下落合は巨大なミステリーサークルだらけ。(3)

 

 焼け跡もなまなましい、戦後すぐの下落合を上空から眺めたとき、無数の“ミステリーサークル”Click!が存在するのに気づいてから半年近く、ようやくその正体がつかめてきた。神田川の河岸沿い、早稲田から戸塚、下落合、上落合Click!、大久保(北新宿)にかけて、「百八塚」というキーワードが存在する。Webサイトを検索すると、いまやたった1ページの1箇所だけだが、新宿区観光協会サイトにそれは記述されている。
 http://www.shinjukuku-kankou.jp/map_ohkubo_12.html
 「百八塚」とは、無数に存在する墳墓という意味だ。鎌倉の覚園寺裏山(鎌倉アルプス)にも、「百八やぐら」という横穴式墳墓が存在する。後者のものは、鎌倉武士たちの横穴墓(やぐら)だが、下落合をはじめとする大小のサークルは、やはり古墳時代の前方後円墳(前期)、帆立貝式古墳(中後期)、巨大な円墳(後期)だったようだ。一連の「百八塚」のひとつと見られ、出土物が確認されて明確に古墳と断定されているサークルには次の4箇所がある。ほかに、大久保地区では明治期にいくつかの「百八塚」が崩されているが、発掘調査は行われていない。また、戸塚(十塚/富塚)地区には耕地化のために墳丘を崩し、出土物を寺などで供養した記録が庄屋文書に見えている。
富塚古墳(前方後円墳)
 1963年(昭和38)に崩され、いまは早稲田大学9号館の下になっている。「戸塚」の地名由来となったといわれているが、別に戸塚村内には10基の墳丘(おそらく円墳)があったので、「十塚」が戸塚になったのだ・・・という記録も残されている。玄室をはじめ出土物は、いまは水稲荷神社の本殿裏に置かれている。
 

大塚古墳/浅間塚古墳(円墳)
 上落合の月見岡八幡宮(移転前)は、もともと境内に巨大な古墳(円墳)があった。その古墳の頂上には、江戸期に盛んだった富士講の富士塚が築かれていた。1929年(昭和4)に、道路工事のために崩されてているが、その際に古墳期の埋蔵品が多数出土している。地名の字(あざな)として、昭和初期まで「大塚」の地名が残っていた。

金塚(円墳)
 やはり神田川沿岸、上落合から小滝橋を南に下った、大久保村の一画にあった円墳。古墳の脇に奉られていた、おそらく江戸期の石地蔵「金塚地蔵」が現存している。ここからも、古墳の埋蔵物が発掘されている。新宿区教育委員会では、「百八塚」のひとつと規定しているようだ。また、金塚という名称もひっかかる。金(かね=鉄)の塚ということは、江戸期以前に多数の鉄器が出土していたのではないか?
真王稲荷塚(円墳?)
 同じく、大久保の百人町にあった「百八塚」のひとつで、明治期に崩されている。塚の頂上には、稲荷の祠が奉られていた。品川赤羽鉄道(山手線)の建設時に崩されたと思われるが、本格的な発掘調査はされなかったようだ。ただし、「百八塚」のひとつだという伝承のみが、はっきりと地元に残っていたらしい。
  
 「百八塚」を築いたのは、戸塚町の宝泉寺にゆかりのある「昌蓮」という僧だった・・・という伝説がある。だが、地元に「百八塚」のひとつだと伝わる丘陵を発掘すると、古墳の玄室や遺物が出土するところをみると、もともと古墳だった築山に“仏供養”の名目でなんらかの祠や碑を建ててまわったのではないか? なぜなら、早くから開墾され田畑になっていた区画にも、大きなサークルがいくつも観察できるからだ。「昌蓮」が田畑をあえてつぶして「百八塚」を築き、再び田畑にするために開墾された・・・とは、どう考えてもありえない話だからだ。それに、これだけ巨大な塚を無数に築くことなど、ひとりの僧の土木仕事と蓄財ではとうてい不可能だろう。
 こうしてみると、幸い耕地化のために崩されることなく、もともとそこにあった古墳の巨大な墳丘が、室町~江戸期に仏教や神道と結びついて信仰の対象となっていったのがわかる。すなわち、もともと古墳の墳丘であったものに手を加えて、富士講の「○○富士」にしたり、庚申講の「庚申塚」にしたり、大名屋敷の庭園に取りこんで築山にしたり、稲荷や八幡を奉って「稲荷塚」「八幡山」と称していたフシが見られるのだ。
 これを踏まえて、神田川沿岸を改めて眺めわたしてみると、新たにさまざまなことが発見できる。例をあげると、たとえば穴八幡(高田八幡)の「穴」とは、古墳の玄室へとつづく羨道穴であったことがわかる。穴八幡の境内からは、横穴式古墳または崩された古墳の玄室への羨道口が顔をのぞかせていた。(いまは工事中だが現存している) もちろん富士塚(高田富士)は、前方後円墳だった富塚古墳の築山をちゃっかり利用したものだ。また、旧肥後細川藩の下屋敷(新江戸川公園)の北辺にあったといわれている「鶴塚」と「亀塚」(のちに老松2本と判明)、さらに富塚古墳の近くにある戸山公園内の「箱根山」。「箱根山」は、従来の説明では尾張徳川家の下屋敷で、池泉回遊式の庭園を造るときに出た土砂を積みあげた・・・ということになっているが、ほんとうにそれだけだろうか?
 

 ほぼ正円をしているサークルが2つ重なる箱根山は、もともと円墳があったところへ造園で出た土砂をかぶせて、庭園の築山としたのではないか?(空中写真を見ると、その痕跡がある) 標高44.6mの箱根山は、庭園造成の単なる築山としてはあまりに巨大すぎるのだ。これまで一度も発掘されたことがないので、その正体はわからない。でも、もしこれが直径50mを超える巨大な円墳の重なりだとすれば、下落合に見える巨大なサークル群が古墳の痕跡であっても、なんら不思議ではない。しかも、下落合の旧田畑地に点在するサークルには、100m級もめずらしくないのだ。また、「箱根山」の近くには、穴八幡や富塚古墳はもちろん、古墳時代の住居遺跡を含む戸山遺跡が存在している。
 さて、話を下落合にもどせば、御留山の下には「丸山」という字(あざな)が古くから存在していた。首都圏では最大の、芝にある丸山古墳(前方後円墳)Click!字も「丸山」だったことを考えあわせると、そこになんらかの人工的な築造物をどうしても想定してしまうのだ。神田川流域は、古墳時代における「南武蔵勢力」のテリトリーに属する。「百八塚」とは、古墳時代の前期~後期にいたる、神田川沿岸に築かれた膨大な古墳群ではなかったろうか?

■写真上は戸塚の穴八幡社(高田八幡社)、は出現した横穴または玄室への羨道。
■写真中は1954年(昭和29)の富塚古墳。現在は早大9号館の下になってしまっている。は、前方後円墳から出土した玄室。いまは甘泉園隣り、水稲荷社の本殿裏に再現されている。
■写真中1911年(明治44)に撮られた月見岡八幡社(上落合)の境内。左手に大きな円墳があり、「大塚」または富士信仰から「浅間塚」(富士塚)と呼ばれていた。その後、月見岡八幡は移転し円墳は道路の下になってしまう。
■写真下は現在の木々が繁る「箱根山」、
は1970年代の同山。樹木が成長しておらず、築山のかたちがよくわかる。

この記事へのコメント

  • 高石公夫

    大塚古墳: 私の実家は現八幡公園の西の入り口近くにあり、子供の頃はこの神社が遊び場でした。特に富士塚(昭和4年の工事の後に移転されたもの?)だと思いますが、よく登っておりました。溶岩を積み上げたもので危険なため神社の方に見つかると叱られるのですが、当時あまり高い建物もないのでそこそこよい眺めでありました。今度出土品を是非見たいと思っております。
    2006年08月15日 12:57
  • ChinchikoPapa

    先日、円墳と思われる古墳の上に築かれた長崎富士を見てきたのですが、やはり富士山の溶岩が築山の上を覆うようにコーティングされていました。戸塚の高田富士(現在は甘泉園内)も、ちょうど山頂あたりが溶岩だらけだったようですね。江戸期には溶岩をいっぺんには運べませんから、少しずつ手分けして何年もかかって集めていた様子が記録されています。
    わたしも、出土品を一度見てみたいのですが、どこかの大学の収蔵室にでも入ってしまったものか、あるいは戦争の混乱で行方不明になってしまったものか、出土品の記録はありますが、まだ目にしたことがありません。
    2006年08月15日 15:15
  • 高石公夫

    大塚古墳についてお伺いいたします。「ミステリーサークル(8)の「上落合一帯にに残ったサークル」Clickには大塚古墳が山手通り・早稲田通り交差点東側と記述されており、本稿の写真と同じものが掲載されているようですが、大塚古墳と月見岡八幡宮古墳とは別ものなのでしょうか。
    2006年08月16日 13:35
  • ChinchikoPapa

    これが、実はわたしも確定ができないので、そのままにしてあります。
    時系列が先の(3)に書いた「大塚古墳」の伝承は、「落合富士」の記述とともに新宿区教育委員会の「新宿の文化財」(1982年・昭和57)では、月見岡八幡の旧境内つまり八幡公園にあった・・・ということになっています。(もともと存在した塚も、大塚と呼んでいたのかもしれません) これは、地元の方からお話をうかがったときも、「大塚」という名称で呼ばれていました。
    ところが別の資料、たとえば「新宿の散歩道」(芳賀善次郎/1972年)では、(8)に書きました山手通りと早稲田通りの交差点近くに、百八塚のひとつと見られる「大塚古墳」はあった・・・ということになっています。
    ところがところが(笑)、同じ新宿区の新宿歴史博物館が発行している「新宿区の民俗」(1994年)では、山手通りの交差点のほうを「浅間塚」(落合富士)として、山手通り工事のとき月見岡八幡に移築された・・・というような記述が見られ、「大塚」の名前は出てきません。この「浅間塚」には、先の「大塚古墳」の写真が使われていたりします。
    そして、もっと困ったことには、「豊多摩郡誌」(1916年)の紹介文を見ますと、山手通り交差点(もちろん、当時は交差点が存在しません)の「大塚」は富士塚とも呼ばれ、「百八塚の一ならむか」としています。こちらには、「浅間塚」の呼称はまったく登場しません。
    地名としての上落合大塚は、ちょうど月見岡八幡と山手通り交差点の中間あたりですので、八幡公園にもまた山手通り交差点にも、双方に「大塚」と呼ばれる墳丘があった(東京には大塚とされる古墳丘が多いです)ものか、あるいは山手通りの本来は「浅間塚」と呼ばれていた落合富士が移築されて、旧・月見岡八幡の境内にあった「大塚」と習合され、山手通りのほうもそう呼ばれるようになってしまったのか、あるいは逆に、「大塚」が移築されてからもともとの落合富士のあった「浅間神社」の名称から一方を「浅間塚」、一方を「大塚」として区別しようとしたものか、想像はいろいろとできてしまうのですが、資料の記述が多種多様ですので、うっちゃったままにしているのが実情です。(^^;
    2006年08月16日 15:02
  • 高石公夫

    ご苦労の一端を垣間見た思いがいたします。細かくお教えいただきありがとうございます。昭和25~7年だと思いますが、隣の幼馴染の親戚が山手通りを渡ったところ(現上落合3丁目)にあり、何度か遊びに行ったことがあります。その時の記憶ではうっそうとした森の脇を通り、草茫々の広い広場のような道を横切って行ったような記憶があります。この森は現在木曽路というしゃぶしゃぶレストランがあるところです。まだ、何本か大きな木が残っておりその面影が残っておりますが、確かその辺りであったと記憶しています。これから推測すると早稲田通り近くの一角にあった大塚古墳も宅地化される以前の昭和初期には写真のような森が広がっていたことが納得できます。国土地理院の終戦直後に米軍が撮った航空写真を見ると木曽路のある場所に森らしきものが写っておりました。
    2006年08月17日 17:17
  • ChinchikoPapa

    当時の面影をご丁寧にお教えいただき、ほんとうにありがとうございます。そのような風景の中を、わたしも一度散策してみたかったです。
    改正道路(山手通り)の工事が北から少しずつ南下し、「大塚」(浅間塚)にひっかかることが計画として判明していた1932年(昭和7)の『落合町誌』に、「大塚」(とその移転)に関する記述がありますと、リアルタイムで信憑性がとても高いと思うのですが、残念ながら1行も記述が見られません。
    戦争を挟みまして、発掘調査の記録資料も失われているのか、あるいは戦後の混乱で行方不明となったものか、見つからないのがたいへん残念です。下戸塚界隈のように、塚山を崩して出土した埋蔵物が、江戸期に寺社などへ寄進されていますと、あと追いで調べることも可能でしょうが、明治以降ですと役場や大学の研究室で保管されていた可能性が高く、灰になってしまったのかもしれませんね。中井駅周辺の鍛冶場/タタラ遺跡についても、調査した考古学者の名前まで判明しているのに、資料が見つからないのがとても残念です。
    2006年08月17日 18:11
  • ChinchikoPapa

    いつもリンク先へのnice!を、ありがとうございます。>kurakichiさん
    2009年09月30日 11:34

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