下落合は巨大なミステリーサークルだらけ。(4)

 

 江戸時代における富士信仰の流行から、数多くの参詣者を集め、江戸府内でもっとも有名だった高田富士(富士塚)は、早稲田大学9号館建設のために1963年(昭和38)に崩されてしまった。その際の発掘調査によって、高田富士はもともと前方後円墳であることが確認された。古墳の墳丘、すなわち後円部に、さらに土を盛り上げて高田富士を造作したと思われる。
 江戸期、古墳時代前期の造営とみられる富塚古墳は、水稲荷社の境内に巨大な姿を横たえていた。近所に住む富士講の熱心な信者だった、植木屋の藤四郎という人が、その墳丘に目をつけて高田富士を築いた。江戸でもっとも早くに造られた元祖・富士塚だ。それが江戸じゅうで評判となり、模倣した○○富士が各地に築かれてゆくことになる。植木屋の藤四郎は日行上人とも呼ばれ、富士山に58回も登ったこともある人で、高田富士を築くときに富士山頂から、わざわざ溶岩や岩を運んできている。1779年(安永8)に朱楽菅江によって著された『大抵御覧』に、そのときの築山の様子が書きとめられている。
 だが、当然ながら富士山から運んでくる溶岩や岩石だけではとても間に合わず、隣りの通称・毘沙門山の一部を崩して、土砂を古墳の上にかぶせている。空襲直後の空中写真で確認すると、この毘沙門山付近にも大きなサークル状の痕跡が見られるので、ひょっとすると富塚古墳に隣接した区画にも、もともと古墳時代中後期あたりの大きな円墳が存在していたのかもしれない。早大9号館の建設とともに東京オリンピックの前年、水稲荷神社は甘泉園公園の西へと移転し、富士塚の山頂部(溶岩)は甘泉園公園の東端に、そして富塚古墳から出土した玄室および玄室を覆う岩石は、水稲荷社本殿の裏へ移設された。かなり原型が崩されてしまったとはいえ、現在でもその姿を間近で見ることができる。
 また、富塚古墳は、江戸期に大規模な盗掘にあったことも記録されている。富塚古墳自体か、あるいは隣接して存在した円墳(?)からかは厳密に特定できないが、この一画から出土した古墳の副葬品が、原町にあった報恩寺に伝わっていた。記録によれば、それは「龍の玉」と「雷の玉」とよばれていたようで、おそらく副葬品の大きな水晶玉、ないしは玉石ではないかと見られている。江戸期に写生された図絵は残っているが、現物は報恩寺の廃寺とともに行方不明となっている。
 

 さらに、この富塚古墳を中心に、巨大なサークルは周辺部にも多く見られる。特に、大隈庭園内に見られるサークルは、特異なフォルムを見せている。下落合の氷川明神と同様に、大きなサークルにひっかかるかたちで、前方後円墳らしき形状を見ることができるのだ。この前方後円墳のかたちは、1886年(明治19)の東京実測図にも、大隈邸内にクッキリと写し取られている。
 では、富塚古墳(前方後円墳)を中心Click!に、その周辺に展開するサークルあるいは人工的と思われるフォルムを見てみよう。

■写真上は現在の水稲荷社。本来の位置から600mほど北西へ移動している。は水稲荷社本殿の裏にある、富塚古墳から出土した玄室の残骸。
■写真下は甘泉園東端にある現在の高田富士。墳丘の上部を覆っていた溶岩などが、本来の位置から450mほど北西に移された。は、明治期に大隈邸内に記録された気になる盛り上がりフォルム。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年09月30日 11:33
  • G.N.道元

    道人様
    とても素晴らしいですね。
    私のニックネームは「道元」ですから、「道」関係でこれからも勉強させていただきます。
    2012年04月14日 18:36

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