けっこうクッキリ高田馬場。

 

 江戸期は清水徳川家の下屋敷、明治以降は相馬邸、戦前は早大キャンパスの一部だった甘泉園公園の南に、幕府の馬術練弓場だった高田馬場(たかたのばば)はあった。家康の六男・松平忠輝を産んだ高田(たかた)殿が、景色のよい場所に庭園を造らせたのが最初で、三代将軍の家光時代に馬術の訓練と練弓場として整備された。
 馬場の規模は、東西へ六丁(約650m)、南北へ三十間余(約55m)というから、近くにあった小日向馬場(新宿区西五軒町)よりもはるかに規模が大きかった。高田馬場の外周は馬術の練習用に、内側は弓の神(穴八幡)が近くに鎮座していたせいだろうか、おもに弓術の練習用に使われていた。この穴八幡(高田八幡)では、歴代の徳川将軍が国家安泰を願って、馬場で流鏑馬(やぶさめ)の神事を奉納しつづけた。
 

 現在の高田馬場は、北側は甘泉園公務員住宅に接し、南側は早稲田通りの下になっている。東端は早大のキャンパスをはさんで広い道路に接し、西端は下町風の懐かしくも香ばしい甘辛「う」を食わせる「田川」もある住宅街だ。地上を歩いただけでは、高田馬場はすでに影もかたちもない。ところが、これを上空から見ると、古い空中写真はもちろん、現在の空中写真でもクッキリと高田馬場のかたちが浮かび上がってくる。まるで、ナスカの地上絵のようだ。
 

 西五軒町の小日向馬場は、オフィスビルやマンションの下に埋めつくされて、馬場の痕跡さえ見つけることができないが、戸塚の高田馬場のほうは、いまでもその姿かたちをかなりよくとどめている。特に、北辺の道筋には、現在でも古い住宅や小さな商店が残っていて、なんとなく懐かしさを感じるかっこうの散歩コースだ。

■写真上は高田馬場北辺の道、は広重『名所江戸百景』第115景の「高田の馬場」。遠方の富士山が描かれた下に連なる森が目白崖線(バッケ)で、方角から現在の中井あたり。
■写真中は1936年(昭和11)ごろの高田馬場、は金鱗堂・尾張屋清七版「牛込市谷・大久保絵図」1854年(嘉永7)。
■写真下:現在の高田馬場上空で、馬場跡は意外にそのままクッキリと残っている。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年05月13日 15:19

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