目白文化村が建設された大正半ばすぎから、下落合界隈は爆発的な人口増加をつづけることになる。1912(大正元)の下落合村の人口は、わずか3,652人にすぎなかったが、関東大震災を境に都市部(特に旧山手)の住民たちが近郊の山手へと移転し、1931年(昭和6)の落合町の人口は32,885人と、20年でほぼ10倍近くの人口増となった。
国際聖母病院や豊多摩病院などの大病院が近隣にでき、同時に数多くの医者が転居してきて医院を開業した。1931年(昭和6)現在、文化村とその周辺の医療環境は以下のようだった。
・医院・・・34軒
・歯科医院・・・19軒
・産院(産婆)・・・31軒
・薬局・・・15軒
いまでも、下落合界隈は医院や病院がかなり多いが、それは昭和初期からの傾向だったようだ。目白文化村内には、次の4軒の医院があった。いずれも、第一文化村と第二文化村の中だ。第三文化村は、聖母病院が近接していたので医院は開業しづらかったのだろう。
①箱崎内科医院(下落合文化村70番地)
②小林小児科医院(下落合文化村1642番地)
③戸村外科・皮膚科・泌尿器科医院(下落合文化村内)
④本田内科・小児科医院(下落合文化村内)
また、先に紹介した第二文化村南東斜面Click!にあった西洋館(写真上)だが、下落合1731番地にあった熊倉内科医院であることが判明した。当時の院長は、熊倉進医師であったと思われる。このように、東京都心の旧山手から、関東大震災をきっかけとして人口が郊外へ移動するにつれ、生活には欠かせない医院や商店なども、それにつれて移転するようになる。
医者が集中すれば、医院へ少しでも多く患者を集めるためにいろいろな工夫をする。目白文化村界隈に建てられた医院には、文化村の洗練された街並みを意識した、しゃれた建物が多かったようだ。
■写真上:工事中の改正道路(山手通り)沿いに建つ熊倉内科医院。
■写真下:下落合の医院リスト。(1932年・昭和7現在) 目白文化村内の医院のみ、住所が「下落合文化村0000番地」と小字表記のようになっているのが面白い。
★「目白文化村」サイトClick!
この記事へのコメント
エム
なりました。でもハウスドクターはみどり幼稚園のはす向かいの上田先生
でした。
熊倉医院のこの建物は山手通の拡張工事で敷地が後ろにずれるまで
あったように思います。
ChinchikoPapa
熊倉内科医院は、現在でも少し引っこんだところで開業しつづけられてますね。ちょうど、旧・武者小路実篤邸の少し下あたりです。
トロさんこと池田瀞七
この建物の斜め前(改正道路をはさんで)に急な階段道があり落合二中からの帰りとかに遠回りして遊んだ記憶があります。
改正道路が山手通りとしてからは丸山発新宿行きのバスに乗るためにこの急階段を利用したものです。
ChinchikoPapa
当時を知る方のお話は、たいへん貴重ですのでワクワクしてしまいます。1947年(昭和22)当時の空中写真に、熊倉医院前、工事中の改正道路の向こう側に、翠ヶ丘へと登るらしい急斜面の道筋が3本見えています。書かれているのは、この3本のうちのいずれかが当時は階段になっていたわけですね。
いまでも、ここは切通しのようになっていて、急坂になっています。わたしも、おそらく同じ道を歩いているように思いますが・・・。また写真を、記事下にアップいたしました。ご参照ください。
トロさんこと池田瀞七
ChinchikoPapa
津軽家は小さくなってしまいましたが、現在でもN邸の東側にありますね。浅利慶太氏が落一小学校というのは、初めてうかがいました。