「みずすましの街」と猫。

 都心から“水たまり”が消えてから、どのぐらいになるだろう。雨が降ると、必ず舗装されていない凸凹の道には、大きな水たまりがいくつもできていた。そんな水たまりには、シオカラトンボやアオスジアゲハが寄ってきては水を飲んでいた。どこからやってくるのか、みずすまし(アメンボ)がいることさえあった。雨上がりのよく晴れた日には、水たまりの中に青空が映っていて、淵に立つとめまいがして怖かった憶えがある。
 ときどき家の建てかえや、マンションの建設予定地などで地面がむき出しになると、懐かしい水たまりに出会うことがある。この空き地も、いまは泥んこで大きな水たまりができているけれど、いずれはビルが建ってしまうのだろうが、それまではとんぼや蝶、みずすましたちの憩いの場になる。猫たちだって、土が香るところが好きなようだ。寄ってくる虫たちを観察しながら、ウトウトするのが気持ちいいのかもしれない。
 小林信彦の短編小説に、『みずすましの街』というのがある。通りの名前までは書かれていないが、戦前、東日本橋(薬研堀)にあった「すずらん通り」界隈の情景を描く下町の物語だ。すずらん通りは、まっつぐ行くと日本橋本町へと抜けられるが、いまでは通り名さえ残っていない。主人公は、「みずすましの清さん」こと清治という、地廻りヤクザの子分のひとりを描いた作品。いちおう小説という形態になってはいるが、これ、ほとんど実話である。
 「みずすましの○ちゃん」(「さん」ではない)は名前こそ異なるが実在した人で、わたしの親父とも知り合いだった。みずすましの○ちゃんに赤紙が来て戦争へ行くときにもらったものが、なぜかうちの押入れの行李にいつまでも残っていた。(いまでも探せばあるのかもしれない) 同じ千代田小学校(現・日本橋中学校)の出身なのかな? 同じような情景は、三木のり平の『のり平のパーッといきましょう』にも登場する。三木のり平も千代田小学校で、親父のひとつ上の先輩。女の子の袂にカエルを放りこんで遊んだ、ともに東日本橋のワルガキ仲間だった。ただし、三木のり平はイメージとは裏腹に喜劇を好まず、非常に生真面目で真摯な性格の人だった。
 

 ところで、みずすましの○ちゃん(小説では清さん)、物語にも出てくるが周囲からは「(ヤクザにしては)お上品な人たち」と呼ばれていた、すずらん通りの地廻りヤクザ組は、太平洋戦争が始まるとともに組員を片っぱしから戦場にとられて瓦解してしまう。ついでに、東京大空襲Click!でトドメをさされてしまった。それまでは、みずすましの○ちゃんがスイッスイッと街中をすべって歩くほどに、たとえあぶれ者ややっかい者にさえ、日本橋はとても住みやすく暮らしやすい街だったわけだ。街中に、渡って歩きやすい“みずたまり”のゆとり・・・があったのだろう。
 戦前の地廻りヤクザは、お金持ちの旦那相手の賭場も開くが、街の半端者・あぶれ者=不良を吸収して迷惑にならぬよう「更正」させる(仕込む)家裁+少年院のような役割、話がこじれたときの仲裁人あるいは代言人、便利屋、公証人、コンサルタント、さらには町内会長のような役割をも担っていた。佃島における「佃政」のような存在で、現在のいわゆる「暴力団」とは異質のものだ。小説では伏せられて登場しないが、このすずらん通りにあった一家は「金柳会」といって、両国広小路から人形町、大伝馬町、小伝馬町、浜町、柳橋、浅草橋、蔵前、南浅草、さらに東両国まで縄張りを持つ、東京でも屈指の大きな一家だった。小林信彦が執筆した当時は関係者も残っていたろうが、もう戦後60年も経過しているのだから、大っぴらにしたっていいだろう。東京で同じような会は、いまではTVでドキュメンタリーにもなった、浅草界隈の女親分の一家しか存在していない。
 みずすましが気持ちよさそうに渡れる、水たまりのある町。水たまりの脇で、ネコが気持ちよさそうに昼寝のできる街、そんな許容範囲が広く度量の深い街が、暮らしやすさの条件なのかもしれない。なんだか、「気になる猫」だか「気になる本」だか、わけのわからない記事になってしまった。

■写真上:水たまりと昼寝猫。後楽の神田川沿いあたり。
■写真下は『みずすましの街』所収の小林信彦『侵入者』(文春文庫)、は三木のり平『のり平のパーッといきましょう』(小学館)

この記事へのコメント

  • いのうえ

    Chinchiko Papaさん こんにちは。 長い緊急メンテナンスでしたね。 さて、
    今回のエントリー、共感致しました。 「わけのわからない」なんて事はなく、とても良く「わけのわかる」記事です。 
    私の親父も下町育ちで 「ヒ」と「シ」が反対になっちゃうシトなんですが、年老いてますます盛ん、この夏も 水泳にダンスに毎日を忙しくしています。 スキンシップというか、話に興がのってくると、肩と肩をすりあわせてきたりするのですが、これは 親父だけのくせなのかな?
    2005年07月03日 01:47
  • ChinchikoPapa

    途中で「Error503」の表示が出ていましたので、これはメンテナンスなんてもんじゃなくて、ネットからサーバを切り離してなんらかの作業をおこなっていた、もはや「システム事故」レベルだと思います。DNSサーバが、「そんなサーバはこの世に存在しません」と返してくる「Error503」は、Webシステムの世界ではあってはならない表示なんですね。サイバーアタックで、サーバが乗っ取られそうにでもなったのでしようか?
    わたしは、「ひ」と「し」がうまく言えない親父を、「そんなバカな」と半分バカにしていたのですが、30代後半からうまく言えない自分を発見して、愕然としました。「中山弘子新宿区長」(なかやまひろこひんじゅくくちょう)、これ最悪です。(笑) こういうのを、ミーム(meme/文化遺伝子)というのでしょうか。
    2005年07月03日 12:49
  • hedawhig

    フフフ♪ 顰蹙区? 
    顰蹙者は何方でしょうね?
    2005年07月03日 19:41
  • ChinchikoPapa

    (笑) つい、「ひんじゅく」と発音しちゃいますが、「顰蹙区」なんて言ってませんよ。い、いえ、「ひんじゃくく」なんてめっそうもない、もっとさらに言ってませんって。(>
    2005年07月03日 23:06
  • hedawhig

    クックク フフ 
    貧弱区! 受けてます、座布団100枚!!差し上げます。
    私はまだ1代目の江戸生まれです。ひとしは完璧と思っています。 えっへん!
    しかし、話がずれてしまいますが、 「で」が変なのか? 「れ」が変なのか解らないのですが・・・
    電話で「・・・そうれすか。」と返事をしているらしい? よくボスに叱られました。
    そうですか・・・そうでしょ?・・・・の時が頻繁におかしいらしい。
    電話を切ると待ってましたとばかりに 「いい大人が、「そうれすか」・・・なんだ!ちゃんと発音できないのか!」と怒鳴ります。 愉しい会社でした♪
    本人はしっかり発音しているつもりなのですが。 
    フッフッフ  暗い過去を思い出してしまった。
    2005年07月04日 00:02
  • ChinchikoPapa

    「そうれすか」・・・という方は、妙正寺川に面した神田精養軒パン工場の近く、わたしと同じようなPapaのいるマンション前あたりにホウキを持って、「おれかけれすか~? レレレのレ~!」と、道路を掃除しているおじさんにいたりしそうです。(笑)
    「ひ」と「し」のほかにも、東京の下町方言をずいぶん遣っているのに、最近よく気づきますね。子供のころ、よく「じゃんか」言葉を遣っていたんですが、山手ではついぞ聞きません。「そんなことねえじゃんか」とか、「きびが悪りいじゃんかよう」といった遣い方をするのですが、下落合産まれのうちのオスガキどもは、もちろん遣いません。(^^;
    2005年07月04日 00:29
  • 中島茂信

    のり平は読んでいますが、他の本はまったく手つかずです。おみそれしました。
    2005年07月14日 18:57
  • ChinchikoPapa

    最近、書店の棚を覗いてみたのですが、『のり平のパーッといきましょう』は文庫化されてすぐに見つかりましたが、『侵入者』が見当たりませんでした。「みずすましの街」を収録した本は、なぜかすぐに絶版や品切れになってしまうケースが多くて、ちょっと心配しています。Amazonへ注文した友人も、なかなか届かないと言ってますし・・・。
    2005年07月14日 19:34
  • ChinchikoPapa

    ほかにも、たくさんのnice!をありがとうございます。>アヨアン・イゴカーさん
    2009年03月07日 20:25
  • Tigerkids

    ブログ拝見いたしました。
    私の祖父は戦前〜戦中にかけて、日本橋浜町できんりゅう組かきんりゅう会というテキ屋を束ねる地回りの親分をやっていたと、父や伯母に聞いたことがあります。空襲で焼けだされてその後、港区西久保巴町に引っ越して表向きは梱包材料店を営んでいましたが、その2階では取り締まりの厳しくなった賭場を隠れて開いており、その当時の霞ヶ関の政治家や新橋辺りの商店のお金持ちの旦那集が、夜ごとおと連れては大枚を掛けていたらしいです。戦後は公営ギャンブル以外は法律に触れてしまうので、次第に賭場は消滅して表の家業を父が継いだらしいです。昔の日本人には珍しく身長も180cm以上あったらしく、浜町界隈では知らない人はいなかったと聞いていますが、ネットで名前を検索してもそれらしい記事は見当たりません。出身は静岡県ですが地元にいた時からヤンチャを繰り返していたらしく、ついに居られなくなって、東京に出てきたらしいです。母がお嫁にきた時はあご髭がへその下まであって、背中一面に入れ墨が入っていて、凄く怖い人だったと言っていました。当時から気が短い面もあったようで、近所の発情期のネコをうるさいと言って空気銃で撃ち殺していたという話も聞かされていました。ChinchikoPapaさんは当時の日本橋界隈に詳しいようなのでもし祖父の事を何か知っていたら教えて下さい。祖父の名前は竹内幾太郎といいます。よろしくお願いします。
    2013年07月11日 14:06
  • ChinchikoPapa

    Tigerkidsさん、貴重なコメントをありがとうございます。
    また、お返事が遅れて、すみません。
    東日本橋(薬研堀)のすずらん通りにあった金柳会と、日本橋浜町のキンリュウ会(組)とが同一のものか、また異なる組かはわかりませんが、お隣り同士ですので、なんらかのつながりがあったのかもしれません。薬研堀の金柳会は歴史が古く、江戸時代からあったように親父からは聞いていますので、日本橋浜町の組とはまた別の(本部?)組織だったものでしょうか。
    ただ、戦前あたりから薬研掘の金柳会は、女性の親分が仕切っていたようですので、おそらく浜町のキンリュウ会とは別のような気がします。竹内様というお名前は、わたしは親父から聞いたことがありませんね。きっと、縄張りというか、仕切りのエリアが異なっていたのではないでしょうか・・・。お役に立てなくて、すみません。
    2013年07月12日 23:49
  • ChinchikoPapa

    Tigerkidsさんのコメントから、面白いエピソードを思い出しました。
    祖父から、戦時中の思い出を話してもらっているとき、食べるものがなくて困ると、よくスズメをとって食べた・・・という話を聞きました。醤油を塗ってよく焼くと、骨までカリカリ食べられたというのを聞いて、わたしが「美味しい?」と訊ねたら、「ちょっと待ってなさい」といって、戸棚からおもむろに布袋に入れた銃を取り出したのには驚きました。もちろん、猟銃ではなく空気銃ですが・・・。
    それを持って庭に出ると、隣り近所を気にするふうもなく、いきなりパーンと撃ったんですね。すぐに、血だらけのスズメが落ちてきたので腕は確かだったんでしょう。それを、から揚げにして食べさせてくれたのですが、確かに美味でした。w
    でも、いきなり孫の前で銃をぶっ放す祖父を見て、娘である母親や伯母は非難するどころか、なんとなく昔を思い出したような、懐かしげな顔をしていましたので戦争体験者はすごいな・・・と、子供心にも感じたものです。
    2013年07月15日 17:37
  • Tigerkids

    久しぶりにこのブログを拝見したら、 ChinchikoPapaさんからのコメントが載っていたのでコメントさせていただきました。コメントを頂いてから2年も経過してしまい申し訳ございません。昨年の暮に父が経営していて弟が引き継いだ虎ノ門の梱包材料店が立ち退くことになり、その時に父の遺品を整理していたら、昔の祖父の写真が出てきました。それを見ると第一次世界大戦の時は陸軍の機関銃兵だったみたいです。体が大きかったので重い機関中を担いで最前線で戦えたのでは?と思いました。なので空気銃など祖父にとってはオモチャ同然だったのかも知れません。庶民も戦争を身近に感じていた時代だったんですね?
    2015年07月10日 12:56
  • ChinchikoPapa

    Tigerkidsさん、久しぶりにコメントをありがとうございます。
    きっと、空気銃などオモチャ感覚だったのでしょうね。いまの、BB弾をつかうモデルガン的な感覚で、気軽に撃っていたのではないかと思います。華族の家庭では、子どもに空気銃を買ってあげているぐらいですので、あまり危険なものという意識がそもそも希薄だったのでしょうね。
    こちらでも、陸軍士官学校で配布された演習の記念写真が、知り合いのお宅から大量に見つかり、その一部をシリーズ記事で掲載していますが、重機関銃を固定台座ごと持って兵2名が移動しているシーンがあり、いかにも重たそうですね。
    2015年07月10日 14:59

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