きがあって好きです。暖房のように、モーター音がしないのも静寂でいいですね。