柳橋物語。(1)

 

 いわずと知れた、大江戸一の華町だ。神田川が大川(隅田川)へと注ぐ、ちょうど出口のところに開けた、江戸東京では粋な街角の代名詞だった。柳橋は、神田川の最下流に架けられた橋。すぐ近くに、これまた大江戸一の繁華街、花火でも有名な両国橋の西詰め=両国広小路を控え、茶屋や舟宿、仕出し屋、髪結、小間物屋、箱屋、明治に入って俥屋、甘味屋などがところ狭しと並んでいた。日本橋が商人の街だとすれば、西両国(東日本橋)は江戸一の繁華街だったといえる。柳橋芸者は、江戸東京じゅうの華町の規範であり、この街を超える贅沢でお洒落な“遊び”は存在しなかった。ここを起点に、酒と料理を楽しんだあと浅草田圃(日本堤)の新吉原へ、あるいは本所・深川、さらには洲崎へと舟で繰り出すのが、遊び通の“お約束”のようになっていた。
 柳橋は、“曲軒”周五郎の『柳橋物語』にもあるが、火事で大川端に追いつめられた人たちが逃げ場を失い、ここで数多くの焼死者や溺死者を出したから架けられたといわれている。隣りの浅草御門(浅草橋)には早くから架橋されていたが、神田川の出口には橋がなかった。幕命で橋が架けられたのは、1698年(元禄11)と伝えられている。それまでは、この神田川の出口で『柳橋物語』の「おせん」がたどった半生のように、振袖火事(明暦大火)以降も数多くの不幸を生みだしていたのかもしれない。

 先日、薬研堀不動の住職とお話したとき、「柳橋芸者がひとりもいなくなっちゃった」・・・とため息をついたばかりだが、21世紀を迎えることなく、柳橋芸者はトキのように絶滅してしまった。高級料亭だけで軽く100軒を超え、最盛期には正規の芸者は1,000人近くもいた。神田川や大川へ舟を浮かべて遊ぶ舟遊び用には、常時150艘の屋形や猪牙がひしめき合っていたという。1970年(昭和45)の少し前、わたしは親父に連れられて柳橋芸者の引退の会に連れて行かれたことがある。別に、うちの親父が“旦那”だったわけではない。親父と小学校が同級生だった彼女は、子供心にもとびきり洗練された身ごなしや、しゃべりの美しさを備えていた。まだ50歳にも満たなかったはずだから、そのころからすでにもう、「商売になりゃしませんのさ」の状況だったのだ。
 1960年代の後半に、神田川や大川の汚濁はピークを迎える。いまからは想像もつかないが、もはや川ではなくドブと呼んだほうがふさわしい臭気が、あたり一面に漂っていた。神田川の無粋な護岸工事や、東京オリンピックのときにできた大川対岸(東両国)の高速道路も、風情をぶち壊して客足が遠のく要因となったのだろう。こんな臭気の中で、芸者を呼んで酒を飲んでも美味(うま)かろうはずがない。料亭は次々とつぶれていき、舟宿も運命をともにしていった。引退の会に連れて行かれた料亭が、どこだったのかはまるで憶えていないが(その後、ほどなく身売りされた「柳光亭」だったかもしれない)、当時は、神田川に残る舟宿は最下流の「小松屋」しか見えなかった。いまでこそ、舟宿は再び勢いを盛り返し、小松屋はもちろん、浅草橋から柳橋までモーター付きの屋形がひしめいているが、柳橋最後の本格芸者が引退するころは、ほんとうにうらびれた風情だった。
その後、記念写真から柳光亭だったことが判明している。

 親父のクラスメイトの柳橋芸者が引退したあと、1970年代後半ぐらいまで俥屋(人力車)と車力はいたと聞くが、わたしは目にした憶えがない。芸者の組合は、1990年代末まで存続していたと聞いているが、柳橋が終焉を迎えたのは、実質1970年前後だったろう。わたしは、新橋や銀座で遊びたいとはちっとも思わないが、彼女のような心底イキで洒落た、生粋の芸者がいる柳橋だったら一度は遊んでみたいものだ。下戸の親父でも惹かれて、酒も飲まないのに美味いもんを食って楽しく遊べた柳橋は、江戸東京の美意識を一身に背負っていた街だった。
 いまでも、当時の料亭の面影を目にすることはあるけれど、料亭ではなく“料理屋”となってしまっているのが、なんともさびしいかぎりなのだ。

■写真上は現在(2005年)の柳橋。いまの柳橋は、永代橋のミニチュアデザインを採用し、関東大震災の直後に架けられている。は、子供のころに唯一残っていた舟宿「小松屋」。だが、神田川河口はいまや、再び舟宿だらけにもどっている。
■写真中:明治初期の柳橋(手前)。正面には大川が流れ、中央には旧・両国橋が見えている。橋上にたたずむ男が、ザンギリとちょん髷のちぐはぐなのが面白い。
■写真下:神田川河口のほぼ同じアングルで、柳橋から両国橋を望む。いまの両国橋は、旧・両国橋よりも40mほど川上に架かっているので、上の明治初期の写真に比べて見え方がかなり大きい。

この記事へのコメント

  • 中島茂信

    いちもながら、感心させられますねえ。
    2005年08月04日 08:48
  • ChinchikoPapa

    いつもながら非常に読みにくく、矮小な体験談かつ個人的な思い込み話ですみません。(^^;
    2005年08月04日 11:11
  • masa

    こんばんわ。拙ブログで、当エントリにリンクを張らせていただきました。
    http://mods.mods.jp/blog/archives/001329.html
    事後承諾いただくことになりますが、どうぞ宜しくお願いいたします。
    2007年09月27日 00:43
  • ChinchikoPapa

    masaさん、わざわざご丁寧にありがとうございます。
    どうぞ、ご自由にリンクを張られてください。こちらからも、トラックバックを差し上げようとしたのですが、エラーでうまくリンクできないようです。
    2007年09月27日 01:05
  • masa

    申し訳ありません。隅のほうにちょっと書いているのですが、スパム襲撃に耐えかねて、TBを受け付けない設定にしています。申し訳ありませんでした。また、リンク張りを快諾くださいまして、ありがとうございました。
    2007年09月27日 03:28
  • ChinchikoPapa

    わたしのほうこそ、気づかずにすみません。
    masaさんのサイトからでしたら、いつでもご自由にお好きなところへ、リンクをお張りくださってかまいません。こちらこそ、リンクいただいて光栄です。(^^
    2007年09月27日 11:10

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